髙橋真梨子さんは、若い方でも、その曲や歌声、又、お顔を見れば「あ~、この人見た事ある。」「この曲、聞いた事ある!」と感じる方だと思います。
ヒット曲の多さもそうですが、インパクトと言うか?広く人々の心に残る歌声の持ち主です。今回はそんな髙橋真梨子さんの若い頃の活動や、夫の話や噂される娘さんの存在などをお伝えいたします。
髙橋真梨子の若い頃、ご両親と戦争が引き起こした悲劇 最愛の父の死
髙橋真梨子さんのご出身は広島県廿日市市で生まれました。父は当時の広島鉄道局にお勤めで、母は銀行員をなさってました。又、夜は、ダンサーとしても活動されていたそうです。
それぞれ勤務中の時間の1945年8月6日、米軍の原子爆弾投下により被爆してしまいました。広島のダンスホールで高橋真梨子さんのご両親は出会い、1949年〈昭和24年〉3月6日に高橋真梨子さんが生まれます。
その頃、父は、鉄道局を辞めて、朝鮮戦争下で米軍基地があり、ジャズのクラブなどの多い博多でプロのジャズクラリネット奏者として活動をしていた為、高橋真梨子さんは1歳の頃に母と博多に移り住みます。
しかし、その後、高橋真梨子さんが3歳くらいになると、父は被曝の影響の為、足の指先から末端の血管に血液が行かなくなり、壊死してしまう症状が現れました。
そして、両足の切断を余儀なくされ、それに伴って動くことも制限されてしまったのです。
そんな中、高橋真梨子さんの母は、博多の中州でスナックを経営し、ホステスとして家計を支えておりましたが、病気の高価な薬代に費やされたと言います。
徐々に夫婦げんかが多くなり、高橋真梨子さんが5歳の頃、別居生活になったそうです。そして高橋真梨子さんの父は生まれ故郷の広島に帰ってしまい、高橋真梨子さんは母と二人で博多で暮らすことになりました。
高橋真梨子さんは、お父さん子で、父の事が大好きで、長い休みなどは父の所へ行くのを楽しみにしていたそうです。
高橋真梨子さんが10歳の頃、両足義足の父が、スクーターで夜中に高橋真梨子さんの家に高橋真梨子さんの母と会う為にやってきたそうですが、
母は店からなかなか帰らず、やけ酒を飲み始める父。再び母とやり直したかが拒否された事を、泣いていたそうです。
そんな父の傍らで高橋真梨子さんは、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いの『ピーナッツ』を売り出し中の渡辺プロダクションと言うのを知っていて、
「まり子がナベプロに入って、歌手になってお金を儲けてあげるから」と父を慰めたと言います。
その後、高橋真梨子さんのご両親は離婚して高橋真梨子さんは父の姓の「森岡」から母の姓の「高橋」になります。
しかし、母との関係性はよくはなく、不倫していた母の事を恨み続けていたと言います。
高橋真梨子さんは、ある日、父が危篤だと言う知らせを聞いて駆けつけると、父は元気にしていたと言います。腸捻転を起こした父を重症に思った人が知らせてくれたそうです。
その数か月後、同じような知らせが来ますが、その内と思ってるうちに「チチシス」と電報が来ます。
高橋真梨子さんは今でも会えなかった事を後悔していると言います。享年37歳で原爆での被ばくの後遺症に悩まされた人生だったようです。
髙橋真梨子が若い頃、博多で歌手を始めるとナベプロのスカウトが。
生前、芸能界入りにはあまり賛成していなかった父ですが、歌手と言う職業は嬉しく思っておられたようです。
中学生の頃から学校に内緒で、博多のナイトクラブで歌手として歌っており、その頃、博多界隈でも、「上手い娘がいる。」と噂になっていたようです。
高校一年生の頃に渡辺プロダクションに「スクールメイツ」の一員としてスカウトされ、都内の高校【駒沢学園女子高等学校】に転校しております。
しかし、活動を続ける中で、アイドルを目指している訳では無い高橋真梨子さんの気持ちに正直になると、歌手として歌うことを選ぼうと思ったようです。
そして、母への反発心が徐々に打ち解け、気持ちも理解できるようになった矢先、母の末期癌が見つかりました。
20歳前に博多に戻り、再び、ジャズクラブなどで歌い始めます。そんな中『ペドロ&カプリシャス』のペドロ梅村さんに1年間の契約でスカウトされます。
1972年、ペドロ&カプリシャスは、ヒット曲が出ていたのですが、突然初代ボーカルの方が脱退して、そんなタイミングで巡り合ったのが髙橋真梨子さんでした。
髙橋真梨子が若い頃、独自の音楽への価値観に、道が開ける。
ペドロ&カプリシャス時代の芸名は「高橋まり」で活動されていました。
1973年には「ジョニィへの伝言」「五番街のマリーへ」がロングヒット 翌1974年の『第25回NHK紅白歌合戦』に「ジョニィへの伝言」で初出場を果たしました。
最初は1年のつもりでおりました。「ジョニィへの伝言」は最初は全然売れず、福岡に戻ろうかと思っていた頃、急に売れ出し、帰るに帰れなくなってしまいました。
1978年にヘンリー広瀬さんと共に「ペドロ&カプリシャス」を脱退して、「髙橋真梨子」としてソロ歌手として活動を始めるようになりました。
高橋真梨子さんは1984年には「桃色吐息」がソロ独立後7年目にして初の大ヒットとなります。その後、安定して1992年の「はがゆい唇」、1994年の「遥かな人へ」など数々のヒット曲を連発しております。
髙橋真梨子さんは、ソロで活動するようになって、1979年から全国ツアーを2019年まで41年連続で2000人以上収容の大規模ホールで、年間25公演以上を41年も継続している女性ソロ歌手は高橋真梨子さんのみだと言う事です。
高橋真梨子の若い頃からのバンド仲間だった夫、娘はいない?病気は?
しかし、高橋真梨子さんは、41年間の全国コンサートツアーも2023年1月をもって、もうしないと宣言したようです。ご自身も高齢になって、最後の公演を締めくくった感じになったのでしょう。
何故か数年前から、高橋真梨子さんに娘さんがいると噂されていましたが、夫で同じバンドの音楽プロデューサーでギター、キーボードをこなすヘンリー広瀬さんとの間には、お子さんはいません。
髙橋真梨子さんご自身が数年前から、更年期障害などで痩せたことで、お病気など噂された事もあったようですが、現在、ご自身のペースでお仕事を続けられているようです。
悲しみを、何処か心の隅に置いていた幼少期の頃から、歌うことで自分を昇華してきた髙橋真梨子さんの歌声は、経験が深みを出し、多くの人の心に残るのですね。
以上、高橋真梨子さんの若い頃の活動とご両親とのエピソード、旦那さんの事、娘さんの噂の真相などを調べてみました。
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