沢田研二さんは、自分が二十歳の頃まで、テレビやラジオなどを始め、色々な話題を振りまいておられました。
沢田研二さんは、何しろ派手で、しかも、抜群の歌唱力で歌番組などに出るとひと際、目立つ方でした。
沢田研二さんご自身は全く出ておられないのですが、向田邦子さんと久世光彦さんのゴールデンコンビの人気コメディードラマ『寺内貫太郎一家』にて、“悠木千帆”さん(のちの樹木希林さん)が、
沢田研二さんのポスターに向かって身をよじらせ腰を振りながら「ジュリ~!」と叫ぶシーンを見たくて、このドラマを見ていました。
いや少なくとも、このドラマ、話の内容より、そのシーンと、毎週行われる西城秀樹さんと小林亜生さんの殴り合いの親子喧嘩のシーンしか覚えておりません。(笑)
この所、テレビでは、お見掛けしませんね、ライブでの主催者とのトラブルなどは、記憶に新しい所ですが、沢田研二さんのザ・タイガース時代から今までの活動、今の奥さんなどにスポットを当ててみます。
沢田研二の結婚。本名、実家や身長や年齢などは?
沢田 研二(さわだ けんじ)さんの、本名は澤田 研二(さわだ けんじ)です。1948年〈昭和23年〉6月25日に、両親の実家がある鳥取県岩美郡津ノ井村(現・鳥取市)で生まれました。
2024年の9月の今の年齢は、76歳です。身長は171cm。血液型はA型です。
沢田研二さんのお父さんは若い頃、俳優を目指しておられて昭和の名優の長谷川一夫さんの内弟子だったことがあると言います。
沢田研二さんのお父さんはその後、映画のスチールカメラマンになって映画監督の衣笠貞之助(きぬがさ ていのすけ)さんの元で修業をします。
昭和の時代にはよくあった事ではありますが、衣笠貞之助さんの自宅に夫婦で同居していたことがあるのだとか。
沢田研二さんが生まれた頃は、父は舞鶴市内の火薬研究所の取引先に勤務しておりました。
沢田研二さんのお父さんは澤田松雄さんといい、お母さんは千恵子さんという方です。
沢田研二さんには上にお兄さん、下に妹さんがいる3人兄弟で、二番目の子だったため「研二」というお名前です。
沢田研二さんは3歳まで鳥取で育ち、父が京都左京区浄土寺東田町に家を建て、その後は京都市で育ちます。
銀閣寺がすぐそばにあり、大文字山のふもとの地域だという事で、京都らしい場所なのでしょう。
沢田研二さんは、お父さんの話などを聞き、芸能界や役者さんと言うのは、実力だけでうまくゆかない世界だと思ったのかもしれません。
沢田研二さんは地元の京都市立第三錦林小学校を卒業、京都市立岡崎中学校に進学をします。
中学に入学した沢田研二さんは、実力主義のスポーツ、野球にのめり込みます。中学時代はプロ野球選手に憧れ、選手では川上哲治、藤尾茂が好きな選手でした。
中学では野球部のキャプテンを務め、ポジションは一塁手でした。京都市大会で4位になり、京都府大会に進出しましたが、ここで敗退します。
そこで感じた挫折が沢田研二さんにとって、ショックだったのか?強いチームや選手を目の当たりにしたのか、沢田研二少年は、負けたことで野球選手の夢は諦めたという事です。
中学時代は喧嘩が強く、ケンカの『サワケン』と言われるくらいの周辺では有名なワルだったのだとか。
中学を卒業後すると、1964年4月、京都府立鴨沂(おうき)高等学校進学しますが、2年生の2学期に同校を中退してしまいます。
高校を中退した沢田研二さんは、当時流行していたダンス喫茶で働きだします。
『喫茶』とはなっていますが、今で言うライブハウスやクラブのようなイメージで、当時の大人には、あまり良いイメージの場所ではなかったと言います。
ダンス喫茶『田園』でドアボーイとして働きだしますが、「一曲覚えてきたら、歌わしたる。」と言われ、必死に一生懸命に練習して歌いました。
沢田研二さんが歌を歌うと、評判を得て、人気が出だします。『田園』に歌の上手いハンサムな奴がいると噂になります。
ちょうどその頃、『田園』に出入りしていた高校生の岸部修三(のちに一徳)さん率いる『サリーとプレイボーイズ』がボーカルを探しておりました。
沢田研二 結婚前のタイガースで活躍。タイガースは4年間で解散
同じ年代の音楽好きなメンバーから声を掛けられ、翌年の1月1日にメンバーに加わります。その時、沢田研二さんは17歳。
当時のメンバーの加橋かつみ(ピー)さんのお話では、
バンドの練習をみんなでかわるがわる楽器を持ってやり始めていたが、ビートルズやローリング・ストーンズのように歌が欲しい(ボーカルが欲しい)という事で沢田研二さんを迎えたとの事です。
バンド名はすぐに『ファニーズ』と改められ、その後、出演中の舞台でご一緒した内田裕也さんの口利き等で、上京して渡辺プロに所属します。
『ザ・ヒットパレード』のプロデューサーであったすぎやまこういちさん(後にすぎやまこういちとトップギャランと言うバンドや、ドラクエの音楽プロデューサーとして有名な方)
によって、テレビ番組の出演直前に、関西から来たなら「ザ・タイガース」と新たに名付けられたと言います。
ここでザ・タイガースのメンバーについて
沢田研二(ジュリー)(さわだ けんじ、1948年6月25日 – )、ボーカル、タンバリン
尚、このジュリーと言う呼び名は、1967年頃にそれぞれ、バンドメンバーの愛称を考えている時、沢田研二さんが「ジュリーアンドリュース」という女優さんのファンだったので、ジュリーにしたそうです。
岸部修三【後に岸部一徳】(サリー)(きしべ おさみ、1947年1月9日 – )、ベース、コーラス
加橋かつみ(トッポ)(かはし かつみ、1948年2月4日 – )、リードギター、コーラス、ボーカル 1969年3月に脱退。
森本太郎(タロー)(もりもと たろう、1946年11月18日 – )、リズムギター 加橋かつみ脱退後はリードギター、コーラス
瞳みのる(ピー)(ひとみ みのる、1946年9月22日 – )、ドラムス
岸部シロー(シロー)(きしべ シロー、1949年6月7日 – 2020年8月28日)、リズムギター、タンバリン、コーラス 1969年3月に脱退した加橋かつみに代わって参加。岸部修三の実弟。
ザ・タイガースは、10代から20代前半の若い女性から絶大な人気を博します。コンサート会場で失神してしまう若い女性の事をニュースにする事も多かったようです。
1967年2月5日にシングル「僕のマリー」でデビューすると、セカンド・シングル「シーサイド・バウンド」と続き「モナリザの微笑」、そして「君だけに愛を」でグループ・サウンズと言うカテゴリーにおいて、あっという間に、トップの座に君臨することになったのです。
今では当たり前になった球場でのスタジアムコンサートを行うようになったのも、ザ・タイガースが初めての事でした。
1968年8月12日に後楽園球場で「真夏の夜の祭典」と銘打って日本初のスタジアムコンサートをザ・タイガースが成し遂げました。
一方、ザ・タイガースのメンバーと同じ年代の大学生は学生紛争と呼ばれた日米安保闘争などのデモへ参加する若者が多くいた時代でした。
音楽的な面では、1970年代に入るとグループ・サウンズへの音楽へ向かう若い女性とは別に、岡林信康さんを筆頭にソロのフォークシンガー、『猫』や『ガロ』等のフォークグループが、話題になり始めます。
伴って、グループ・サウンズ人気絶頂期という時期は、終焉を終えようという1971年1月24日に日本武道館で行われた「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」をもってグループは解散しました。
沢田研二 結婚、タイガースに次いでPYG参加!ソロ活動開始
ザ・タイガースの解散後、1971年2月1日、新たなバンド・PYG(ピッグ)が立ち上がり、ここに参加します。
ザ・スパイダースから井上堯之さんと大野克夫さん、ザ・テンプターズから萩原健一さん、大口広司さん、ザ・タイガースから沢田研二さんと岸部修三(後の一徳)さんという6人のメンバーによって結成されました。
このバンドは沢田研二さんと萩原健一さんによるツインボーカルで、井上堯之さん、大野克夫さん、岸部修三さんらが作詞や作曲、演奏ができるそれぞれが実力派でした。
アイドル路線とは一線を引いき、本格的なロックバンドを目指したのですが、日本ではまだ反体制のジャンルとされていたロックを、
当時最大手の芸能事務所だった渡辺プロダクションの所属ミュージシャンが演奏する事に対して反発を強める若者も多く、「商業主義」「芸能界が創り出したもの」として見られる動きもあったようです。
一方、若い女性ファンは沢田研二さんと萩原健一さんのツインボーカールと言う事で、お互いのファンが、いがみ合い、コンサート中に、お互いのボーカルに野次を飛ばすなどの妨害をするようなことも起こりだします。
PYGは、反商業主義の若者から、フェス中に帰れコールを浴びたり、中にはトマトや、空き缶を投げつけるものもいました。
そんな不協和音の中、沢田研二さんはソロ活動が活発になり、萩原健一さんも俳優業の方へ力を入れるようになり、PYGは自然消滅の形で終焉を迎える事になったのです。
ソロになった沢田研二さんは、1971年11月1日発売のソロによるファーストシングル「君をのせて」では、オリコン週間チャートでの最高位は23位とそれ程、伸びなかったようです。
それでも、定期的にシングルを発表すると、1973年4月21日発売の「危険なふたり」が大ヒットします。
『危険なふたり』では、各賞を総なめして、全国ツアーも手掛けるようになり、驚くことに、この全国ツアーは、現在も毎年続いています。(2020年を除く)
沢田研二、結婚、離婚、再婚。人生は一生懸命!
1975年6月4日、7年間の交際を経て双子のデュオのザ・ピーナッツの伊藤エミさん【当時34歳・1941年(昭和16年)4月1日生まれ- 2012年(平成24年)6月15日没)】とご結婚されています。
沢田研二さんと伊藤エミさんの間には、息子さんがいらっしゃいます。息子さんの名前は澤田一人(かずと)さんと仰る方で、1979年3月生まれの方のようです。
一人さんが、8歳の頃沢田研二さんさんと、伊藤エミさんは離婚されているのですが、当時から世田谷の大きな自宅で暮らされていたと言う事です。
現在は、音楽関係の仕事に就いていおられると言う事ですが、詳細は明かされていません。
結婚後、イギリスやフランスにてチャーインするなどして、ヨーロッパ諸国でもシングルレコードが発売されます。
国内では『時の過行くままに』『コバルトの季節の中で』『勝手にしやがれ』『サムライ』『ダーリング』『カサブランカ・ダンディ』『OH!ギャル』などのヒット曲を連発しますが、
ヒット曲よりも沢田研二さんのビジュアルのインパクトがどんどん強くなってゆきます。
インディアン調のメイクや、派手なアイシャドウ、マニュキアなど当時の男性はしないような事を行い、舞台セットなどと共にド派手なスタイルを突き進みます。
極めつけは『TOKIO』のスタジオ全部を飲み込むようなパラシュートを背負う衣装には、日本中が騒然となりました。
1987年1月、伊藤エミさんに18億1,800万円もの慰謝料を支払い離婚することになりました。
前年の1986年8月から別居しておりましたが、離婚の原因は沢田研二さんの不倫によるものでした。
1982年の映画『男はつらいよ 花も嵐も寅次郎』で共演した田中裕子さんと不倫関係にありました。
田中裕子さんとは1989年11月に出雲大社で再婚します。
2023年6月23日に文春オンラインによると、沢田研二さんに、人生のターニングポイントを問うと、離婚・2度目の結婚のあたりだと答えてます。
7歳年上の伊藤エミさんと別れて、7歳年下の田中裕子さんと結婚された事、その中で感じた事は、2度と女性を悲しませるような事はしたくないという事だったと言います。
伊藤エミさんは、離婚後も澤田の姓を名乗っていた事から、いつまでも沢田研二さんを好きだったのでは?と思います。
私moonはこの話を聞いて、全くの想像ですが、いくらジュリー・沢田研二さんと言えど、19億円近い慰謝料は、恐らく自分の持っているものの大部分だったのではと思えるのです。
そして、それが伊藤エミさんへの、心からのお詫びで、又、田中裕子さんへの誓いだったのではないだろうかと。
今でも沢田研二さんはオリジナルキーで歌い、20代30代のようにはゆかないかもしれないですが、ステージを動き回りながら高いパフォーマンスを続けています。
沢田研二さんはラジオ「今日は一日“ジュリー”三昧」(NHK-FM、2008年11月3日放送)で、自分の長所として“一生懸命”のありかたについてこう語っている。
「僕のいいところはね、出るところに出たら、一生懸命やんねや。一生懸命やることには自信がある。それがいいかどうかは別ですよ、ただ一生懸命やる。誰かに教わって、その通りにするのはできへんけど、自分なりの一生懸命やるってことはできるんだよね」
「今日は一日“ジュリー”三昧」(NHK-FM、2008年11月3日放送)
思えば、17歳の時、「一曲覚えてきたら歌わしたる。」と言われた時も、ザ・タイガース時代に、自分たちのやりたい音楽と違和感を感じた時も、他のメンバーが不満を漏らしても、沢田研二さんは一生懸命でした。
はたまた、2018年10月17日さいたまスーパーアリーナでの公演にて、観客動員が当初9000人の予定が7000人であったことが契約違反だとして、
開演直前になって急遽中止になった事についても、これは想像でしかないのですが、沢田研二さんにとって、主催者側の対応が一生懸命じゃなかったのではと思えるのです。
証として、このトラブルは、マスコミは騒いだが、ファンに必ずリベンジをやると伝えるとファンは何となく納得しました。コロナを受けて5年越しになってしまいましたが、
2023年6月25日、沢田研二さんの75歳の誕生日にさいたまスーパーアリーナにて『沢田研二 LIVE 2022-2023「まだまだ一生懸命」ツアーファイナル バースデーライブ!』が開催され、19000人もの動員数を記録し、チケットは即完売となりました。
やはり、ここでも一生懸命と言う泥臭いけど、人の心に何より訴えかける術で、沢田研二さんは活動されていた事に間違いないのです。
今回、沢田研二さんの事を調べていると、人は一生懸命を繰り返す事で、周りが認めてくれる存在になるという、当たり前だけど大事な事を改めて思います。
沢田研二さんが、一生懸命をくり返してきたコンサートは今も、チケットは争奪戦を勝ち抜かないと手に入りません。
2024年1月12日からスタートした全国ツアー「沢田研二 LIVE 2024『甲辰 静かなる岩』」も完売し、更に9月から追加の7公演が決定と言う76歳の沢田研二さんであります。
以上、沢田研二さんのタイガース時代からのプロフィールや詳細を調べてみました。
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