『ショーヤ』と言うバンドの話になりますともう、随分前の事になりますが、1985年。今からおよそ40年前に「SHOW-YA ショーヤ」と言う女性だけのバンドがいました。
当時は、女性だけのハードロックバンドと言うのは、非常に少なく、希少でした。なんて書くと、もう無くなっているように聞こえるかもしれませんが、
実は、ショーヤは再結成されて、現在もボーカルの寺田恵子さんを始め、同じメンバーの方で、歌い続けております。
そんな、ショーヤの4人のメンバーとボーカルの寺田恵子さんの現在にスポットを!
ショーヤ寺田恵子の募ったメンバーは?なんと3人が○○!
ショーヤは、1985年にメジャーデビューするのですが、ボーカルの寺田恵子さんとキーボードの中村美紀さんが、中心となり高校生の時に作った『メデューサ』と言うバンドが前身となっています。後に『ショーヤ』と改名されます。
そんなショーヤのメンバーは
寺田恵子 さんは 1963年7月27日生まれ、2024年現在61歳で千葉県の出身です。 血液型はA型。 ボーカル、作詞・作曲を担当しています。身長は153cm
中村美紀 さんは1961年9月27日生まれ、現在62歳、やはり千葉県の出身です。キーボード、コーラス、作詞・作曲を担当し、ショーヤのリーダーです。血液型はAB型。
角田mittan美喜 さんは、1963年12月7日生まれ、現在は60歳 東京都の出身です。 ドラムス、コーラス、作曲を担当しています。血液型はO型。
仙波さとみ さんは、1963年8月28日生まれ、現在61歳です。東京都出身で、ベース、コーラス、作曲を担当しています。血液型はA型です。
五十嵐sun-go美貴 さんは1962年11月21日生まれ現在61歳。神奈川県厚木市の出身– ギター、コーラス、作曲を担当しています。血液型A型です。
実は5人の中に「ミキ」さんが「角田美喜(つのだ みき)」さんと「五十嵐美貴(いがらしみき)」さん、そして、リーダーの「中村美紀(なかむらみき)」さんと3人が『ミキ』です。
名前で呼び合うと、自分の名前で誰かを呼ぶことになったり、3人全員が振り向いたりしますよね。(笑)
実際には、ニックネームで呼び合っていたようです。
それぞれ、角田美喜さんは『mittan(ミッタン)』、五十嵐美貴さんは『san-go☆(サンゴー)』、そして、中村美紀さんは『キャプテン』や『ミキ』と呼ばれていたようです。
ちょっと気になるのは、五十嵐美貴さんの『san-go☆(サンゴー)』なぜ?と思いますが、寺田恵子さん、中村美紀さんに続き、3番目に加入して、「ミキ」だったこともあり、『3号』だったようです。
気に入らないニックネームだったようですが、一番定着してしまい、今もsan-go☆と呼ばれていると言います。
ショーヤ寺田恵子は三姉弟の真ん中、一番影響を受けた歌手は?
1985年頃は、バンドブームが、静かに沸き起こる頃であり、当時の若者(筆者moonも)は、次なるバンドが出てくるのを心待ちにしているところがありましたが、
やはり、女性だけでハードロックのバンドを組んでいる「ショーヤ」は、インパクト抜群でした。
ボーカルの寺田恵子さんの父は寺田明さんといい、千葉県の船橋市で、工務店を経営されていてました。従業員も住み込みでいるような大きな会社だったようです。
2009年の4月に77歳で心不全のために亡くなっておられます。寺田恵子さんが45歳の時です。
明さんは大の音楽好きだったこともあり、幼少期の寺田恵子さんに三味線を習わせていました。
母は、昔は住み込みの従業員の食事などを賄う事で忙しく過ごされていたようです。現在もご高齢ですが、お元気で過ごされているのだとか。
寺田恵子さんには、姉と弟がいる三姉弟でした。お姉さんも、弟さんもご結婚なされているようです。
ショーヤのボーカルの寺田恵子さんは、カルメン・マキ&OZの「私は風」を子供の頃に聞いて自分の声と似ていると思ったと言います。
そしてカルメンマキさんの音楽に没頭してゆきます。カルメン・マキさんや、アン・ルイスさんの影響を強く受けています。そして漠然と歌の仕事がしたいと思うようになったという事です。
他にも、洋楽アーティストで影響を受けたのは、オジー・オズボーン、ローリング・ストーンズ、ビートルズ、レッド・ツェッペリン、シンディ・ローパー、パット・ベネター、レナード・コーエンなどを聴いていました。
高校生の頃までは声の高さはソプラノでしたが、カルメン・マキさんへの憧れから、枕を喉に当てながらシャウトしたりして声を潰していったようです。
ショーヤ寺田恵子デビュー曲から大きなタイアップで開始!
1985年頃にはまだ珍しかったガールズハードロックバンドの草分け的存在のショーヤですが、1985年8月、『素敵にダンシング(Coke Is It)』でメジャー・デビューを果たします。
当時は女性だけのロックバンドは珍しくて一般になじみが薄く、ミニスカートを履かせられたり、髪を刈り上げられたりと、アイドルバンド路線で売り出そうとします。ストレートの長い髪を切られ、泣いていたメンバーもいたと言います。
しかしメジャー・デビュー曲にコカ・コーラのタイアップが付く大きなプロジェクトとなります。
ヘアメイクやスタイリストも世界で活躍する著名人、衣装デザインは、当時飛ぶ鳥を落とす勢いのコシノジュンコさんが担当しました。
その後、本格的ロックバンド志向で進み、寺田恵子さんが殆どの作詞作曲を担当していましたが、セールスは伸び悩みます。
寺田恵子さんは葛藤しますが、自分の思いの募った日記などを、プロの作詞家安藤芳彦さんに渡し、作詞を申し出ます。
又、一年後にメジャーデビューを果たした、『プリンセス・プリンセス』等も手掛けている音楽プロデューサーの笹路正徳さんを加えるとアルバム『Outerlimits』(1989年)アルバムは60万枚超のセールスを記録します。
30万枚を突破した8枚目のシングル『限界LOVERS』や、9thシングル『私は嵐』と立て続けにヒット曲が出るようになり、ショーヤは、当時の若者の多くに認識されることになりました。
ショーヤ寺田恵子、現在の活動。SHOW-YAは『庄や』から。
『メデューサ』と言うバンドで活動を始めた5人でしたが、バンドのコンテストで良い結果が出ずに悩んでいる時に、中村美紀さんが「バンド名が悪い」と言い出しました。
残る4人も賛同して、当時よくみんなで集まって飲んでいた大手居酒屋チェーンの『庄や』から名前をあやかる事にしました。
正確には『SHOW-YA』と書き、SHOWを魅せるとか、YA=YOU(口語表現)でショーをあなたにと言う気持ちが込められているのだそうです。
ショーヤは数々のヒット曲を出しますが、寺田恵子さんの胸中はいつも、葛藤があったと言います。
30年くらい前は、女性が結婚して子供を産んで家庭を築くのが当たり前という価値観の時代でした。
やはり寺田恵子さんも、結婚を考え、寺田恵子さんが27歳の時、1991年にショーヤを脱退します。ボーカルで核となる寺田恵子さんがいなくなる事で、ショーヤは、大きく揺れ動きます。
ショーヤは新メンバーにステファニー・レイコ・ボージャスさん をボーカルとして迎えたのが1992年ですが翌年の1993年頃から事実上の活動の凍結状態に入ります。
その後、Yoshinoを ボーカルとして1997年に迎えますが、翌年の1998年9月に解散してしまいます。
一方、寺田恵子さんは、葛藤を抱え寺田恵子さんの脱退の理由については、音楽活動に疲れが出てきた時に、パートナーの男性に、「音楽を辞めようと思って・・・。」と伝えると、「じゃあ、結婚しようか?」という話になったと、後にインタビューで答えてます
それでも葛藤を抱いたままバンドを離れるのですが、1年後の1992年に『PARADISE WIND』でソロデビューしています。
しかし、その頃には、結局、結婚の話は破談になっていたそうです。
その後、2005年に寺田恵子さんが、本当にやりたい事を突き詰めた結果、「ショーヤ」のメンバーと音楽をやる事だと気が付きます。
寺田恵子さんは、メンバー、一人一人に頭を下げて回り、ショーヤの再結成の為に奔走します。
そして、5年の歳月をかけて、再びショーヤの為にみんなが戻って来てくれます。そして2021年、世界進出の第一弾となるアルバム『SHOWDOWN』をリリースし世界発売されます。
年齢を意識せずに、やりたい活動に正直にやると言う寺田恵子さんの姿勢に感銘を受ける人は多いのだと思います。まだまだ、活動の続くショーヤの現在の活動にスポットを当ててみました。
『芸能人格付けチェック 秋の3時間スペシャル』で熱唱するショーヤと寺田恵子さんは、2024年10月1日火曜日19時から見ました。
ネタバレですみません。まさかの展開で、小学生バンドに皆さん行ってしまったと言う驚きの結果でしたね。
しかしこれは、ショーヤを弁護する訳ではないですが、小学生バンドのドラムの手数が多いのと、ちょっと音が強く走り過ぎていたのでインパクトがありました。
寺田恵子さんが合わせて、歌っていたのですが、しかし上手い。若いってすごい。(笑)
以上、結成40年のショーヤの寺田恵子さんと現在の活動をリサーチしました。
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