白井貴子の若い頃。現在は?夫は?『Chance』はつぶやきから!

メッセージソング

白井貴子さんと言うシンガーソングライターの方は、若い方でご存じの方は、少ないかもしれませんが、筆者moonの若い頃、学園祭の女王と呼ばれ人気を博した方です。

今は、パーソナリティやキャスター、コメンテイターとして活躍する姿を拝見する事が多いかもしれません。

勿論、現在も現役で音楽活動されておりますが、当時はオールナイトニッポンなども担当されており、尾崎豊さんを推していました。

その後、コンサートなどでもご一緒にセッションされていたように記憶しているのですが、又、最近では東北で農業プロジェクトなどの参加も聞き及んでおります。

さてそんな白井貴子さんの若い頃から、現在を改めてフォーカスしてみましょう!




白井貴子の若い頃。生年月日や出身地、血液型。活発な少女時代!

白井 貴子(しらい たかこ)さんは、1959年1月19日生れなので、66歳(2025年12月現在)ですね。ご出身は神奈川県藤沢市です。血液型はO型です。

同姓同名の女子バレーボールの選手の方もいらっしゃいますね。

白井貴子さんのご実家は神奈川県の藤沢市にありますが、父が転勤族だったことで、全国をまたにかけて、大阪・福岡・名古屋と転々と引っ越しをしています。

 後に、中高校生の時は京都で過ごします。中学は桂中学校、高校は京都女子高等学校に通っていました。

大学は横浜にあるフェリス女学院短期大学音楽科(幼児教育ピアノ科)に進みます。

3歳の頃からピアノを習ってましたが、ピアノの練習が嫌いで、それよりも外で、走り回っているような子供時代だったそうです。

父は普通のサラリーマンだったと言う事ですが、白井貴子さんはバイオリンも少し習っていた時期があったとTBS系『サンデーモーニング』でお話されていました。

お父さんは昔気質の方で、習い事に関しては男はスポーツ、女は音楽(ピアノ)と言う風に思っておられて、白井貴子さんはその意向でピアノを習わされていたようです。

3歳の頃は、当時大学生だった叔父にあたる方も同居家族でした。ビートルズマニアで、ビートルズやローリングストーンズの楽曲が終始家の中で流れていたそうです。

「私は神奈川県藤沢市生まれで、父も母も歌が大好きでした。学生時代の父は普通の大学生でしたが、声がいいからアナウンサーのテストを受けてみろと先生に言われて、NHKのアナウンサー試験を受けたら最終面接あたりまで進んだそうです。母はずっと昭和気質の頑固な父に尽くし、家事すべてをきちんとこなして家族に尽くした人でした」

出典:週刊女性PRIME[人間ドキュメント]2025年9月7日付

そんな風に白井貴子さんはご両親の事を語っております。ご姉弟には弟さんがいらっしゃるようですが、詳細は解りませんでした。


白井貴子の若い頃。オノヨーコを見る為に、京都から郡山まで!

15歳の頃から、メロディーが頭の中に浮かんだりすることはあったようですが、プロ志向はまるで無く、譜面の書き方もよく分からなかったと言いますが、

音楽は好きで、中学時代はグループサウンズや、北山修さんなどを聴いていました。高校生になると、グラムロックと呼ばれる、華やかで中性的なロックミュージックに惹かれて行きます。

グラムロックの代表的なデヴィッド・ボウイやT-REXなどを聴いていたと言います。

1974年にオノヨーコさんが来日した際は、7月31日から開催された、郡山市の市制50周年記念イベントであるワン・ステップ・フェスティバル(英: ONE STEP FESTIVAL)に、

 ヨーコ・オノ&プラスチック・オノ・スーパー・バンドを見る為に15歳の白井貴子さんは友人と京都から郡山まで行きます。

この音楽フェスは、内田裕也さんも絡んでおり、キャロルやサディスティック・ミカ・バンド、ダウンタウン・ブギウギ・バンド、はちみつぱい等など、豪華な顔ぶれで行われました。

17歳の頃に、京都の河原町の喫茶店でよく音楽を聴いていたと言う白井貴子さん、その頃から、ミュージシャンも意識し始めたそうです。

短大はフェリス女学院短期大学音楽科(幼児教育ピアノ科)を選びますが、まだ、幼稚園やピアノ教室で音楽に関わる仕事ができればいいなと言う位の感覚でした。

短大を卒業すると、普通に家具店で働きだしますが、バンド活動も併せて行ってました。

ある日、友人が、勝手にソニーミュージックにデモテープを送った事で、1980年にソニーの新人オーディションを受け、合格します。

1981年11月1日、キャッチフレーズは「世界一キュートなシンガーソングライター」

 シングル「内気なマイ・ボーイ」をリリースして歌手デビューを果たします。その後は、同じ事務所の佐野元春さんのバックコーラスなどで研鑽して行きます。

 白井貴子さんがデビューした1981年は、松田聖子さん、松本伊代さん、河合奈保子さんがオリコン上位を彩り、都はるみさんや、竜鉄也さんなど演歌の大御所もベストテンなどでお見掛けする時代でした。

女性のロック歌手と言うのは3年後、4年後、浜田麻里さんや、SHOW-YAや、プリンセス・プリンセスなどデビューを果たしますが、

1981年の頃は、本当に少なく、又、男所帯のロックの楽屋では、スタイリストさんなどもいなかったと言います。


白井貴子の若い頃。尾崎豊、谷村新司、佐野元春との関係とは?

白井貴子さんの気質なのか?当時はフォークソングが苦手だったと言います。

白井貴子さんは、大学受験で一年浪人してしまい、お金が必要でした。アルバイト先の八百屋さんの奥さんがアリスの大ファンで、毎日流行っていた『チャンピオン』が流れていました。

「ライラ~ライラ~ライラ~」が、毎日リフレーンしていて、「もうやめて~!」と思いながら大根を洗っていたと言います。

デビューが決まり、事務所に挨拶に行き、頭を下げて「よろしくお願いします。」と顔を上げるとそこには、にっこり微笑む谷村新司さんが優しく出迎えてくれたのだとか。

そう白井貴子さんの事務所は、当時アリスや海援隊、バンバンなどが在籍する「ヤングジャパングループ」でした。

 そんな時期の白井貴子さんは、初めの内はジーンズに白Tシャツで、歌うようなスタイルでしたが、事務所や周りから、求められるものを諭され、ミニスカートで歌っていたと言います。

その為、白井貴子さんが生地を買って、お母さんに、衣装を縫ってもらったりしていたそうです。

その頃、竹内まりやさんもアイドル路線を求められる事に嫌気がさしていたと言う時代でした。アイドル、演歌、フォークと言うジャンルにコミカルな楽曲が人気を博す流れでした。

事務所の中もまだまだ、フォークソングの色が濃かったのですが、丁度、ロックへの路線の佐野元春さんが『サムデイ』のヒットを飛ばします。

その後、渡辺美里さんや、岡村靖幸さんなどロック系のミュージシャンが同じ事務所で活躍する事になるのですが、当初は事務所も女性のロック歌手をどう対処したらよいのか戸惑ってたのではと思います。

3年ほど鳴かず飛ばずの時期を過ごす事になった白井貴子さんでしたが、転機となったのが1984年、9枚目のシングル『Chance!』

シチズン時計のCMソングの依頼が来た時に「今がチャンス」と自分で唱えていたら、サビの部分が浮かんだのだそうです。

この曲は、作り始めた時に手ごたえがあったと言う通り、オリコン最高12位、約10万枚のヒット曲になりました。

その後、同じ事務所の武田鉄矢さんの番組でアシスタントパーソナリティを務めるなどをしたのち、ラジオ番組のオールナイトニッポンのパーソナリティを担当します。

デビュー前の尾崎豊さんが、オールナイトニッポンのオンエア中に「白井貴子に会わせろ!」とやってきたり、白井貴子さんの同番組内に尾崎豊さんの情報コーナーを設けたりと、やんちゃな弟の様でした。

私moonが19歳(尾崎豊さんと同じ年です。)になったばかりで、東京にいた頃に「尾崎がライブ中に、又、ステージから飛び降りて今度は骨折した!」と話題になりました。

その時のフェスが、『アトミックカフェミュージックフェスティバル’84』このイベントは、核廃絶を訴える音楽フェスティバルで、広島出身の浜田省吾さんをはじめ、加藤登紀子さん、など豪華なメンバーでした。

その中に、一部の若者から支持されていましたが無名に近い尾崎豊さんがいました。

まだ18歳の尾崎豊さんは日比谷音楽堂の照明のイントレと呼ばれる足場によじ登り7メートルの高さから飛び降り、

足を骨折しながら這いつくばり3曲を歌いきり、救急車の中で気を失うと言う現在の若い人達からしたら、『訳わからない』行為に及んだのですが、そのステージは今も、伝説となっています。

その骨折の事件とも言うべき出来事のおよそ一か月前にも、尾崎豊さんは白井貴子さんのライブでオープニングアクトとして登場して、同じ日比谷音楽堂で4メートルの高さから飛び降りるパフォーマンスを行っていました。


白井貴子の若い頃。現在は自然保護やエコ活動、農業の大切を伝える

白井貴子さんは、その後、1985年より、5人の男性サポートバンドメンバーとともに『白井貴子 & CRAZY BOYS』名義での活動を始めます。

 白井貴子さんはライブが始まるとすぐに総立ちになる為『総立ちの貴子』や『学園祭の女王』と呼ばれ、日本の女性ロックシンガーの先駆け的存在でした。

1987年8月、熊本で行われた伝説のオールナイト12時間の野外フェスティバル「BEAT CHILD」に出演していた白井貴子さん、当初35千人の予定が7万2千人の集客。

夜から朝まで一時間に70mmを越える雨。今の世の中なら当然中止ですが、そこには、尾崎豊さん、佐野元春さん、ザ・ブルーハーツ、ハウンドドッグ、渡辺美里さんなどなど豪華出演陣。

土砂降りの中、白井貴子さんがずぶ濡れで転倒しながら熱唱する姿に、男たちが引く訳にはゆきません。朝まで続いたこのライブは、音楽史上、最低で、最高のライブなんて呼ばれています。

めちゃロックですね。

しかし、商業的に音楽活動を続ける事に疑問を持ち始めていた20代後半になると、レコーディングで訪れていたロンドンで、ふと足元の野生で生えていたマーガレットが。

その美しさや、すがすがしさに心を打たれ、自然に生きる事、「大地に根を張り生きる」事について自分を見つめ直す事になり、仕事への向き合い方も変わったのだそうです。

クレイジーボーイズのリードギター本田清巳さんと共に渡英し、ロンドンで家を購入して2年間暮らします。

イギリスの暮らしの中で、日本の良さや、日本語の美しさに新たな思いが芽生え、1990年に日本に戻り、活動を再開します。

その後、結婚にこだわってはいなかったのだが、親を安心させるためと、冗談交じりにテレビ番組でコメントして、本田清巳さんと入籍しています。

お子さんはいらっしゃらないようですが、本田清巳さんは、白井貴子さんの事がものすごく好きで、会うたびに、「好きだ付き合ってくれ!」と言い続けていたそうで、

白井貴子さんにも徐々に気持ちが伝わっていったようです。現在のバンドでは甥っ子の白井岬さんがギターリストとして活躍しています。

この頃からテレビへのレポーターとしての仕事が多くなる一方、1995年、TBSテレビ『世界ウルルン滞在記』のレポーターとしてセネガル共和国を訪問した際に、アフリカ音楽のルーツに触れ、ミュージシャンとしても枠も広げます。

初めの内は、ロック歌手としての葛藤もあったと言いますが、流暢な口調と、実直な人柄がにじみ出るレポートで多くの番組でお見掛けする事になります。

それでも音楽活動も、東日本大震災の時の被災地への支援の為の「陸前高田 松の花音頭」や、北九州の若戸大橋開通50周年記念のテーマソング、小学校の校歌など幅広く、楽曲提供も多くあります。

きたやまおさむ(北山修)さんのイベントなどでも活躍されております。

白井貴子さんは、自分の在り方に、疑問を投げかけてくれたイギリスで見た野生のマーガレットから、端を発して、イギリスの暮らしの中でエコロジーへの関心を強く持ちます。

そして、食べ物の栽培から関わり合う活動も、始まります。山形県大石田町もその一つです。

2019年1月12日、山形県大石田町応援ソング「なつかしい未来へ」を発表しながら、山形の名物でもある蕎麦の栽培を地元の方達と進めます。

地元の藤沢市でも、有機栽培にこだわった大豆づくりを始め、味噌になるまでを手掛けます。

母の在宅介護体験など、やや忘れがちになって、スポットの当たらない普通の人達が通る道のりを熟しつつ、色々な形で発表してゆく白井貴子さんに勇気づけられる方は少なくないと思います。

いかがだったでしょうか?ロック魂を胸に抱きつつ、多くの人へエールをお送り続ける白井貴子さんの姿。若い頃から現在の活動にスポットを当ててみました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました