こんにちは、『あの頃のJ-POP情報局』の局長のmoonです。今日は、J-POPと言う言葉が出来る前のアイドルの方をチョイスしました。
その方は、『天地真理』さん。さて、年代によっては、知らない方もいらっしゃるかもしれませんが、moon世代にとっては、知らない人がいないくらいの人気のある方でした。
天地真理さんの若い頃、「国民的アイドル」なんて言われていた昔の活躍と、J-POPという言葉が、世に出る前ですが、実は天地真理さん本当はフォーク歌手を・・・、なんて話も深堀したいと思います。
天地真理の若い頃、幼少の頃の父母。現在の年齢は?
天地真理(あまち まり)さんは、1951年〈昭和26年〉11月5日生まれ。2024年には、73歳ですね。埼玉県大宮市(現:さいたま市)のご出身です。
本名は齋藤眞理(さいとうまり)結婚後は青木眞理(あおきまり)となってますが、離婚されているので、現在どちらの姓を名乗っておられるのかは解りません。
天地真理さんのご両親は天地真理さんが2歳の時に離婚しており、その時に母親と一緒に埼玉県の当時の大宮市から、東京の中野区へ転居しています。
天地真理さんの2歳の時、別れた実の父親は齋藤新太郎さんといい、長くに渡り軍人として、戦争を経験してきました。
大正の一桁のお生まれの方だと思います。昭和13年、この年は日中戦争の勃発による戦時体制のもとで、4月に「国家総動員法」が公布され、5月5日に施行された年です。
徴兵検査で甲種合格すると、敵地に赴くことになり、毎日、亡くなって行く戦友たちを、想い・・・いたたまれない気持ちもあったのでしょう強い酒を夜な夜な浴びるように飲んだと言います。
終戦を迎えた齋藤さんの心には、”虚無感”しかなく生き抜くために、色んな仕事をして、何をやったかも忘れてしまうような日々。
そんな中、昭和25年、斎藤さんは戸部きみさんという女性と結婚しました。この方が天地真理さんのお母さんです。その翌年、昭和26年11月5日に天地真理さんが生まれました。
先述の通り、長い戦場の生活は、精神的に粗暴になり、又、酒も留まらなかったのでしょう。陸王(当時の大排気量のオートバイ)を乗り回し、毎晩のように酒を飲み歩いたと言います。
年中けんかをして、負けたことが無いという武勇伝お持ちのようでした。又、これとは別に、女性問題もあったようです。
とうとう、天地真理さんが2歳の時に両親は離婚してしまいます。
天地真理の若い頃、国立音楽大の付属中高で、音楽の基礎を学ぶ
天地真理さんは、引っ越し先の中野区で1955年から1956年は中野保育園に通いますが、その後、上北沢に引っ越しをされています。
天地真理さんの母親は、保育士さんか、保育園などの給食を賄うお仕事で、父親はその当時は中古車の販売を行っていました。のちに不動産業も手掛けておられたようです。
そんな天地真理さん、上北沢に住んでいた頃は、幼稚園の敷地内にある宿舎の四畳半一間の部屋で暮らしていました。
小学生の時に当時30万円もする88鍵のアップライト・ピアノ(Kreutzer社製)を母親に買ってもらった天地真理さんは、国立音楽大学に通う女子大生からピアノを教えてもらったそうです。
天地真理さんは、メキメキとピアノの腕が上達して、1964年、狙っていた国立音楽大学附属中学校に入学することが出来ます。
在学中に練馬区桜台、さらに神奈川県座間市相模台へ引っ越しをされております。
1967年になると、国立音楽大学附属高等学校ピアノ科に進学しますが、手の大きさが小さく、ピアニストとしては致命的でした。
天地真理さんが好きだったベートーベンを弾きこなすには、手が小さい事で不利でした。
すると天地真理さんは、高校進学と共に声楽科へ転科して歌手を目指します。同高校在学中からジョーン・バエズさんや、森山良子さん等のフォークソングを聴きこんでいたと言います。
天地真理さんはフォークギターを購入し、自らギターの練習も始めたと言います。
授業ではカンツォーネ等の練習もしたそうです。高校在学中の1969年よりヤマハ音楽振興会附属教室ヴォーカルコースで学び始めました。
国立音楽大学に進む事を断念し、高校卒業後も、「中里音楽事務所」に所属し、プロ歌手となるために、レッスンに励んでいました。
当時のアイドルの中では、歌声も声量なども基本が出来ていたという事のようです。1970年の夏に成城にある用品店で、映画監督・斎藤耕一の妻で女優の天路圭子さんと偶然出会います。
あまりにも、素敵な笑顔に、天路圭子さんは天地真理さんをお茶に誘い、天路圭子さんが経営するスナックでアルバイトをすることになりました。
お店では、弾き語りで、『小さな私』のちの天地真理さんのヒット曲となる『水色の恋』の原曲などを披露し、人気があったそうです。
天地真理の若い頃、ドラマから歌謡番組まで、寝る間もなく。
天路圭子さんの夫が監督を務める『めまい』という映画に『斉藤マリ』と言う名前でチョイ役ではありますが、出演しています。
お店のお客さんには芸能プロデューサーの方など、芸能関係のお仕事の方も多く、天路圭子さんの勧めや、オーディション番組などに応募して、
渡辺プロダクションと契約、CBSソニーレコード(現在のソニー・ミュージックエンターテイメント)と契約を結ぶと、梶原一騎氏の原作の劇画の主人公の名前を当時デビュー予定の彼女の芸名に使いたいという申し出が事務所側からあったのだそうです。
その名前が『天地真理』だったのです。
その後、渡辺プロダクションは、ドラマへのオーディション1971年6月6日、当時人気番組だったTBSの『時間ですよ』では、不合格ながらも、共演者の森光子さんが天地真理さんを気に入り、一部台本を変えてまで、新登場人物として出演させることを同番組演出の久世光彦さんらに提案したと言います。
堺正章さん「松の湯の健ちゃん(宮崎健)」がひたすら憧れる「隣のまりちゃん」(マリ)役として登場すると、一躍脚光を浴びる事になりました。
1971年7月21日の初出演時には、「松の湯」隣家の2階の窓辺で白いギターを爪弾きながら「恋は水色」を歌いました。
天地真理さんは、女優さんを目的にしていた訳ではないが、「こうやって歌えるんだからまぁいいか。」というような心境だったようです。
キャッチフレーズは「(あなたの心の隣にいるソニーの)白雪姫」と言うものでした。
その後、演出をなさっておられた久世光彦さんは、作詞家としても知られておられる方で、1974年までの間「ちいさな恋」「ひとりじゃないの」「虹をわたって」「ふたりの日曜日」「若葉のささやき」「恋する夏の日」「空いっぱいの幸せ」「恋人たちの港」「恋と海とTシャツと」「想い出のセレナーデ」からなる一連の大ヒット曲を連発させます。
天地真理さんのファンの皆さんは、楽曲の間合いに「まりちゃ~ん!」と声を掛ける今と全く同じスタイルを確立させます。
その後、天地真理さんは、男性ファンが大変多く、日劇で「メロンが好きです。」と言ったら、全国から大変な数のメロンが届き、果物屋さんに引き取ってもらったとか。
あるいは、天地真理さんに切り落とされた小指が送られてきたことがあったそうです。あまりにも、天地真理さんが好き過ぎて、どうしても自分の一部を持ってもらいたかったのだとか。
こうなると、留まるところを知りませんが、当時の天地真理さんは早朝から翌日未明に当たる深夜3時まで働きづめで、睡眠時間は3時間程度、食事は移動中の車でサンドウィッチだけということが多かった」と述べています。
天地真理の若い頃、うつ病、激太り、結婚、離婚、娘、孫?現在は?
1970年代も後半を迎え、1977年になると1月23日、甲状腺機能不調を理由に、東京・港区三田の東京専売病院に緊急入院しました。
約1か月後の2月20日には退院したものの引き続き休養生活に入り、芸能活動を約2年半にわたり休業しています。
1980年代に入ると、それまで、多少の活動は熟しておりましたが、大ヒットなどには結びつかなくなっていました。
もう、アイドルとしての時期は過ぎ、新しい展開を迎えなければならない時期でした。実は後に、週刊誌などに出てしまうのですが、その時期、陰りを見せ始めた人気を気にし、
寂しくなり、うつ病になってしまったと言います。雑誌の人気アイドルのランキングなどでも、たった1年で大きくランキングが下がった事などにショックを受けたようです。
しかし、実はこの人気の急落は、渡辺プロと日本テレビの諍い事があり、日本テレビが他のプロダクション会社他社と手を組み、渡辺プロや、その時の稼ぎ頭となっていた天地真理さんの
根拠に乏しい悪い噂を流し、天地真理さんの人気を失墜させました。当時は、マスコミが書いていること以外、情報を確認する手立てがなく、多くのファンが天地真理さんの誹謗中傷ともいえる記事を見て、離れてしまったのです。
天地真理さんにとっては、とばっちりだったのです。まだまだ、情報の偏りと、コンプライアンスが欠如していた時代だったのです。
辛い2年半を過ごしてきたのですが、1982年頃から、アダルト路線に会社の方向性と共に向かってゆきます。1983年12月にセミヌード写真集を、また1986年にはヌード写真集を発売します。
にっかつロマンポルノ『魔性の香り』(原作:結城昌治、監督:池田敏春)や、1986年、アダルトビデオ『危険なレッスン』(監督:渡辺優)を発売し、後にお金の為だったと、インタビューで語っておられました。
1990年代初頭から中頃にかけて、明石家さんまさんのバラエティ番組や、タモリさんの笑っていいともなどに出演されていますが、見る影もないほど激太りされていた為、
明石家さんまさんや、大竹まことさんが、「もう、俺の好きだった天地真理じゃない!」とか、「どうして奇麗なまま死んでくれなかった?」などとひどい言われようでした。
ある番組の中で、明石家さんまさんが、費用を持つという事で、天地真理さんをダイエットさせる計画を立て、見事にダイエットは成功し、
『スリムになるってステキなことね: 天地真理の白雪姫ダイエット』と言うダイエット本が話題になりました。
一方、1986年6月17日に2歳年上の青年実業家の青木保さんという方と、婚約の記者会見を開いておりました。
青木さんは渋谷や原宿などに、6店もの飲食店を兄弟で経営する会社の専務取締役の方でした。青木さんの知り合いのスタイリストの方からの紹介で知り合う事になりました。
1986年9月25日に、晴れて結婚という事になりました。その後、天地真理さんは麹町にある夫のマンションで暮らし、娘さんを授かります。
しかし、10年後の1996年には離婚となりました。原因について、2015年に週刊新潮のインタビューを受けた天地真理さんの言い分だと、
元・夫は、働かなくなり、自分に暴力を振るうようになって、娘にも辛くあたる事、離婚の際、慰謝料も無かったと言います。
しかしこれは、天地真理さん側の見解なので、天地真理さんがご自身で、そのインタビューの中で、浪費癖があると告白されていますので、元・夫の青木保さんの言い分もあるのかと思います。
19歳から、月収(当時の金額で)300万もらえていたと言い、母にお金は管理してもらい、当時のマネージャーなども、洋服にお金をかける事は自己投資になるなんて聞かされ、欲しいものは、すぐに買えたようです。
当時、渋谷の松濤に6000万のマンションも持っていたと言います
その為、お金があるとすぐに使ってしまい、娘さんともよくケンカをしたのだそうです。
現在(2015年当時)は、神奈川県川崎市の高齢者向け住宅に暮らしていると話をされていましたが、その費用約18万もファンクラブからの収入で賄っていると衝撃の告白をしました。
しかし2016年には、その住宅から転居されていました。しばらくの間、連絡が取れなくなり、死亡説まで流れたのですが・・・・。
2018年に、ソニーミュージックダイレクトの公式ホームページで、天地真理さんへの質問コーナーに置いて、『天地真理さんは今幸せですか?』という質問に対して、娘が結婚してお孫さんがいる事を伝え、現在幸せに暮らしているという報告がありました。
以上、あの頃の熱狂的な『テレビ時代』を駆け抜けてきたトップアイドル天地真理さんの若い頃から紆余曲折を経た現在の生活まで調べてみました。
コメント