アン・ルイス若い頃の夫は?息子は?孫もいるの?

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アン・ルイスさんと言えば、1980年代、毎日とは言いませんが、かなりテレビへの出演も多く、話題に事欠くことの無かった方です。

アン・ルイスさんの若い頃の結婚や出産、立て続けのヒット。同じ事務所の後輩・吉川晃司との『六本木心中』でのテレビ出演など大きな話題となりました。

しかし、今、アン・ルイスさんは、全然、メディアに出てこられませんが、若い頃の軌跡と、今、現在の様子を調べてみます。




アン・ルイスの若い頃に、大物作詞家と偶然出会い、芸能界へ!

アン・ルイス(Ann Lewis)さんは、本名をアン・リンダ・ルイスと言います。 1956年6月5日 のお生まれで兵庫県神戸市のご出身です。

アン・ルイスさんのご両親は、父親がアイルランド系アメリカ人の方でアメリカ海軍の軍人です。

母親が日本人なので、アン・ルイスさんはハーフと言う事になります。

兵庫県神戸市でアン・ルイスさんは、生まれましたが、7歳の時に横浜市中区本牧に在った米海軍の住宅街ベイサイドコートに引っ越します。

アン・ルイスさんの若い頃といえば、『六本木心中』や『あゝ無情』などアップテンポな激しめの楽曲を思い浮かべる方も多いのかもしれませんが、その世代より少し前に、

大ヒットした『グッド・バイ・マイ・ラブ』の優しくゆったりとした曲の印象をお持ちの方もいらっしゃると思います。

そんな、アン・ルイスさんを始めて見染めたのは、横浜の外人墓地を偶然散歩していた、作詞家のなかにし礼さんでした。

アン・ルイスさんは、その時14歳。

なかにし礼さんは、アン・ルイスさんと出会った当時、作詩家としてデビューして4年くらい。

その頃のなかにし礼さんは、2度の日本レコード大賞を受賞するという破竹の勢いともいうべき活躍されておった時期でありました。

当時、なかにし礼さんは『なかにし礼商会』と言うプロデュースする事業を始めていて、アン・ルイスさんはなかにし礼商会の第一号タレントとなります。

のちに、その時アン・ルイスさんとの出会いについてをラジオ番組において、パーソナリティを務めていた漫画家の弘兼憲史さんに、「一見してスターになれるというイメージが?(あった?)」と聞かれ、

間を置かず 「だって可愛いもの」と答えておりました。確かに当時の画像を見ても、可愛らしく、物怖じしない方の様なので、なかにし礼さんの目に留まったのかもしれませんね。

その後、1971年2月25日に、ビクターレコードよりシングル「白い週末」でデビューします。

この曲は、1972年に、札幌で開催された第11回冬期オリンピック大会のプレオリンピックのテーマソングとして起用されておりました。


アン・ルイスの若い頃「グッド・バイ・マイ・ラブ」が大ヒット

その後、約3年くらいはレコードは、地道に、シングルをコツコツ出していました。

1972年にはカメラフィルム・さくらカラーのCMに出演して「色鮮やか~」のフレーズと、愛らしい笑顔で、お茶の間でも人気者となります。

そして、1974年4月5日に「グッド・バイ・マイ・ラブ」が、発売されると50万枚の大ヒットとなります。

この楽曲は、なかにし礼さんが作詞、平尾昌晃さんが作曲をしたバラード曲でのちに、多くの歌手の方がカバーしております。

松崎しげるさん、元アイドルの坂上香織さん、酒井法子さん、小泉今日子さん、真心ブラザーズ・・・等々

一番新しいものでは2021年に上白石萌音さんが、ご自身のアルバムの中でカバーしております。

しかし、なんと言っても、アン・ルイスさんのご友人でもあったという、テレサ・テンさんのがこの曲をカバーした事で広くアジアでも、知れ渡る事になります。

そこからしばらくは、楽曲の方は鳴かず飛ばずでしたが、

ロックテイストのアン・ルイスさんを見ている方は、ファッションの分野でも、かなりアバンギャルドな感覚を使いこなしているのをご存じと思いますが、

若い頃からアン・ルイスさんのファッションセンスは秀逸で、同年代の友人のキャンディーズや、山口百恵さんのステージ衣装などに携わっております。

やがて、アパレルメーカーの『SUZUYA』と、オリジナルブランドの『ONAGO』を立ち上げるくらいの実力を兼ね備えていました。


アン・ルイスの若い頃、夫との出会い・結婚・長男出産・離婚

アン・ルイスさん、恋愛に関しては、アメリカンスクールにいる頃から、あっけらかんとしていました。

常に、『ステディー』がいると言い、クラスメイトから、頻繁に恋愛相談を受け、『恋愛パイロット』なんて呼ばれていたと言います。

そんなアン・ルイスさんですが、1980年3月日にロック歌手の桑名正博さんとアン・ルイスさんは挙式をあげて、10日に正式に結婚を発表しております。

桑名正博さんは、1977年9月にコカインと大麻の使用の容疑で書類送検後、10月12日に麻薬取締法違反容疑で逮捕された経歴があります。

判決は懲役2年執行猶予3年の有罪判決を受る事になったのです。

しかし、桑名正博さんは、執行猶予中の身ではありましたが、1979年発売のカネボウ化粧品キャンペーンソング『セクシャルバイオレットNo.1』が、チャート1位を獲得する大ヒットを記録します。

今の世の中であれば、執行猶予中の歌手の曲を企業キャンペーンソングに選ぶことは無かったでしょうし、その曲が大ヒットすると言うのも、その時代だったからこそかもしれません。

おおらかと言う事もできますし、芸能人に甘いなんて言い方は、その当時から言われていたみたいです。

何はともあれ、世の中では、話題の二人であった事は間違いなく、マスコミも大きく報道しました。

1981年5月8日に長男の美勇士(みゅうじ)さんが生まれます。もちろん名前の由来は『みゅうじ』は『ミュージック』から、現在は音楽活動と、ゲーマーとしても幅広く活躍されています。

しかし、結婚後の生活は順風満帆とは言えませんでした。

1981年9月29日に、モデルをしていた19歳の女性ファンへの強制わいせつ致傷容疑で逮捕されるという事件が起きました。

この事件は、桑名正博さんとの示談が成立して、不起訴処分となりました。

同じ年の12月25日に、大阪府警生活課と豊中警察署から、9月に大阪の実家で開いた大麻パーティーで大麻を使用した大麻取締法違反容疑で取り調べを受ける事になりました。

そして、とうとう1984年に、アン・ルイスさんと桑名正博さんは4年間ほどの結婚生活ののち離婚してしまいます。

立て続けに事件を起こしていた夫の桑名正博さんですが、アン・ルイスさんにとって離婚の原因の一つには、姑との確執もあったと言います。

桑名正博さんの実家は、江戸時代から続く廻船問屋で、建設業、運送業など幅広く経営をし、『桑名財閥』と呼ばれる位の名家でした。

そんな大きな家の姑さんとしては、いくら息子が見染めた女性と言っても、面白くない事が多かったのかもしれません。

当時は、自身の息子さんのトラブルより、嫁であるアン・ルイスさんへの風当たりが強かったのかもしれません。

又、自由奔放なアン・ルイスさんにとっても、日本の格式と言うものが煩わしいく感じたとしても不思議ではありません。

桑名正博さんは、アン・ルイスさんとの離婚後、すぐに別な方と結婚しています。

息子の美勇士さんは、13歳の時にアン・ルイスさんから、父親の桑名正博さんの元で暮らすことになりますが、美勇士さんは、いつか3人で音楽活動をやりたいと思っておりました。


アン・ルイスの若い頃、楽曲の変化と大ヒットが続いた理由

アン・ルイスさんは、結婚される少し前の1977年頃から、松任谷由実さんや、元ワイルドワンズの加瀬邦彦さん、

シュガーベイブを経ても、まだそれほど知られていなかった山下達郎さんなどが、アン・ルイスさんへの楽曲提供を始めました。

山下達郎さん自らもカバーされている『恋のブギウギトレイン』等の楽曲もこの時期です。

アン・ルイスさんが出産後、育児に専念して活動を控え、その後、芸能活動の復帰の際は、友人であり、芸能活動を引退された山口百恵さんも、アン・ルイスさんの為に作詞をしました、作曲はなんと沢田研二さんという楽曲もあります。

その楽曲はアン・ルイスさんの『ラ・セゾン』と言う楽曲でオリコン最高位3位となり20週ランクインするヒット曲となりました。

その他にも、竹内まりやさん、矢沢永吉さんのバックバンドとして活躍していたNOBODYや、大沢誉志幸さんなどそうそうたるメンバーによる楽曲が繰り出されます。

そして、なんと言っても、アン・ルイスさんの離婚直後に湯川玲子さんとNOBODYでの楽曲『六本木心中』が45週連続でチャートにランクインするロングヒット。その後『あゝ無情』が立て続けにヒットとなります。

しかし、1995年頃にパニック障害である事を、記者会見で語ります。パニック障害は特に身体の病気がないのに、突然、動悸、呼吸困難、めまいなどの発作(パニック発作)を繰り返すと言います。

発作への不安が増して、外出などが出来なくなってしまう事もあるそうです。その為にアン・ルイスさんはテレビのお仕事を受ける事も無くなり、生活の拠点をアメリカに移してしまいました。

アン・ルイスさんの息子の美勇士さんは2011年9月、元宝塚歌劇団花組男役の日向燦さんと結婚して、この年に『音衣 ねい』ちゃんが生まれています。

2013年には長男「藍紅(あいく)」、2014年には次男「真陽(まはる)」、2015年には次女の「リル」が誕生しております。美勇士さんは4人の子供の父親となっています。

長女が生まれた事をアメリカに住むアン・ルイスさんに電話で知らせると「おばあちゃんと呼ばせないようにね。」と言うのが第一声だったというのも、アン・ルイスさんらしいですね。

アン・ルイスさんの息子である美勇士さんが31歳になった2012年に親子3人で一緒に楽曲を出します。初めは難色を示していたというアン・ルイスさんも、アメリカから戻り、『One』という曲の制作をします。

長年、温めていた美勇士さんの夢が叶いました。しかし、『One』の収録の2か月後、7月15日に桑名正博さんが脳幹出血の為、倒れてしまいます。

そして、およそ3か月後の10月26日、59歳という若さで帰らぬ人となってしまいます。

現在は、数年に一度、孫に会いに帰国しているというアン・ルイスさん。今はアメリカで沢山の猫と一緒に一人暮らしをしているという事です。

パニック障害の為に芸能生活を引退してしまったという事なんですね。

以上、アン・ルイスさんの若い頃の夫との紆余曲折、息子さん、孫さんの事などを紐解いてみました。

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