萩原健一の若い頃はボーカル、ドラマ出演、事件、死因は10万人に一人?!

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萩原健一さん。私、moonが好きなドラマに、倉本聰さんの若い頃の脚本で『前略おふくろ様』と言うのがあります。このドラマが好きすぎて、板前になろうと思った小学生でした。

その時のドラマの主人公が、萩原健一さんで、毎週金曜日の夜はこのドラマを楽しみにしていました。もちろん、萩原健一さんはその前から小学生なりに知っていました。

ドラマ『太陽にほえろ』では、萩原健一さんは『マカロニ刑事』役でも見ていて、殉職のシーンはとても悲しかったのを覚えています。




萩原健一若い頃はザ・テンプターズ、PYG(ピッグ)のボーカリスト

萩原健一さんは、1950年(昭和25年)に埼玉県さいたま市中央区のお生まれです。実家は鮮魚店で、母親の不倫の末に生まれたと萩原健一さんご自身の自伝の中で書いておられます。

萩原健一さんの本名は萩原敬三さんと言います。デビュー前の不良仲間内で、「ダイケン」「チュウケン」「ショウケン」がいて、その時のショウケンがそのまま、愛称になったのだとか。

萩原健一さんの身長は174㎝で、血液型はO型と言う事です。

萩原健一さんは東京都荒川区の聖橋中学校・高等学校(現在は廃校)在学中、埼玉県大宮市でスカウトされ、ザ・スパイダースの弟分バンド、ザ・テンプターズのヴォーカリストとして1967年「忘れ得ぬ君」でデビュー。その時ショーケンこと萩原健一さんは16歳でした。

萩原健一さんは、1968年に「エメラルドの伝説」、「神様お願い!」、「おかあさん」などのヒット曲が出て、ザ・テンプターズは、一気にスターダムにのし上がります。

ザ・テンプターズはローリングストーンズの影響を受けていました。又、この時期に、萩原健一さんは女優の江波杏子さんとお付き合いをしていました。

ザ・テンプターズが解散後した1970年に、萩原健一さんは、井上堯之氏、大野克夫氏、沢田研二氏、岸部一徳氏、大口広司氏らでPYG(ピッグ)と言うバンドを始めました。

今、聞いても大物の皆さんですが、各種ロックフェスティバルやテレビ出演、音楽活動を盛んに熟していました。


萩原健一の若い頃のドラマ出演は偶然の代役抜擢から?

しかし、その頃に転機が訪れたのです。萩原健一さんの中に映画監督への興味が出始めたのでした。

と言うよりも、萩原健一さんはグループサウンズの中に身を置く自身に嫌気みたいなものが首をもたげたのかもしれません。

萩原健一さんは1972年に製作された松竹映画『約束』(斎藤耕一監督)の製作現場に、サード助監督として参加します。

しかし途中、主演俳優・中山仁氏が降板したため、萩原健一さんは代役に抜擢される事となったのです。

萩原健一さんのその演技力が評価されて、テレビドラマ『太陽にほえろ!』の初代新人刑事のマカロニ刑事役で登場。お茶の間の人気を博します。

2年後の1974年には萩原健一さんと神代辰巳さんとのコンビによる映画『青春の蹉跌』でキネマ旬報の最優秀主演男優賞を受賞しています。

こうなると、萩原健一さんは次々ヒット作が出ます。日本テレビ系のテレビドラマ『傷だらけの天使』(1974-75年)では、水谷豊さんの『あにきぃ』と慕われる役どころをクールに熟していました。

そして何と言っても倉本聰脚本の『前略おふくろ様』(1975-76年)長い髪を角刈りにして、はにかむ地方出身の主人公の板前の役として、仕事に恋に、東京の下町を舞台に人情あふれる演技で多くの方が魅了されました。

又、この中の挿入歌「前略おふくろ様」も萩原健一さんの歌唱によるものです。オープニングのインストゥルメンタルは、盟友の井上堯之バンドだったと記憶しています。


萩原健一の若い頃。妻、交通事故、事件、大麻、逮捕。

一方、萩原健一さんが、飲酒運転で人身事故を起こしたのが、1984年の事です。この時は業務上過失傷害で逮捕されています。

その後、2004年には、バイクとの接触の事故、この時は業務上過失致傷罪で逮捕。2011年にもUターンしようとして、タクシーとの接触事故。

萩原健一さんは女性とのうわさも多く、4度の結婚をされています。

1度目は1975年 ~ 1978年までモデルの小泉一十三(こいずみひとみ)さんと。この方との間に娘さんがお一人いらっしゃるようです。

2度目は、1980年 ~ 1984年まで女優のいしだあゆみさんと。

3度目は1996年 ~ 2006年までヘアメークアーティストの島田由紀さんと、

そして最後は、モデルの冨田リカさんとは2011年 ~ 2019年の晩年まで萩原健一さんは、ご一緒でした。

1985年11月には、女優・倍賞美津子さんとの2ショット写真を週刊誌に撮られて激昂した萩原健一さんは暴行事件を起こしてしまいます。

倍賞美津子さんは当時、アントニオ猪木さんの奥さんでした。又、この時期、別な女性でバイオリニストの前橋汀子さんと交際していたと言います。

その他、大麻の不法所持であったり、共演者への暴言や暴行で降板になったり、脅迫の容疑で逮捕されたり、何かとお騒がせな方でしたが、圧倒的にかっこよい豪快な方でした。


萩原健一の若い頃のジェットコースターのような人生からメリーゴーランドへ

そんなモテまくっていて、アウトローな萩原健一、ショーケンでしたが、最後の奥さん冨田里香さんとは2011年2月7日に入籍しております。

ジェットコースターのような人生だったけども、今後は2人でメリーゴーラウンドのようなゆっくりした人生を歩みたい。

この様に語っております。

又、萩原健一さんは還暦を迎えた際のインタビューで

落下していく自分と、上っていく自分というのはねえ、紙の表と裏なんだよね。実に破けやすい、薄いものなんですよ。その関係の中で人生は帳尻が合うようになっている

この様に語り、自ら、東洋思想や仏教研究に取り組んでおられたと言います。萩原健一さんは奥さんと出会えたことについても自分が少しはよい事をしてきたからこの人と出あえたのかな?と仰っていました。

丁度、5年前の2019年3月26日午前10時30分、都内の病院でGIST(消化管間質腫瘍)のため、萩原健一さんはお亡くなりになっています。

このジストと言う病気は年間10万人に1人か2人だと言う稀な病気です。

萩原健一さんは68歳でお亡くなりになっています。2011年から闘病しておられ、萩原健一さん本人の強い希望で病名の公表を控えていたようです。

萩原健一さんの葬儀は27日に家族のみで営まれ、本人が以前住んでいた神奈川県の鶴見近辺の斎場で荼毘に付されたました。

萩原健一さんの若い頃のハイトーンな声では無く、60代の声で歌うブルースは経験が積み重なって出てきた大人の魅力なのだろうとmoonは思うのでした。

以上、ショーケンこと、萩原健一さんのお若い頃のお話と、お亡くなりになった10万人に1とも言われるお病気のお話でした。

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