徳永英明の妻は?現在の活動とデビューまでの秘話。病気を乗り越え!

カバーソング

徳永英明の妻は、高野ゆみさんと言う方です。詳細は後ほど詳しくお伝えします。

彼はご自身のオリジナルのヒット曲をたくさん持ち、又、カバー曲ブームの火付け役としても『VOCALIST』シリーズでも有名です。

美しいメロディーに、ハイトーン、ハスキーな声に魅了された方もたくさんいらっしゃるのではないでしょうか?

そんな徳永英明さんの妻や、ご自身の生い立ち、デビュー秘話など、又、数年前のお病気のからの現在の様子などをお伝えいたします。




徳永英明が妻と出会うまで。出身や歌手活動のきっかけは?

德永 英明さんは、1961年〈昭和36年〉2月27日のお生まれなので、今年2024年には63歳になられます。

福岡県で生まれて、父は保険会社の営業マンで小学校時代は引っ越しが多かったと言います。

福岡市立別府小学校、(ここは橋本環奈さんも同じ小学校のご卒業です。)を卒業してますが、その後の引っ越しで、兵庫県伊丹市立南中学校を卒業しています。

伊丹市立伊丹高等学校を卒業後、大阪の観光専門学校に入りますが、のちに中退してしまいます。

徳永英明さんには中学2年の時にラジオから流れてくる音楽に励まされ勇気をもらっていたというように、音楽を聴き始め、中学3年生の時に、井上陽水の「氷の世界」を聴いて衝撃を受けました。

そして音楽で自分を表現したいと思う強い思いがあったのだと思います。


徳永英明の妻は?デビューまでの苦労と秘話、父との約束、友人の嘘。

徳永英明さんは、専門学校を中退後、19歳の時に上京します。アルバイトをしながらミュージシャンを目指す時代があったようです。

徳永英明さんは、父から「25歳までにデビュー出来なかったら、自分と同じ保険の営業マンになれ」と忠告されていたと言います。

そんなある日、徳永英明さんに音楽仲間から朗報を持ってきてくれます。「レコードデビューの話があんねん!軽井沢で合宿するの、どうや?」と言う話でした。

ところが…友人の話は全くのウソでした。 ただ喫茶店のバイト要員として、徳永英明さんを軽井沢に呼びたかっただけだったのです。

しかしこの後、この事がきっかけで彼の人生は大きく変わっていくことになります。

軽井沢で同じように夢を抱いた若者 大木誠さんと知り合う事になり、二人は意気投合しました。

喫茶店のアルバイトが終わると毎晩一緒に曲作りをするようになり、 夏が終わる前に、二人はあるバラード曲を完成させます。

その曲に大きな手応えを感じた彼らは、東京に戻ってからも、ともに創作活動を行ったと言います。

でも、翌年の春、大木さんは音楽の道を諦め、就職を決め、再び一人になってしまった徳永英明さんでした。

それでも落ち込んではいられないと、当時大人気だったオーディション番組「スター誕生」に応募。 見事、決勝大会までコマを進める事になりましたが、決勝大会結果、どこからも声は掛からずに終わってしまいました。

しかし、私がmoonが思うには、徳永英明さんにはかなり強い信念があったのでしょう。

徳永英明さんの心は折れていませんでした。音楽で身を立てるために、レコード会社近くの飲食店などで働き、

顔馴染みになった音楽業界の関係者に自作の曲の入ったカセットテープを渡したりするなど、積極的にアプローチをしていたようです。

当時は空前のバンドブームの中、レコード会社から、色の良い返事はありませんでした。

それでもとうとうある日、大手レコード会社の担当者から4曲入りのデモテープの感想を聞けるチャンスが舞い込みます。

すると「最後の曲、いいね」そう評価されたのは、かつて軽井沢で大木さんと作ったあのバラードでした。

そして、「他の三曲は君がやるべき曲じゃない」とも言われたと言います。

自分たちが手ごたえのあった曲で、目指すべき音楽の方向性が決まり、またこの頃から新宿ルイードで定期的にライブ活動を続けるなど、プロになるために邁進していました。

だが、あと一歩のところでデビューできないまま、タイムリミットは刻一刻と近づいていました。

そして1985年8月、24歳、父との約束まであと半年という夏に、彼はラストチャンスともいうべき、第2回マリンブルー音楽祭において、選んだ曲は5年間常に大切に歌い続けてきた大木さんとの共作したあのバラード「レイニー ブルー」でした。

 そして、見事に優勝を果たします。これで、メジャーデビューへの道が開けました。


徳永英明の妻は?ヒット曲メーカーとなり、結婚へ。

1986年1月21日、アルバム『Girl』、シングル「Rainy Blue」でRadio Cityレコードよりレコード・デビューを果たします。先述の父親との「25歳まで」の約束ギリギリの24歳10ヶ月でデビューとなりました。

自分にも経験がありますが、追い詰められといつも以上の力や気迫が出るのですね。きっと。

翌1987年には、『輝きながら・・・』がヒット、88年には武道館ライブ、90年1月には、『夢を信じて』をリリース39万枚以上の売り上げになります。

同年7月には『壊れかけのRadio』のヒット。ヒット曲を作る重圧の中で中学生の頃に純粋に聞いていたラジオから流れる音楽に感銘を受けていた自分を思い出しながら書いたと言います。

そんな風に快進撃を続ける徳永英明さん、1994年9月に結婚しています。芸能関係の知り合いの紹介だと言われています。


徳永英明の妻は元モデルで、息子さんがお二人、二人とも音楽関係の仕事をしている?

徳永英明さんは結婚したとき31歳で妻は35歳でした。奥さんは徳永英明さんよりも4歳年上の方のようです。

徳永英明さんの妻は、元モデルの高野ゆみさんと言う方で、日本テレビ系の『11PM』等でも活動されていた美人のプロポーション抜群の方と言う事です。

息子さんがお二人おられますが、ご長男が5~6歳の頃に徳永英明さんはモヤモヤ病(正式な病名はウィリス動脈輪閉塞症)と言う脳の異常血管の病気に襲われ、2001年5月から、2002年11月まで活動の休止を経て、病を克服。再び活躍の場に戻られます。

お子さんは息子さんがお二人、名前は長男が『優翔』さんで1995年生まれと言う事なので今年29歳でしょうか?(2024年現在)次男は『れいに』さんと言い1998年生まれの今年26歳になられる様です。

長男は音楽関係の会社に勤務していると言う事です。又、次男の方もバンドを組み活動されているという事です。

流石に血は争えないですね。まだまだ伸びしろがありそうです。

気になる、徳永英明さんですが、2005年に発売された女性ボーカリストのヒット曲のカバーアルバム第一弾作品「VOCALIST」は、日本ゴールドディスク大賞「企画アルバム・オブ・ザ・イヤー」を受賞します。

その後、2006年に発売された第二弾作品「VOCALIST 2」とあわせて80万枚を超える大ヒットを記録。

最新の第三弾でも、PRIDE(今井美樹)、桃色吐息 (高橋真梨子)、CAN YOU CELEBRATE? (安室奈美恵) といった、新旧大ヒット曲を徳永さんの独特のハスキーボイスで、歌い上げています。

2016年2月22日、もやもや病による脳梗塞発症予防のため左複合バイパス手術を行い、2週間ほどで退院されているようです。

現在は、のどや気管支、又、脳の病気などをケアしながら、昨年2023年4月1日から7月2日までのConcert Tour 2023 〜ALL BEST 2〜 ツアーも成功裏を収め、大人の歌をまだまだ届けてくれるでしょう。

以上、徳永英明さんの奥さんの事、デビューまでの秘話などを書いてみました。

 

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