聖飢魔Ⅱメンバーの死亡、デーモン小暮の年齢と気になるがんの報道は?

ロック

聖飢魔Ⅱと言えば、独特のビジュアルと、メンバーは悪魔教の布教の為、人間界に訪れたと言うなかなか突っ込みにくいシュチュレーションで(笑)、1980年代にあっという間に日本中で知られることになります。

とりわけ、デーモン小暮さんは、閣下と呼ばれ、オドロドロしい楽曲で初めはコミックバンドなのかと思っていたのですが、いやいや、抜群の歌唱力があり、話もうまい。

そんな訳で、テレビではバラエティ番組などでも、良くお見掛けしました。さてそんな、聖飢魔Ⅱのメンバー死亡と言う情報と、デーモン小暮さんの『がん』と、もう一つの大きな病気の噂を調べてみます。




聖飢魔Ⅱメンバーの死、デーモン小暮閣下の年齢は?

聖飢魔Ⅱのメンバーの方はどんな方がいらっしゃるのか見てみましょう。因みに構成員と呼ばれています。

先ずはデーモン小暮閣下は、紀元前98038年11月10日の生まれ・2025年6月現在で御年10万62歳と言う事です。(笑)

恐らく末尾の二桁である62歳なのかなと思っています。初期はデーモン小暮、その後、デーモン小暮閣下、2010年以降はデーモン閣下と呼ばれることが多いようです。

担当はボーカルであり、リーダーで、自ら「段取り専務」と仰っております。悪魔教教祖・元地獄副大魔王と肩書があります。
世を忍ぶ仮の名前としてデーモン小暮、デーモン小暮閣下、と呼ばれておりますが、本名なるものは一切メディアに出てきません。

ジェイル大橋代官
担当はギターで1985年6月 から 1987年1月まで、構成員として元魔界帝国治安判事(2009年7月以前は「元地獄最悪刑務所拷問官」)

脱退後渡米して、Cats In Bootsを結成するも解散しています。帰国後THE OUTSIDERSを結成し、大橋隆志として現在もミュージシャンとして活躍しています。

Sgt. ルーク篁III世参謀(えすじーてぃるーくたかむらさんせいさんぼう)
担当はギター。魔界軍事局参謀1987年2月から解散までメンバーとして活動されていました。因みに『Sgt.』は参謀を意味します。

ゼノン石川和尚
担当はベースで魔界文化局長と言う肩書ですが、加入当時は「博士」と呼ばれており、構成員からはシュンちゃんと呼ばれている。石川俊介として音楽活動中です。

ライデン湯沢殿下
ドラムスの担当。公家。天地共通の凶皇・雷神の息子なので本来は神の一族であり、正確には悪魔ではないと言うことで、聖飢魔Ⅱの解散後は、雷電湯澤として活動中です。

エース清水長官
ギターとボーカルを担当しています。地獄中央情報局長官として1982年12月から1983年10月1日まで活動しています。初代ドラムとして参加し、楽曲によってリードボーカルを務める事もありました。


聖飢魔Ⅱメンバーの死、聖飢魔Ⅱのメンバーはどんな人たち?

その他に途中脱退した構成員の方は?
ダミアン浜田さん(サタン45世)殿下(現・陛下)ギター担当、創設者、地獄の皇太子殿下(1982年12月 – 1985年2月)
聖飢魔IIを結成しました。卒業とともに数学教師になるため脱退して、バンド脱退後は、数学教師・軽音楽部顧問で14年間勤務します。

ゾッド星島親分
ベース担当(1982年12月 – 1986年6月)
デビュー前はグレート星島という名前で活動しておりました。元地獄最高審問官閻魔 。

ジード飯島大将
ドラムス(1983年9月 – 1985年4月)                            「買収されて神の側に寝返ったため地上に追放された」とされるジード飯島大将は、追放後は、世を忍ぶ仮の姿で証券会社に就職したらしいとデーモン小暮さんの著書で紹介されております。

魔女RYO子嬢
キーボード(1983年9月 – 10月)
聖飢魔II唯一の女性構成員。華やかなピンクの髪を持つ細身の女性。その後は丸山涼子としてサウンドデザイナーや作曲家として、又バンド『渋さ知らズ』でキーボーディストとしても活動しています。

ジャギ古川CAPドラムス(1985年3月 – 6月)
早稲田大学3年生の時、音楽サークルの先輩であったデーモン閣下に誘われて聖飢魔IIにドラマーとして加入。大学4年の10月に脱退しました。
脱退後は旭化成に就職後、ソニー生命勤務を経て保険マンモスを起業して、代表を務めております。

ジャントニオ・ババヤシ
ギター(1984年4月)
デーモン閣下によれば、「世を忍ぶ仮の高校時代の同級生の小林くん」とのこと。
サポート構成員ではなく、正式構成員だが、聖飢魔IIのミサで演奏したのは後にも先にも一度きりでと言う事です。1999年段階では世を忍ぶ仮の姿で某メーカーで仕事をしているらしいと閣下のお話です。

ガンダーラ・サンゲリア・チグリス・ユーフラテス金子
ギター(1985年1月 – 6月)
スーパースランプにも本名の金子周平として在籍していました。『スーパースランプ』は、かつて早稲田大学の仲間で構成されていて、中にはサンプラザ中野くんも、デーモン小暮閣下も二代目ボーカルとして在籍していた伝説のバンドで、後に『爆風スランプ』の語源になったバンドです。


聖飢魔Ⅱメンバーの死、デーモン小暮閣下の身長や生い立ち。

さて、デーモン小暮閣下ですが、お父さんは銀行員で、優秀な方なのでしょう、幼少の頃は、父の仕事の為、幼稚園児時代から小学1年の途中までニューヨークで過ごします。

その後、小学2年までを東京で、小学3年から5年までを広島市西区で過ごし、小学6年以降は東京で過ごします。

帰国子女だったんですね。身長は168cmから180cmとなってましたが、恐らく頭の羽の部分の有無でしょうか?

聖飢魔Ⅱは、アルバムを大教典と呼び、シングルを小教典、ライブをミサや黒ミサなど独特の呼び方をしており、ファンについては信者と呼んでおります。

又、1999年12月31日午後12時59分59秒をもって魔歴元年とし数えてるためそれ以前は紀元前となります。

聖飢魔Ⅱは早稲田大学にて、魔暦紀元前16年(西暦1982年)12月末ダミアン浜田さんにより結成されます。

紀元前13年(1985年)に大教典「悪魔が来たりてヘヴィメタる」で地球デビューを果たすと、翌年発布(リリース)された「蝋人形の館」で一躍有名になります。

フロントマンのデーモン小暮閣下のトークスキル、ユーモアの感覚、又、歌唱力の高さやヘビーメタルの音楽性なども評価を受け、奇抜なファッションも相まってお茶の間でも人気を博します。

元メンバ‐として前章の最後に紹介したガンダーラ・サンゲリア・チグリス・ユーフラテス金子さん(以後ガンダーラ金子)は、脱退後、色々なバンドで活躍されていました。

 聖飢魔Ⅱ、25周年の再集結ツアー中のミサ(聖飢魔Ⅱの行うライブの事)の中で、デーモン小暮さんは、「金子、頑張れ!」と説明もなく叫んだと言います。

 それは、設立当時に聖飢魔Ⅱを一緒に作った闘病中の仲間へのエールだったのです。

しかしそんな思いも叶わず、ガンダーラ金子さんは、2012年6月に肺癌により死去したことが実弟(レピッシュの元ドラマーである雪好さん)から発表されました。

ガンダーラ金子さんの死はかつてともに活動していたデーモン閣下にとっては、悲しく辛い出来事だったのでしょう。正確な情報が無いのですが恐らく40代もしくは50歳になったばかりだったのではないでしょうか?

しかし、デーモン小暮閣下は、悲しむだけではありませんでした。その出来事をきっかけに、デーモン小暮閣下が小学生時代を過ごした広島県の『がん検診推進キャンペーン』のイメージキャラクターを務める事になりました。

2012年7月より広島県の「がん検診啓発キャラクター」に就任していて、広島の本通り商店会を練り歩き、がん検診を呼び掛けたり、広島東洋カープの試合で始球式をしたり、マツダスタジアムの外野席で検診の受診を呼びかけたりと積極的に活動されています。


聖飢魔Ⅱメンバーの死、デーモン小暮が、がんと大きな病気に罹る!

2024年の6月になると聖飢魔Ⅱファンにとっては衝撃的なニュースが飛び交います。なんと、デーモン小暮さんご自身が『がん』になったと言うニュースでした。

2024年2月頃に、係り付けの医師から薦められ、内視鏡の検査を受けたところ、検査対象ではないところに、初期の小さながんがあるのが見つかりました。

その為、2024年3月16日に開催された「ジゴロック大分地獄極楽ROCK FESTIVAL」の出演を最後に、治療に専念する為に仕事をキャンセルして、4月から5月にかけて検査入院と手術をしました。

術後の経過は良く5月下旬には退院したとの事ですが、2か月以上の入院でした。初期のがんで2か月は長い入院だと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、デーモン小暮閣下の公式ホームページを見てみると

ついでに診てもらい、転移など他にがんが見つからないことも確認ができた。
なに、「どこのがんだった」かを知りたい? そうであろうが、今は内緒だ。

またがんの他にもやっておいたほうが良い疾患を見つけられ、その治療もできた。
あらためて「かかりつけ医」の存在と「検診」がいかに大事であるか、そして「早期発見」がどれほど自分や周囲に安心をもたらすかを、己の身をもって認識した次第である。

デーモン小暮閣下公式ホームページより

そのようなメッセージに加え、係り付け医の大切さや、がん検診を受けることを薦める事に、説得力が増したと伝えております。

又、どこのがんだったかは、今は内緒と言う事でした。

更にこの中にあるもう一つの疾患と言うのが、大動脈が壁が薄くなり、瘤のようになっていた為、がんの治療と大動脈の治療のどちらを先にやるかで、専門医の中で議論になり、結論が出るまで時間がかかってしまったのだそうです。

がんもそうですが、大動脈も、ともすれば命に関わる事態を引き起こすので、お医者さん達は、悩んだそうで、結論が出るまで2カ月もかかったのだそうです。

そして、大動脈の手術は「何十万の一、何百万分の一の確率で声が出なくなるかもしれない。」と医師に言われたそうです。

しかし、デーモン小暮閣下は、覚悟を決め、がんの切除の後に大動脈の手術を受けたとの事でした。

大切な友人の『死』を無駄にしないデーモン小暮閣下の姿勢は、悪魔と言う形を保ちながら、多くの方に勇気を与え、又、検診を受ける方を増やしている事と思います。なかなか素晴らしい悪魔です。

いかがだったでしょうか?今回は聖飢魔Ⅱのメンバーの死と、デーモン小暮閣下のがんについて調べてみました。

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