一青窈が病気に?本名や結婚、こどもとの現在のジジ プロジェクトとは?

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一青窈さんの歌唱は独特で、伸びのある声、独特のビブラートやこぶしは、一青窈さんの天性の声なのでしょう。

カラオケで最も多く歌われていると言われている一青窈さんの『ハナミズキ』を始め、一青窈さんには沢山のヒット曲があります。

そんな一青窈さんにお病気だという噂が出ています。ネットだけの噂だと良いのですが、そんな気持ちで、こどもさんやご家族も含めて調べてみます。




一青窈が病気に?早くに死別した父、ハーフとして生まれた本名は?

一青窈(ひとと よう)さんは、1976年9月20日 のお生まれです。出生は東京都ですが、生まれて、それ程立たないうちに、父親の国である台湾に家族で移り住みます。

一青窈さんは、台湾人の父親と、日本人の母親とのハーフと言う事になります。父親の姓が『顏』(イエン) と読みます。

『窈』(ヤオ)とお読みするので、『顏 窈』(イエン・ヤオ)と言うのが生まれた時の一青窈さんの本名です。

一青窈さんのお父さんは顔 恵民(がん けいみん:イェン ・フイミン)さんといい、生まれたのは、1928年は台湾が日本の統治下にあった時代でした。

中国は福建省からの移民として台湾に渡りました。

九份の金鉱経営で成功し、台湾の5大財閥に数えられた顔一族の長男として生まれた一青窈さんの父は、

当時、多くの台湾上流階級の子供たちがそうであったように、10歳のときに母親とともに日本に渡り、小学校から大学まで日本で教育を受けました。

東京都千代田区立番町小学校、学習院中等科(学習院中等科・高等科)から早稲田大学の鉱山科卒業しております。中国語や、台湾語より日本語の方が上手かったとか。

一青窈さんが幼稚園を卒園する頃になると、お姉さんと母親と3人で日本に戻ってきます。

程なくして、一青窈さんが小学2年生の頃に、父の顔 恵民さんが、肺がんのために亡くなります。

一方、一青窈さんの母親は、当時、石川県鳥屋町一青地区出身の日本人。お生まれは東京と言う事です。

一青窈さんの母は旧姓『一青』といい、かづ枝さんというお名前でした。『一青』は母の姓で、現在の石川県鹿島郡中能登町に一青という地名があるそうで、一青窈さんの母親は、その地域のご出身なんだそうです。


一青窈が病気に?若い頃は、文武両道。福祉の仕事からデビュー

そんな一青窈さんは、小学2年生の時に、父の死を知りました。一青窈さんの母は父の病気の事を一青窈さんにも、父にも言わなかったといいます。

一青窈さんの中には、父が居なくなったことに、コンプレックスを感じる日々が続き、父と生前から行っていた手紙のやり取りの延長で、手紙を書き続けていたようです。

小学生の高学年になる頃には、宮沢賢治氏の詩に触れ、自らも詩を書き始めました。一青窈さんの通っていた小学校は、横浜市の森村学園に初等部。

この学校は小中高の一貫校でした。美術部とバスケットボール部に所属して、生徒会では書記を務めておられたと言うので、しっかりされておられたのでしょう。

バスケットボール部では、身長は155㎝と言う事なので、それほど長身ではないですが、動きが早く、魔女の宅急便の猫の「ジジ」というあだ名でチームに貢献したようです。

又、日本語・北京語・英語を話せるトリリンガルであることからも、学業も優秀だったのではと思います。

しかし、一青窈さんが高校2年生の時に、母をがんで亡くしました。生前、闘病中の母とミュージカルを見に行き、一時的ではありましたが、一青窈さんの母は、血色がよくなり、元気が出た姿を見る事が出来ました。

一青窈さんは、良い音楽には病気を治す力があると、信じるようになったといいます。その事をきっかけに、音楽療法に興味を持ち始めます。

大学は、一青窈さんは早稲田大学の理工学部を受けますが、残念ながら不合格となり、半年間の浪人生活を経て、

後、高校の先生から慶応義塾大学のAO入試を勧められ、一青窈さんは慶應義塾大学環境情報学部に入学します。

一青窈さんは音楽療法に興味を持っており、このことを論文に書き、面接を受けますが、その部分に突き詰めた音楽療法を学ぶ学部は無かったのですが、歌が持つ力についてお話をしたと言う事です。

大学入学後は、アカペラサークル「K.O.E」に在籍をしており、バンドを結成してストリートライブをおこなっていました。

このサークルではのちのゴスペラーズの北山陽一さんと出会い、一青窈さんの詩を北山洋一さんは、「お前の詩は面白い。FAXしてくれたらいくらでも曲を付けるから歌え」といってくれたそうです。

そこから一青窈さんは、オリジナルの楽曲で歌う事になります。そして、大学2年生の頃になると、ストリートで歌う事も止めてしまったといいます。

大学では、多数のサークルに籍をおいて、友人や人脈作りに没頭したと仰ってます。

しかし、音楽活動の裏には、中学生の時に友人が、突然の事故により、車いすでの生活を余儀なくされます。

一青窈さんは、今まで通りに付き合おうと、一緒に街に出たり、遊びに行ったりするたびに、車いすの方がどれだけ苦労されているのか、服もデザインより、着やすいか?どうかで選ばなければならない事。

街中の段差、電車に乗るにも時間や状況を駅員さんに知らせて乗せてもらう事をやらなければならない事を目の当たりにします。

そんな一青窈さんは、大学1年生のときに、車いすユーザー向けの情報誌『チェアウォーカー WaWaWa』に1999年の創刊から携わります。(2013年より休刊)

アートディレクターとして表紙のデザインを手がけたり、コラムや詩を書いたり、積極的に誌面作りに取り組みました。

大学卒業後も、一青窈さんは、『チェアウォーカー WaWaWa』編集長・阿部恒世さんとともに福祉施設でのライブ活動を行ったりしておりました。

その後、聴覚障がいのある人たちの前でライブ演奏をしたときに、歌詞を手話で伝えながら、観客にはコンドームを膨らませた薄い風船を抱いてもらうことで、音の振動が伝わりやすい演出を取り入れる試みをしました。

たまたま会場に来ていた芸能プロダクションの社長が一青窈さんのライブに感銘を受けます。

社長の紹介で音楽プロデューサーの武部聡志さんと出会う事になったのは大きな転機と言えるでしょう。

2002年に「もらい泣き」でデビューすると瞬く間に、同曲がヒットします。この楽曲で日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞しています。

しかし、その多忙なスケジュールの中、合間を縫ってでも福祉施設でのライブを続けていたといいます。

2004
年頃からは、、映画『珈琲時光』を皮切りに『愛と誠』『はなちゃんのみそ汁』音楽劇『箱の中の女』等で女優としても活躍されております。

因みに6つ年の違う一青窈さんのお姉さんは、歯医者でありながら、女優、エッセイストとして活躍する一青妙さんです。

一青窈さんは、話題となり、ファーストアルバム『月天心』が注目を集め数々の音楽賞や新人賞を受賞しました。

2003年、第54回NHK紅白歌合戦に初出場を果たすと、翌年2004年には、「ハナミズキ」が大ヒットします。

一青窈が病気に?結婚相手は?こどもの事。

一青窈さんは2015年4月に一青窈さんご自身の公式サイトで結婚したことを発表しました。

同時に第1子を妊娠していることも報告しました。

お相手は、ギタリストの山口周平さんと言う方です。報道によると、2人は2014年春に仕事で出会ったのだそうで、約一年後の入籍となりました。

そして2015年11月の初旬、男の子が生まれた事を発表しております。

一青窈さんはサンケイスポーツの取材に対し、

「最後のひといきみの瞬間に人生最大の達成感を味わいました」「あいたくて会いたくて逢いたかったこの子に、よく頑張ったねという感謝の気持ちでいっぱいです」

とコメントを寄せております。

その後2017年7月の初旬に女の子を、2019年5月には、やはり、女児が生まれております。

3人目のこどもさんの出産時の年齢は42歳と言う事で、無事な出産を願ったファンや、夫も胸をなでおろした事でしょう。

一青窈さんは、ご自分のSNS等で、こどもさんの成長を、写真とともに綴っております。字が書けるようになったこと、夢中になって何かやっている娘さんや息子さんの姿を微笑ましく見守っているようです。


一青窈が病気に? 希少難病の方へのエールを歌に込めて贈る

元気をたくさん分けてくれるような、一青窈さんですが、ご自身に病気と言うキーワードが出てきます。

『一青窈 病気』と検索すると希少難病 PAH(肺動脈性肺高血圧症)という病気の説明が出てきます。

この病気は、心臓から肺へ血液を送る血管(肺動脈)の圧力が高くなる肺高血圧症の1つということです。

難病に指定されている「PAH(肺動脈性肺高血圧症)」という病気ですが、PAHの問題は、病気があまり知られていない事。そして初期症状の内は特異性がなくわかり肉びょくきだそうです。

その為、診断・治療までに長い時間がかかってしまう事が大きな問題です。

えっ、そんな病気に!と正直思ったのですが、続けて読み解くうちに、一青窈さんは、このPAHと言う病気を広く知ってもらう為のプロジェクトに参加しています。

そして、もう一つの目的に、PAHや慢性呼吸器疾患、心臓病などの患者さんが受ける検査の1つに「6分間歩行検査」と言うものがあります。

この検査は文字通り、30mの平坦な直線コースを6分間でできるだけ速く、長い距離を往復歩行してもらい、その歩行距離を測定するというものです。

PAHの患者さんの中には6分間歩行検査を体力的・精神的につらいと感じる方もいらっしゃりますし、また、将来のことを心配しながら検査を受ける方も多いようです。

このPAHの患者さんは、一青窈さんと同年代の方で、女性に多い病気だという事で、「6分間歩行検査」に対しても、前向きで、少しでも明るい気持ちになってもらいたいという願いが込められています。

楽曲は『6分』という題名で、『ハナミズキ』でタッグを組んだマシコタツロウさんの楽曲。

作詞は、一青窈さん自らPAHの患者さんとオンラインでお話をして、思いを伝えよう、寄り添うような気持ちで作られました。

歌詞の中の「朝貌 あさがお」という言葉は、桔梗の事で、桔梗の花の形を星にたとえ、緑の小さなつぼみから大きく星のように開花する。
一青窈さんは、一日の終わりに星が瞬くように。という願いを込めて作られたという事です。

一青窈さんは、音楽を聴くことが困難な状況にある人たちに、無償で歌を披露するチャリティライブ活動をデビュー前から行っていらっしゃいます。.

デビュー20周年を機に「gigi project(ジジ プロジェクト)」を発足し、今まさに活動を本格化させております。

あえて公にはせず、30年間も地道に取り組み続けてきた社会貢献活動は、広くカンボジアの地雷除去活動の現場や、ケニアにあるアフリカ最大級のスラムの学校、ミャンマーの孤児院などまでも歌を届けています。

一青窈さんご自身のお病気でなくて、ほっとすると同時に、様々なお病気や、環境の中に身を置いていらっしゃる方の事に想いを巡らせる自分がいます。

一青窈さん、これからも寄り添い続ける歌を聞かせてくださいね。

 

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