奥田民生さんは、ユニコーンのフロントマンでボーカルを務める方で、今や大御所と言う感じであります。
若い方は、ユニコーン時代のヒット曲を知らなくても、必ず聞き覚えのあるナンバーが沢山あると思います。
実は、筆者moonと同じ年齢の方です。プライベートが見えにくい謎っぽい方のイメージもありますが、奥さんはどんな方で、家族構成はどんな感じなのでしょう?
今回は、その辺の事を、そして現在までの活動などを調べてみました。
奥田民生の妻は?父は、共産党系の広島市議会員。母は音楽好き!
奥田 民生(おくだ たみお)さんは、本名も一緒です。1965年〈昭和40年〉5月12日 に広島県広島市東区尾長に生まれます。
2025年10月現在60歳、身長は171㎝ 血液型はB型だそうです。
奥田民生さんの父親は、奥田幹二(おくだ かんじ)さんといい、旧国鉄に勤務されており労働組合の関係で、共産党から広島市の市会議員に当選し、市議会議員として活動されていました。
非常に人付き合いの良い方で、超党派で色々な党員の議員さんとも仲良くされていたという事でした。
又、お父さんは、人の嫌がる仕事を率先してやるような方で、共産党員の方でも嫌がる機関新聞の『赤旗』を毎日4時起きで配っていたのだそうです。
奥田民生さんも、小学生の頃からデビューが決まり、上京するまで『赤旗』の日曜版を配るのを手伝わされていたそうです。
あまり苦にせず月に5000円くらいのお小遣いをもらい引き受けていたのだそうです。
奥田民生さんの『民生』という名前も共産党系の団体『民青』(日本民主青年同盟)から考え付いたのだそうです。
家にはビクターの一体型ステレオがあり、母親は、いろんなジャンルのレコードをかなりの数を持っていて、音楽好きだったようです。
アラ環の自分たちの年代の方は、記憶にあると思いますが、観音開きでレコードプレーヤーとアンプスピーカー、機種によってはラジオチューナーが一体型になっている家具調のステレオです。
奥田民生さんは母親と一緒にレコード店についていって、ウルトラマンや、西城秀樹等、当時テレビから流れる音楽のレコードを買ってもらたりした思い出があると言います。
西城秀樹さんが、ご近所の方で、あんなスターが近所の人だという事で、漠然とスターに憧れる部分もあったのだそうです。
奥田民生さんが広島市立尾長小学校の4年生の頃、親戚が営む自動車の町工場を営んでいてそこに預けられることが多く、休憩室に、アコスティックギターが転がっていました。
従業員のお兄さん方が、休憩時間などにつま弾いていたものと思われるそのギターを10歳の奥田民生少年は、いじるともなくいじっていました。
休憩時間に、従業員の方がベンチャーズの『パイプ・ライン』の弾き方を教えてくれて、最後まで弾けるようになったときは、うれしかったと思い出を振り返っています。
奥田民生の妻は?高校の時の同級生に吉川晃司や森友嵐士がいた!
広島市立二葉中学校の2年生の1979年頃に友人とバンドを組み、ギターを担当していましたが、たまにコーラスで入る事もあったそうです。
広島皆実高校に入ると、高校ではアーチェリー部に所属し、大会などでも良い成績を上げていました。
同級生に吉川晃司さんや、元T-BOLANの森友嵐士さんがいました。
この高校の先輩には、大御所の吉田拓郎さん、後輩にはハスキング・ビーというバンドの磯部正文(いそべ まさふみ)さん、その他のスポーツ選手や作家、アナウンサーなどジャンルを問わず多くの著名人・有名人がいます。
吉川晃司さんと高校時代には、バンド仲間の友人の友人程度で直接話をしたこともなかったそうですが、長身のイケメンで水球の選手だった吉川晃司さんは、目立つ存在だったと思います。
高校時代に吉川晃司さんはデビュー、あれよあれよという間に、ブレイクして大スターとなってしまいます。
広島出身のスターと呼ばれるミュージシャンは当時、吉田拓郎さん、矢沢永吉さん、西城秀樹さん、原田真二さん、浜田省吾さんなど多くいらっしゃいますが、
その時、「とうとう、同級生の世代でも有名人が出たか!」と、なんとなくスターに憧れていた奥田民生さんは、背中を押されたと言います。
広島電子専門学校に入学するとEARTHSHAKER(アースシェイカー)あのラウドネスのボーカルの二井原実さん(メッチャ高音の出る方)がいたヘビーメタル系バンドのコピーバンド「READY」をやっていました。
奥田民生の妻は?READYから『UNICON』へパフィー、井上陽水と
「READY」が解散すると、のちの『UNICON』(ユニコーン)のメンバーとなる手島いさむさんと、向井美音里さんに誘われ、西川幸一さん、それにEBI(えび)さん、が加わり1986年3月に『UNICON』が結成されます。
ユニコーンの初期メンバーには女性の向井美音里さんがいらっしゃいました。この方、1989年にEBIさんと結婚するのですが、1998年に離婚されています。
ユニコーンだけを取り上げても興味深いのですが、今回は奥田民生さんを中心に話を進めます。ユニコーンは1986年12月にソニーのオーディションに合格。
ユニコーンは1987年にアルバム『BOOM』でデビューします。バンド名は、イギリスのロックバンドT・レックスのアルバム『ユニコーン』から頂いているという事です。
そこから先は、当時のプロデューサーのアシスタントの阿部義晴さん(現・ABEDON)が加わり、現在はリーダーです。
その後は、話題曲やタイアップ曲、ヒット曲を連発していたユニコーンですが、同時に奥田民生さんもソロ活動でも活躍し始めます。
ユニコーンの楽曲の影響は大きくファンキーモンキーベィビーズのファンキー加藤さんを始め、ゆずや、コブクロなど多くのミュージシャンに影響を与えています。
又、奥田民生さんの交友関係は広く、斉藤和義さんや、寺岡呼人さんなどのミュージシャンはもとより、お笑いのダウンタウンさんは、デビュー間もない頃からテレビ番組などでご一緒しています。
パフィーのプロデューサーとしても敏腕で、井上陽水さんとのタッグもありましたが、
奥田民生さんは、音楽人生の中で歌詞の言葉の使い方で圧倒的にすごいと思ったミュージシャンは、やはり井上陽水さんだと言います。
過去に奥田民生さんも井上陽水さんとユニットを組み、2枚のアルバムを出していますが、強く印象に残る仕事だったようです。
奥田民生の妻は?嫁は5歳年上。名曲『息子』のモデルは・・・?
そんな奥田民生さんが選んだ結婚相手の方は、ユニコーンのスタイリストとして活躍されていた旧姓、佐野美由紀さんと言う5歳年上の方です。
奥田民生さんは、ユニコーン結成から約9年後の1995年(平成7年)に、神田明神で結婚式を挙げました。
奥さんの美由紀さんは、バツイチだそうで、離婚の噂などが囁かれた事もありましたが、事実無根で良好な関係のようです。
お子さんは二人いて、上の方は、娘さんで1997年のお生まれ、息子さんは、娘さんより10歳くらいの年の差がある弟さんで2007年のお生まれらしいのです。辰生(たつお)さんと言う名前のようです。 今は高校生くらいでしょうか?
奥田民生さんのヒット曲『息子』と言う曲があります。コカ・コーラのCMソングにもなりヒットしました。
奥田民生さんの『息子』の歌詞から
半人前がいっちょまえに 部屋のすみっこずっと見てやがる おーメシもくわず なまいきな奴だいじめっこには言ってやりな そればっかりはやってられないよ君たちも 大人に …
そんな歌詞で始まりますが、いじめられっ子にやられて、部屋の片隅でたたずむ息子に恐らく、心の中で投げかけている言葉なのでしょう。
歌詞の中に、”俺なんかよりずっといける べっぴんさんにきっと惚れられる”なんて一節もあり・・・親バカなんて思ったのですが、ん、なんと!
この楽曲が1995年1月15日発売のモノで、この作品、息子さんに書いている訳ではなく、想像で書いておられたのですね?
実は、今から14年ほど前、東日本大震災の直後に斉藤和義さんのUstreamの中でこんなやり取りがありました。
斉藤和義さんと一緒に『息子』を歌った後に「息子さんが何歳くらいの時にこの曲を作ったの?」と奥田民生さんに質問したところ、「息子が生まれる前だよ。生まれてたら作れない。」という答えでした。
まだ姉である第一子の方も生まれる前なのに、かなりきめ細やかに、子供を持つ親心を描写しているなぁと感じます。
又、どこかで自分の幼少の頃と重ね合わせていたのかもしれません。そんな風に考えると、子育ても淡々と、しかし情熱をもってやっておられるのかと思います。
息子さんらしき方と一緒に釣具屋さんに行くこともある様で、奥田民生さんの多趣味の中でも大好きな釣りに一緒に付き合ってるのかもしれません。
多くのミュージシャンと交流を持ち、様々なコラボや、ユニットを組んで活躍しています。豪華メンバーがそろった『カーリングシトーンズ』活動も面白いです。
自然体でフジパブリックの志村正彦さんが亡くなった時、号泣していたという仲間想いの方でもあります。
いかがだったでしょうか?今回は奥田民生さんとユニコーンの関係やご家族、楽曲『息子』についてなど深堀してみました。

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