中島みゆき名曲『ファイト!』若い頃と歌詞の登場人物へ寄せる想い?

カバーソング

今回は、応援ソングとして私moonが、楽曲が出来るまでのリアルタイムを味わう時代の中にいたと言っても過言ではない中島みゆきさんの『ファイト!』を取り上げてみたいと思います。

もう多くの方が、より深く取り上げているかもしれませんが、moonなりの視点で掘り下げてみたいと思います。

この曲は1983年に発表されたアルバム『予感』に収録されています。後に、『空と君のあいだに』と両A面シングルとして発売されております。

さて、この曲に秘められたメッセージとは、何故、40年にわたって様々な世代の人達の応援ソングとなっていったのか?

深夜ラジオから流れる中島みゆきの明るい笑い声と裏腹に、深刻な日々を送る多くの挑戦者たちに寄り添う気持ちとは。

日々うつむきながら、それでも前を向こうとする力を持たぬ者へ向けられる温かい心をこの曲から受け取ることが出来るのです。

中島みゆき名曲『ファイト!』幼少期から大学時代までのプロフィール

中島 みゆきさんの本名は中島 美雪(読み同じ)です。身長は161cmと言う事です

 1952年〈昭和27年〉2月23日に札幌の生まれです。祖父は帯広の市議会議長を務めるほどの方で、お父さんは産婦人科医です。

幼少時、岩内、帯広と引っ越しをして。帯広市立帯広小学校を卒業、市立帯広第三中学校(現・帯広市立翔陽中学校)に入学します。

1966年の夏には体調不良の母親が実家で一時療養するのに合わせて山形市に移ります。山形市立第六中学校に通い、高校受験のため4カ月で帯広に戻り、帯広柏葉高校に入学します。

中島みゆきさんの母は山形のご出身でゴーイングステディと言う山形出身のバンドの村井守さんと中島みゆきさんとは従姉(村井さんの父と中島みゆきさんの母が姉弟)関係だそうです。

中島みゆきさんは高校3年時の文化祭(第20回柏葉祭・1969年9月1日)で、初めてステージの上で歌う事になりました。

まだまだ、女子が目立つことをやるとヤジが飛び交うと言う時代の様でした。当然みゆきさんのステージでも野次が飛んだのだと思います。

そんな中、オリジナル曲「鶫の唄」を歌いきった時、ステージの下に駆け寄ってきた話したこともない生徒が「すごかったよ!」と声を掛けてきたと言います。

その事が、中島みゆきさんにとっては、大きな原体験になったようです。

札幌にある藤女子大学文学部国文学科入学し、放送研究会に所属、地元のラジオ局でアルバイトをしながら数々のコンテストで腕を振るいます。

その後は、1975年9月25日に『アザミ嬢のララバイ』でデビューします。直後のヤマハ『ポピュラー・ソング・コンテスト』ポプコンでグランプリを獲得しデビューに花を添える事になります。

中島みゆき名曲『ファイト!』オールナイトニッポンのお便りについて

中島みゆきさんの名曲である『ファイト!』ですが、発売当時はアルバム収録曲ですが、酷評を受けたと中島みゆきさん自身がお話されてました。

ファイト!の中には『自分が無い』と言う事も悪く評価された事だそうですが、評論家の言葉とは裏腹に、徐々に多くの人の心に響いてゆきます。

この『自分以外の5人の登場人物』の気持ちを考えてみたいと思います。

冒頭の『私、中卒やから、仕事をもらわれへんのやと書いた・・・』の少女についてはオールナイトニッポンの中のお便りで同じような境遇の方の手紙を紹介されています。

ラジオの中では、中卒の彼女が、上司のヒソヒソ話に「中卒の彼女に仕事を任せられない」旨の言葉を聞いてしまい、心の中で「中卒のどこが悪いのよ。私だって高校に行きたかった・・・。」とつぶやくのです。

「悔しい」と3回も綴られたその手紙に、中島みゆきさんは、

「どういうところを通ってきたかっていうことよりもね、そこで何をあんたが吸収してきたかってことだと思うわけよね」

「周りの中の全ての人間にさ、あなたのよさを分かってもらおうとかいうのはそりゃ無理なことだけど、分かってくれる人も、どっかに一人はいるかもしれないとかね」

1982年5月4日中島みゆきのオールナイトニッポンより

中島みゆきさん本人は、ファイト!とこのお手紙についての関係は、

「まあ、ラジオ宛てに限らず、いろんなお便りをいただいたっていう姿が、曲になってるのはありますね。もちろん、私が向こうに対してお返しする言葉も含めながら、あちらからいただいたお手紙も含めながらっていう曲が『ファイト!』って曲ですかね。...もちろんね、手紙そのまんまは書いてませんよ。いくらなんでも、それは失礼ですから(笑)。一旦、自分で取り込んで、まぁ..世界として書いてるものですけれどもね。はい」」

(NHKラジオ第1「ラジオ深夜便スペシャル」/2005年3月21日O.A.)

そんな風に、軽く否定しながらも、ラジオの向こう側にいるリスナーの大阪弁の彼女に、「あなたの事だよ。」ってエールを送っているのだと思います。

中島みゆき名曲『ファイト!』登場人物は周囲に翻弄される女性達の心

2人目の登場人物は、駅の階段で子供を突き落とし、薄笑いを浮かべる女を見た方のエピソードになります。

咄嗟の事で、叫ぶことも出来ず、子供を助ける事もなく、怖くなって逃げてしまった。と言うこの方は、moonの想像では、若い女性なのではないかと思います。

勇気を出さず、逃げてしまった自分を、私の敵は私だと、苦しい胸の内で自分を責めてしまいます。そんな彼女にも、恐らくその責めている心に、大丈夫だよ。そう思える心が大事だ。と言うようなメッセージに聞こえます。

さて、中島みゆきさんの名曲であるファイトが世に出た1983年は、戦後38年経っていたのですが、今の時代、人々が38年前をどう思うだろうと考えます。

世代間でのどうしようもないギャップが有れ、50代の皆さんにとって今から38年前(2025年時点)に起こった出来事を考えてみると、東京ディズニーランドが開園した年です。

もうそんなに経つのか?と言う思いと、それ程、大昔じゃない感覚が交差するのではないでしょうか?

そして、もっと驚愕する事は、2025年の今、この『ファイト!』が出来てから42年経つと言う事です。

そこで、戦後そのくらい経た時のアルバムの中の曲です。中島みゆきさんはもちろん戦後の昭和27年のお生まれですが、自分の周りには当時まだまだ沢山の、戦争経験者がおりました。

3番目の登場人物について、歌詞の中に『戦いの出場通知を抱きしめて、あいつは海になりました。』と言う一文があります。

これは、あくまで想像ですが、これは戦時中に息子さんを失った母親の事を書いているのではないのだろうかと、想像しています。

戦時中30歳代の母であれば、70歳代の方だったかもしれません。中島みゆきさんがもっと若い頃に聞いた話かもしれません。『あいつは海になりました。』と言う件は、尋常じゃない悲しみに聞こえるのです。

中島みゆき名曲『ファイト!』

しかし、これはスポーツでも受験でも敗れた人にも勝ち続けている人にも、『戦う君の歌を戦わない奴が笑うだろう。』と、勝ち負け以上に立ち向かったその人にエールを送っています。

その言葉を勇気に変えた人はどのくらいいるのかと想像してしまいます。

4番目の登場人物は、細かな想像が難しいのですが、

薄情もんが田舎の町に後足で砂ばかけるって言われてさ

出てくならお前の身内も住めんにしちゃるって言われてさ

うっかり燃やしたことにしてやっぱり燃やせんかったこの切符

あんたに送るけん持っといてよ

にじんだ文字東京行き

中島みゆき『ファイト!』より

端々に出る方言に、恐らく、近畿・中国地方の方が、地元の関わりのある人達からその場所に留まる様に言われ、自分を縛るどうしようもない現実の中で、東京に出る事を諦めてしまいます。

何度も見つめていた切符には、いつしか涙がこぼれ文字は滲んでしまいます。その切符を友人か?恋人にお守り代わりに持っていて欲しい。

そんなドラマを想像してしまいます。

5人目もしかしたら4人目と同一人物なのかもしれません。『私、男だったらよかったわ。力ずくで男の思うままにならずに済んだかもしれないだけ、私、男に生まれればよかったわ。』

この小節でも、今の時代はあまりうまく想像できないかもしれませんが、男性優位のようなものがまだまだあったのだと思います。

恋人の束縛というより、父親や夫のような存在からのどうしようもない束縛の様なものを感じる事が出来ます。

暗い水の流れを上って行った瘦せこけた小魚たちはやがて

 ああ小魚たちの群れきらきらと海の中の国境を越えて行く

諦めと言う名の鎖を身をよじってほどいてゆく

中島みゆき『ファイト!』より

いつしか、キラキラ輝き、自分を縛る様々な鎖をほどいてゆくようにと願う中島みゆきさんの気持ちが、多くの人達の心に染みて行き、

吉田拓郎さんをはじめ、竹原ピストルさん、Little Glee Monster等など世代を超えて、多くのアーティストがカバーし、歌い継がれているのです。

『どうせ・・・』と言う心の嘆きを感じながら、動かせない自分の人生にどう立ち向かおうと言う時、中島みゆきさんのファイト!と言う声が聞こえる事で、多くの人が救われたのではないだろうか?

いかがだったでしょうか?今回は中島みゆきさんの『ファイト!』について綴ってみました。

 

 

 

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