佐野元春さんといえば、『アンジェリーナ』を皮切りに『some day』や、『約束の橋』など、壮大で感動的なヒット曲が沢山ありますね。
佐野元春さんは、気持ちや心をそのままに、新鮮なままの時間を切り抜いて勇気づけてくれるようにメッセージを届けてくれるミュージシャン。
ポップな曲も、バラードにもそういう感覚があるシンガーソングライターの方と言うのはそう多くないように思えます。
さあ、ご一緒に佐野元春さんの若い頃と今にスポットを!
佐野元春の若い頃、出身は東京の下町。身長、血液型、両親のこと。
佐野 元春(さの もとはる)さんは、東京都千代田区神田生まれ。出身は台東区の浅草寺に近い下町の神田明神の近所だったそうです。
生年月日は1956年(昭和31年)3月13日生れ。2025年11月現在69歳ですね。身長は170㎝、血液型はB型です。
佐野元春さんについては、個人的には、私が二十歳の頃、(1985年頃?)確か夜の9時過ぎ頃、東北の新幹線の乗り継ぎ時に、誰もいない階段を走って降りてきた黒っぽいスーツの4人組がおりました。
その中のサングラスをかけた方が「新幹線はあっちですか?」と私に聞き、「ええ、そうです。」と言うと又、身を屈めるように、又、4人で走って行ってしまいました。
見たことがある方だなと思ったのですが、数秒後に、若い女性の集団が、「あっち、あっち」と叫びながら、私の横を走って駆け抜けて行きました。
「あ、佐野元春さんだった。」その時になって、やっと気が付いたのでした。
さて、東京タワーが昭和33年に出来た事を考えると、佐野元春さんが育った東京の街は高度成長期の真っ只中。
佐野元春さんの父は、会社を経営されていて、佐野元春さんが子供の頃は、自動車で色んな所へ連れて行ってくれたそうですが、
銀座に買い物に行き、不二家でお子様ランチを食べるのが楽しみだったと言います。
当時の東京の下町は裏路地が沢山あり、佐野元春さんの祖父が近所でウナギ屋さんを経営していました。
ご家族は、ご両親は父も母も1932年(昭和7年)生まれという事で、24歳の時の子供が佐野元春さんと言う事です。又、妹さんがいらっしゃったようです。
1991年に佐野元春さんが35歳の時、両親が相次いで亡くなると言う年になってしまいました。
1991年に父が亡くなり傍らで悲しむ妹の為に書いた曲が『彼女の隣人』だったと言います。佐野元春さんは、自分が隣にいると言う事を伝えるために繊細な20代の妹さんを励ましていたのでしょう。
しかし、そんな妹さんも、1997年に妹さんも32歳の若さで不慮の事故で亡くなってしまいます。
さて、母親は、若い頃、女優さんを目指して、東映ニューフェイスのオーディションに受かっていたのですが、合格通知を父親(佐野元春さんにとっては祖父)が、破り捨てて母に知らせなかったのだそうです。
母親は、音楽が大好きで、青山で音楽喫茶を営んでいました。
母は、エルビス・プレスリーの大ファンでした。エルビス・プレスリーが最初のアルバムをリリースした1956年3月13日に佐野元春さんが生まれ、偶然一緒でした。
そんな偶然も母親にとっては嬉しいものでした。
ある日、テレビを見ていると「この子はエルビスみたいになるわ。」と呟いたそうです。それを聞いた父が実業に就かせると激怒したと言う話があります。
女優という夢をあきらめた母でしたが、表現する事を大切に思っていて、その事がなぜか、佐野元春さんの心に染みたようです。
佐野元春の若い頃、子供の頃は落ち着きがなくIQの高い要注意人物
小学四年生のある時、佐野元春さんの同級生の言う事を聞かない女の子の二人組のとばっちりで、先生に誤解され、一緒に激しく叱られたそうです。
その時、自分が言葉をもっとうまく使えたら誤解されなかったのに、と思ったのだそうです。
一念奮起して、学校の図書館の本を読み漁り、小学5年生までには図書館の殆どの本を読破し、言葉の使い方で、大人も論破できる語彙を身に付けました。
あまりに、突飛な事を行う少年だった為、IQテストを受けさせられたそうで、先生の予想に反して140と言う数字。先生たちは益々混乱し、取り扱いに注意を払われたそうです。
正確な時期は解りませんでしたが、中学の時には家族が中野区に引っ越されていて中野区立第四中学校(現・明和中学校)に入学します。
その頃、ビートルズをはじめとするブリティッシュ・ロックがカウンターカルチャーと呼ばれ、アメリカの音楽などを席巻しておりました。
そのような中、中学一年生になっていた佐野元春さんも、イギリスのロックに首ったけでした。The Who(ザ・フー)のギターリスト、ピーター・タウゼンさんの姿に憧れ、
同じ時期に親戚から貰ったガットギターには、ナイロンじゃなくアコスティックギターの金属の弦が張ってあり、押さえにくく指が痛かったのですが、指が血だらけになっても練習したそうです。
しかし、その後アコスティックギターに持ち替えても、どんなコードも楽々抑える事が出来たのだとか。コードを覚えて行く中、ピアノもマスターしていったと言います。
佐野元春さんが、楽器をやり始めたのは、オリジナル曲を作ってみたいと言う意識が強かったのだそうです。でもどうやって作ればよいか解らず、
ヘルマン・ヘッセの「赤いブナの木」という詩の和訳にメロディをつけてみたのが初めての作曲になりました。
立教高等学校(現・立教新座高等学校)に入学すると、アメリカン・ロックの神様である、ボブ・ディランを知り、強く影響を受けます。
その頃の佐野元春さんの中では、バイクと音楽が、特別なもので、夜な夜な吉祥寺で集まっていた『ジョージ族』と呼ばれるバイクの集団とつるんでいたそうです。
高校三年生の時に、両親が転居をすると言うのを機に、一人暮らしを始めています。高校二年生の頃から音楽部に入部し、バンドを結成します。
その頃作った「情けない週末」「Bye Bye C-Boy」「君がいなくちゃ」などは、随分経ってから、リリースされている、ファンにとってはお馴染みのナンバーだと思います。
高校三年生の12月、音楽部が母体のバンド「バックレイン元春セクション」を結成して、当初5人編成だったが、まもなく同級生の妹であるMANNAが加入し、6人編成になりました。
佐野元春の若い頃、広告代理店の企画で出会ったDJの言葉が響いた
1974年4月に立教大学社会学部に入学しても、バックレイン元春セクションの活動は続き、初夏にヤマハポピュラーソングコンテストに応募する事になります。
その際にホーンセクションが4人加入して10人の大所帯なバンドとなります。
関東予選を抜け、本選まで行きますが、そこで敢無く落選してしまいバックレイン元春セクションも仕切り直しに入ります。
尚もバックレイン元春セクションのさらなる向上の為、渋谷のスタジオでカンヅメになり、練習を続けていました。
しかしそんなタイミングで、当時人気を博していたハイ・ファイ・セットにドラムとベースを引き抜かれた事により、より一人で行こうと言う気構えが強くなったのだとか。
1974年の11月の慶應義塾大学の学園祭のミニコンサートに出演した際に知り合った佐藤奈々子さん(現在・歌手・写真家)に出会います。
その後、佐藤奈々子さんの為に、レコード会社などと協議して共作で作曲を行っています。佐野元春さんが最初に世に出てきたのは作曲家としてだったと言う事です。
1978年に、スタジオのエンジニアの方が、佐野元春さんに再び、再びヤマハポピュラーソングコンテストに出場し、最優秀曲賞をとり、デビューの話が沢山来ます。
しかし、生活のためと堅実な就職活動に入ります。
佐野元春さんは、その後、大手の広告代理店の研修を受けた時点で、断ってしまい、小さな広告代理店で、ラジオ番組の制作などを任されていました。
自ら提出したアメリカ西海岸のFM局を取材する番組の企画で、しばらくの間、現地に赴き、サンフランシスコやロスアンジェルスのFM局を回ります。
そこで知り合ったソウルミュージックのチャンネルのDJに、楽曲を作っている事を話をすると、ここでこんな事をしているのは何故か?
「年を重ねても、その曲が歌えるのか?今の自分の歌は今しか歌えないだろう?」というような事を言われ、ハッとした佐野元春さんでした。
その頃、佐野元春さんはプロデビューを考えておりませんでしたが、その言葉で、自分が何になりたいのかを自問自答します。しかし運命と言うのは解らないもので、
同じような時期に、佐野元春さんが記念にと思いスタジオを借りて、制作していたカセットテープをスタジオエンジニアの人が気に入り、何人かに聞かせていたテープが、ある人の耳に止まります。
佐野元春の若い頃、サムディに続く、約束の橋、ヒットメーカーに!
設立したばかりのEPIC・ソニーの小坂洋二ディレクターが『アンジェリーナ』『情けない週末』等13~4曲の入ったそのテープを聞き、デビューのきっかけを作ります。
のちに、TMネットワークや渡辺美里さん、岡村靖幸さん、大江千里さん、BARBEE BOYS等次々と大物ロッカーを生みだすEPIC・ソニーの先駆けとなりました。
佐野元春さん自身も、伊藤銀次さんを始め、山下達郎さん、杉真理さん、お亡くなりになった大瀧詠一さん、などと親交を深めて行くことになります。
大瀧詠一さんとナイアガラトライアングルVol.2に参加し、同時に『サムデイ』をレコーディングしてます。
大瀧詠一さんはナイアガラトライアングルVol.2に『サムディ』を入れたいと佐野元春さんにお願いします。
その頃、ラジオ番組などを持ち、知名度は上がっていた佐野元春さんでしたが、商業的な大ヒット曲と言う事にはなっていませんでした。
そんな佐野元春さんにとっては『サムディ』が売れなければ、ミュージシャンを辞めようと言うくらい思い入れのある、言わば背水の陣で作った曲でした。
『アンジェリーナ』も『ガラスのジェネレーション』も佐野元春さんの根底に流れる15歳から25歳の世代へ向けていると言う音楽作りの中で、『サムディ』は賭けた一曲でした。
大瀧詠一さんも含め誰の助けも借りずに、自分の力だけでこの曲に賭けたいと強い想いが、あの大ヒットにつながります。
その後、ニューヨークやロンドンから、ブラックミュージックなど要素を取り入れ、当時の日本の音楽シーンにとっては画期的なミュージシャンとなります。
1989年に発表され、1992年にフジテレビ系『二十歳の約束』の主題歌に起用された『約束の橋』は70万枚を売り上げる大ヒット。
この曲が出来たのは、ロンドンのオンボロアパート、壊れた水しか出ないシャワーを浴び、震えながら毛布にくるまっていたら、あの初めのフレーズ「君は行く・・」と言う言葉が降りてきたと言う事です。
自分自身が『君』だったのでしょうね。
佐野元春の若い頃。結婚して、子供さんの情報なし、病気については
そんな佐野元春さんですが、1986年毎月、日本青年館を満員にするライブ(Tokyo Monthly)を開催して、『教祖』なんて呼称で呼ばれ始めた頃、雑誌フライデーが佐野元春さんの結婚をすっぱ抜きます。
佐野元春さん自身は、隠してもいないし、公表もしないと言うスタンスで、別な雑誌に奥さんの写真を取られた事もあるようです。
佐野元春さんご自身は、フジテレビの番組の中で中居正広さんとの対談の中でご自身の結婚観を
うん、そうだね 。ロマンティックに言えば、お互いの 魂を共有する相手を見つけるイべントというか。人生の中で大切なイベントだと 思うんだ。
出典フジテレビ『TK MUSIC CLAMP』 https://www.fujitv.co.jp/TKMC/VOL46/clamp32.html
そのように語っています。
息子さんの噂はあるのですが、一切情報が無い為、お子さんはいらっしゃらないのではないか?と言う方もおります。
そういうプライベートが、前面に出ると曲を聴く人の邪魔になってしまうと言う事も懸念されていらっしゃるのかもしれません。
お病気の噂もありますが、2016年に腸のポリープ手術や、2023年の1月にひざの関節の手術、2025年の9月にコロナウイルスに感染してますが、いずれも完治してます。
ファンとしては一安心ですよね。現在も佐野元春&THE COYOTE BANDとして、全国のライブ会場を満員にしている佐野元春さんのパワーは衰える事を知りません。
いかがだったでしょうか?いつも15歳から25歳の人達の心に届くように研ぎ澄ましている感性。そんな佐野元春さんの若い頃、現在の年齢や結婚観などを調べてみました。

コメント