『ムーンライダーズ』と言うバンド名は聴いたことのある方も多いかも知れないですが、実は筆者moonも、世代的に少し上の世代の方達で詳しい訳ではありません。
しかし、ずっと気になっていました。1970年代から活動されている現存するロックバンドは、それほど多くはありません。
すっかり、オジサンの年代を越えて、おじいさんになっているメンバーの方々、当時の時代背景や、その時代のバンドの方々の想いを紐解いてみたいと思います。
ムーンライダーズ メンバー鈴木慶一 運命の出会いは母の勤務先の?
ムーンライダースが出来る前、のちのムーンライダーズのボーカルとなる鈴木慶一さんは、高校3年生の時に大学には行かないと決めていました。
「仕事も真面目に探せばあるだろう。」くらいに考えて、高三の3学期になるとひたすらカセットテープに録音した音源を聴いてギターの練習をしていたそうです。
その頃、鈴木慶一さんの母が勤めている蒲田の証券会社でアルバイトしていたのが、なんと、あがた森魚さんでした。
鈴木慶一さんはあがた森魚さんと出会い音楽への思いは、ますます強くなります。
既にあがた森魚さんは、URC(アングラレコードクラブ・日本初のインディーズレーベル会社)で、ジャックス(1960年代のサイケデリック・ロックバンド・つのだひろさんなどが在籍した。)の早川義男さんに認められていました。
1970年 春3月、鈴木慶一さんはあがた森魚さんと出会い、「アンクサアカス」「あがた精神病院」などと短期間に名前を変えてバンドの活動をしていました。
後にあがた森魚と蜂蜜麺麭(はちみつぱい)と名前を変え活動を継続します。はちみつぱいは、ビートルズの「Honey Pie」という曲名を日本語にしたものです。
しかし、メンバーは一定せず、独立したバンドというより、あがた森魚さんのバックバンド的な活動を行っていました。1971年から蜂蜜ぱいと名乗り、『あがた森魚とはちみつぱい』と言うバンド名になります。
このバンドがのちのムーンライダーズの前身となります。
1974年11月20日、山野ホールでの「はちみつぱい解散コンサート」を最後に解散します。コンサートでの最後の曲は「塀の上で」と言う曲でした。
鈴木慶一さんはライブの最後に、「さよならロックンロール少年、ロックンロール少女」と別れを告げたのでした。
この言葉は、長く当時のロックファンの中に残る特別な言葉となりました。
時代は流れ「はちみつぱい 15YEARS AFTER」と言うはちみつぱい結成の15周年記念のアルバムを発売します。
このアルバムの為1度だけの再結成コンサートが、1988年6月9日にPIT(汐留)で開かれました。
鈴木慶一さんが、コンサートの最後に「さよならロックンロールおじさん、ロックンロールおばさん」とファンに別れを告げ14年の伏線を回収し、心置きなく解散できると語っておりました。
活動時期が部分的に松本隆さん率いる『はっぴーえんど』とかぶっていましたが、『はちみつぱい』と『はっぴーえんど』は、日本語のロックバンドとしては、先駆け的なバンドでした。
ムーンライダーズ メンバー『はちみつぱい』からムーンライダーズへ
はちみつぱい解散の翌年の1975年になると『ムーンライダーズ』を結成します。
ネーミングは稲垣足穂(昭和初期に活躍した小説家)氏の小説「一千一秒物語」の一節に出てくる言葉を鈴木慶一さんが、引用したようです。
結成当時のメンバーは。
★鈴木慶一さん、1951年8月28日生まれ。東京都大田区東糀谷出身です。ボーカル・ギター担当、元・奥さんは、歌手の鈴木さえ子さん。
★岡田徹さん、1949年4月23日生まれ、父はアナウンサーの岡田実さん。父の仕事の関係で、2歳半から5歳までニューヨークで暮らしていました。
敏腕の音楽プロデューサーの側面も兼ね備えていて、プリンセス・プリンセスのプロデュースも手掛けておられましたが、2023年2月14日に73歳で鬼籍に入っておられます。
★武川雅寛さん、1950年12月21日生まれ。ヴァイオリン・トランペット・ボーカル・コーラス担当 フォークユニットのかぐや姫の『神田川』から坂本龍一さんの『音楽図鑑』まで1970年代から現在までスタジオミュージシャンとしても幅広く活動されています。
★かしぶち(橿渕)哲郎さん、1950年11月9日生まれ。ドラムス・ボーカル担当。父は建築家で、ご本人も大学では建築を学びます。アグネス・チャン氏のバックバンドを経て、細野晴臣さんが当時やっていたバンド「トロピカル・ダンディーズ」へ参加されています。
2013年12月17日に食道がんの為、63歳にてお亡くなりになっております
★椎名和夫さんは1952年7月14日生まれ。ムーライダーズの初代ギターリストですが、1974年に脱退されて、アレンジャーとしての道を歩み、RCサクセションや、中島みゆきさん、中森明菜さんなど幅広いジャンルの楽曲の編曲を手掛けております。
★鈴木博文さんは1954年5月19日生まれ。ベースの担当をされています。鈴木慶一さんの実弟であり、ムーンライダーズのインディーズレーベルの会社の代表でもあります。
ムーンライダーズ メンバー若い頃は、アイドルのツアーバンドとして
メンバーそれぞれが、独自の才能を持っているムーライダーズですが、長い歴史の中で、始めの内は、アグネス・チャンのツアーバンドや、キャンディーズのバックバンドなどを行いました。
メンバーの胸の内にあったのは、「音楽で食ってゆく。」生活を成り立たせると言う当時の(現在もそうかもしれませんが)ハードルの高い部分を越える為でした。
そんな中、アルバム制作や音楽の方向性の違いなどを感じて、離脱したメンバーも出たり、又、不幸にも亡くなってしまう方がいて、メンバーチェンジが行われます。
★白井良明さん(しらい りょうめい・本名しらい よしあき)、1954年2月27日生まれ。ギター・シタール(インドの弦楽器)・ギタギドラ(白井さんオリジナルのギターとドラムを融合させた楽器)・コーラス・ボーカルを担当されています。
1977年3月24日のライブを最後に椎名和夫さんが脱退し、白井良明さんがムーンライダーズに加入しました。
★夏秋文尚さん(なつあき ふみひさ)1965年10月8日生まれで、ドラムスの担当をされています。2006年頃から、体調不良のかしぶち哲郎さんの代わりのサポートととして、関わりますが、
2020年に、かしぶち哲郎さんが逝去なさった後に、レギュラーメンバーとして加入されています。
さて、私を含め、アラカンのおじさん方が、一番印象に残っている、又、なじみ深い鈴木慶一さんの楽曲は、1980年に斉藤哲夫さんが歌ってヒットしたCMソングではないでしょうか?
あの頃のミノルタカメラのCMと言えば、ピンと来る方も多いかもしれません。木陰で美女がその楽曲に合わせてデニムを脱いで、水着姿になる。
その美女は、今やクイズの番組の女王と呼ばれる宮崎美子さん~『今の君はピカピカに光って』と言う曲。
作詞は当時、西武百貨店のコピーライターとして人気を博していた糸井重里さん。斉藤哲夫さんと、鈴木慶一さんは古くからの友人でした。
斉藤哲夫さんは自作の曲しか歌わなかったのですが、旧友の鈴木慶一さんに強く推され歌う事になったと言います。
ムーンライダーズ メンバー、立ち止まったことは一度もないよね。
それ以降も、ゲーム『MOTHER』内の楽曲や、2010年に放送されたNHKの連続ドラマ『ゲゲゲの女房』のエンディングテーマの『ゲゲゲの女房のうた』もムーンライダーズの楽曲でした。
ムーンライダーズは35周年となる2011年11月11日、公式サイトにて2011年内をもって無期限活動休止に入ることを発表しました。そして2016年、「活動休止を休止」し再始動します。
鈴木慶一さん個人としては、俳優業も多く、若い頃から多くの作品に出演されています。それもそのはずで、鈴木慶一さんの父は俳優の鈴木昭生さん。
DNAでしょうか?特に1990年以降はCMや、テレビドラマ、映画などでも活躍中です。演技の中にも存在感を感じます。
2016年頃のインタビューでは、60歳を超えて、趣味でサッカーチームを掛け持ちしているとアクティブな鈴木慶一さん。
ずっと第一線で音楽活動をしてきて、変わらないこと、逆に変わったことはありますか?と言う質問の答えとして
18歳の冬の日、あがたくんのコンサートを思い切って見に行ったときもそうだけど、「えいや!」と一歩を踏み出した瞬間は人生に何度かあって、それによっていろんなことが大きく変わってきた。新しい音楽のムーブメントに揉まれ、ニューウェーブが好きになったりとかね。変わらないのは、満足しないところ。いずれにしても、とにかくずっと動き続けてきた。立ち止まったことは一度もないよね。
朝日新聞デジタル &W 2016年10月04日付
いやぁ、かっこいい。
メンバーそれぞれ、多くのユニットやスタジオミュージシャンとして活躍しながら、ゲームや多くのCMソングなどを奏で、飾らず、長く続けているバンド。
何処かで、誰かと聞いた音楽が、実はムーライダーズの曲だったなんて事、まだまだ起こりそうに思います。
いかがだったでしょうか?今回はムーライダーズのメンバーの詳細や、鈴木慶一さんの若い頃からの活動などを追ってみました。
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