山崎まさよしさんは、筆者moonが若い頃から活躍されている、ミュージシャンです。
当時、斉藤和義さん、中村一義さん、そして、山崎まさよしさんが、ミュージシャンの『3よし』なんて呼ばれていた時代もありました。
中村一義さんは、独自の道を歩んでおられて、現在3人のお付き合いがあるのか解りませんが、斉藤和義さんと山崎まさよしさんは、時々、一緒にレコーディングなどをやっておりましたが。
お二人ともお酒好きですからね~。今回は、山崎まさよしさんの若い頃から、奥さんのお話、最近の炎上騒ぎの裏にあった山崎まさよしさんの想いなどにスポットを当ててみました。
山崎まさよし若い頃。転校先の友人との距離を縮めた地元の太鼓?
山崎 まさよしさんの本名は山崎 将義(やまざき まさよし)です。1971年12月23日生まれなので、(2025年9月現在)53歳ですね。
身長は176cm、体重70kgとありますが、体重は時期によって多少異なるかもしれません。血液型はA型です。
滋賀県で生まれますが8歳の時、小学2年生2学期の時に、山口県防府市に引っ越しをして山口県防府市立牟礼(むれ)小学校に転校します。
転校生となった山崎まさよしさんは、地元の太鼓の練習を通して、友人が出来ていったと言います。
又、幼い頃の記憶に、母親が子守唄代わりに流していてくれたカセットテープにロシア民謡が入っていて、だんだん盛り上がっていく曲で、逆に眠れなかったのだとか。
う~ん、代表曲の一つ「One more time, One more chance」のような・・・?
そのまま、地元の防府市立牟礼中学校に入学すると、本格的に音楽活動を始めます。部活はバレー部に所属していました。
15歳頃から作詞や作曲を始めていて、中学3年生の時には友人と組んでいたヘビーメタルバンドでドラムスを担当し、文化祭で演奏したそうです。
山口県立防府西高校に入学すると音楽漬けの日々を送り、日本のニューミュージック、RCサクセション、憂歌団などから、ボブディラン、エリック・クラプトンなどを聞いていたそうです。
高校に入学するとすぐに、先輩に誘われてRCサクセションのコピーバンドを結成して活動していました。
又、一途な性格なのでしょうか?小学校時代からずっと好きだった女の子と、交際していた時期もあると言うので、楽しい高校生活だったのかと思われますが、
朝は苦手で遅刻の常習犯で1時間目の授業はほとんど欠席していたと言います。ドラム、ギター、ピアノ、ブルースハープなどを独学で習得したそうです。
山崎まさよし若い頃。恩人との出会いから、ブルースに目覚める!
山崎まさよしさんは、山口県立防府西高等学校卒業後、しばし、居酒屋の厨房で働いていましたが、1990年から日中は中関港のマツダ防府工場で、自動車運搬船内で自動車をベルトで固定する荷役の仕事をしていました。
そして夜になると山口県周南市にあるライブハウス「Boogie House」でライブ活動をするという日々を1年半過ごしていました。年齢的には恐らくその前の18歳くらいから?
始めにこのライブハウス『ブギ ハウス』に行き、マスターの森永正志さん(2012年7月14日に食道ガンで逝去)にライブのスタイルを相談に行きました。
森永正志さんは「ブルースはどうか」と、カセットテープにライトニン・ホプキンスを吹き込み手渡してくれたのだそうです。
その曲に感動した山崎まさよしさん、そこから、弾き語りのスタイルを確立していったと言うのですからこのマスターの功績はすごいですね。
マスターの森永正志さんが亡くなった時に書き上げられたのが、セイコーのCMソングにもなった『星空ギター』なんだそうです。
やはり山崎まさよしさん自身も大切な恩人と感じており、のちに自分のファンクラブの名称に「Boogie House ‐ブギ ハウス‐」と命名しています。
山崎まさよし若い頃。間違って受けたオーディション。最近の炎上?
山崎まさよしさんは、1991年になると、レコード会社「キティレコード」のオーディションを受けます。
しかし実際にオーデションを受けたのは、映画製作会社「キティ・フィルム」でした。
当然、キティ・フィルム主催のですから、(アクター)俳優のオーディションです。つまり山崎まさよしさんは、完全に勘違いしていたのでした。
かなり大規模なオーディションで応募者が1000人以上という規模のものでしたが、なんと最終選考まで残ってしまいました。
しかも、山崎まさよしさんが新人俳優のオーディションだと山崎が気づいたのは、同年7月に行われた東京での最終審査の直前でした。
最終審査の場で、山崎は自作の歌「Rough Rock’n Roll Boogie」「中華料理」などを歌いますが、「新人歌手のオーディションだったら間違いなく合格」と評価され、特別賞と言う事に。
しかし、そのオーディションに審査員として同席していたキティレコードの音楽プロデューサーに見いだされ、1993年春にキティレコードと契約・上京することが内定します。
その後、多少早めの1992年の秋に上京した山崎まさよしさんは、まだ19歳でした。1992年11月21日にRCサクセションの『トランジスタ・ラジオ』のカバーのCDをキティレコードから出します。
のちにこのCDは、プレミア物になりますが、当時は売れる事もなかったようです。
数年たったある日、町の電気屋さんの軒先の100円の均一のワゴンに並んでいたと山崎まさよしさんが話してました。
いよいよデビュー間近のあたりにキティレコードの経営が怪しくなり始め、山崎まさよしさんを見出したプロデューサーも退社してしまいます。
しかし、このプロデューサーは、必死に他のレコード会社に山崎まさよしさんを売り込みに回り、山崎まさよしさんも、制作活動を続けます。
その間、山崎まさよしさんはマネキン運びのアルバイトや、ライブ活動、楽曲提供などで3年ほど経過します。この下積み時代に作られた曲が名曲「One more time one more chance」だそうです。
山崎まさよしさんが当時住んでいた横浜の『明け方の桜木町』なんてフレーズも出てきて、切なくも優しいバラード曲です。
この曲にインパクトを受けた映画監督の篠原哲雄さんが、山崎まさよしさんを俳優として主役にした『月とキャベツ』と言う映画を撮っておりますが、もう少し先のお話ですね。
1995年になるとポリドール・レコードと契約がまとまり、1995年9月にシングル「月明かりに照らされて」でメジャー・デビューとなります。
山崎まさよしさんは23歳になっていました。「天才より凄いヤツ」なんてキャッチコピーで、デビューする事になります。
そこからは、後にスマップがカバーする『セロリ』などなど、多くのヒット曲を連発します。
その後、2023年10月21日の水戸のライブ中に「歌うのがしんどい。歌いたくない。」とか言い始め、通常20曲くらいの曲数を熟すのですが、8曲しか歌わず、炎上騒ぎになりました。
山崎まさよしさんは、ライブでMCでファンと、やり取りをする時間を多くとりたいと思ったらしいのですが、裏目に出てしまったようです。
山崎まさよし若い頃。結婚した妻と、二人の子供。ユニット『福耳』
山崎まさよしさんは2010年3月、39歳の時に9歳年下の『公子』さんと言う一般の方とご結婚しています。奥さんは大阪府の出身で和歌山県に住んでいた事もあると言う事です。
奥さんの公子さんは、小料理屋、居酒屋のようなところで働いており、料理が得意な方と言う事です。
そして、可愛らしい方だと言う事で、「嫁が可愛いから浮気はしない。」なんて事も、お話されています。
2011年の4月になると長男の「しゅう」君が生れます。現在14歳でしょうか?中学生くらいですね。
2013年の徳島県で開催された山崎まさよしさんのライブの時に2歳になるしゅう君がステージで紹介されて、ファンは大変盛り上がったそうです。
その後、2015年に長女の方が生れていますが、こちらは名前は非公開で情報もあまり出てきませんが、2025年の現在は10歳くらいなのだと思います。
2011年頃から、現在までだと随分、情報の取り扱い方が変わってきているので、家族を大切にされている山崎まさよしさんにとっても、娘さんの情報を出すのは、怖いのかもしれませんね。
山崎まさよしさんは現在、若い頃に楽曲の提供をしたバービーボーイズの杏子さん、同じ事務所で友人でもあるスガシカオさんとの当初一夜限りの予定だった音楽ユニット『福耳』を結成しています。
1988年に杏子さんの楽曲だった『星のかけらを探しに行こう』をライブで3人で歌うとたちどころに話題になり、以降3人で『福耳』として活動されることもありました。
福耳は、現在、スキマスイッチや、秦基博さん、元ちとせさん、竹原ピストルさん、さかいゆうさんなどと、山崎まさよしさん、杏子さん共に、同じ事務所の方が中心となり活動されています。
もちろん、現在も、山崎まさよしさん個人でも音楽活動は健在です。
さていかがだったでしょうか?今回は、山崎まさよしさんの若い頃、妻の方、最近の炎上騒ぎのお話などでした。
コメント