ザ・ブーム(THE BOOM)の宮沢和史(みやざわ かずふみ)さん、最近は息子さんで俳優の宮沢氷魚(みやざわ ひお)さんの活躍も目覚ましく、最近の報道では、共演女優の黒島結奈さんとの間にお子さんが出来たとか?
おじいちゃんになる宮沢和史さんは、筆者moonとしては同年代の方なので、まぁそんな事もあるかなと思います。
そんなザ・ブームと島唄への想いについて、ご家族のお話をしてみたいと思います。
ザ・ブーム 宮沢 和史が、バンドを始めた頃は?
宮沢和史(みやざわ かずふみ)1966年1月18日 生まれです。山梨県甲府市のご出身。身長は171cmです。
甲府市立千塚小学校、甲府市立北中学校、山梨県立甲府南高等学校、明治大学経営学部卒業と言う学歴です。
宮沢和史さんがバンド活動を始めたのは、1986年11月、現在のメンバーでTHE BOOM(ザ・ブーム)を結成しました。
その後、ザ・ブームは1987年7月26日より、原宿の歩行者天国からライブ活動を始めました。
ザ・ブームは、約一年半後の1988年12月18日、ソニーのオーディションに合格しています。
翌1989年5月21日にザ・ブームは、シングル『君はTVっ子』とアルバム『A Peacetime Boom』でメジャーデビューを果たしています。
ザ・ブームの代表曲は「星のラブレター」(1989年)、「島唄」(1993年)、「風になりたい」(1995年)など数多くありますが、moonとしては、「中央線」(1996年)と言う曲が大好きです。
『島唄』のスマッシュヒットの為か沖縄のイメージの強いザ・ブームですが、ザ・ブームの皆さんは、沖縄にゆかりのある方だったのでしょうか?
1980年代中期から後期にかけては、多くのバンドが日本に登場しました。いわゆる、バンドブームと言うやつです。
そんな中、『THE BOOM』ザ・ブームと言うバンド名は宮沢和史さんが、ブームとは関係の無い独自の道を進もうという事で逆説的に名付けたと言います。
ザ・ブームは、幾度となく活動の休止期間がありました。
そして、その都度、色々なジャンルの音楽に形を変えてゆきます。
1980年代後期のバンドブームでおびただしい数のバンドがデビューする中、ライブでの跳んだり、踊ったり、ステージから観客席に飛び込むなど、派手なパフォーマンスが話題となり多くのファンが魅了されました。
又、結成から解散までの28年間で、ザ・ブームは、1度のメンバーチェンジもなかったというのは非常に稀なバンドとも言えるでしょう。
ザ・ブームには、強い絆を感じます。一方、宮沢和史さん自身はGANGA ZUMBA(ガンガ・ズンバ)と言うヨーロッパや中南米のツアーメンバーで別なユニットでも勢力的に活動されていました。
ザ・ブーム 宮沢 和史や、メンバーの出身地は?なぜ解散?
実は、ザ・ブームのメンバーの殆どは、宮沢和史さん自身をはじめ、山梨県の甲府市のご出身です。
ボーカルとギター担当の宮沢 和史さん
ギター担当の小林 孝至(こばやし たかし)さん
ベース担当の山川 浩正(やまかわ ひろまさ)さん
この3名は山梨県甲府市のご出身。
ザ・ブームのドラム担当の栃木 孝夫(とちぎ たかお)さんだけが東京の江東区のご出身だそうで、ほかのメンバよりもちょっと年上です。
ザ・ブームは、2014年12月17日に日本武道館で開催したラストライブ「THE BOOM FINAL 20141217」を開催を以て解散しております。
ザ・ブームの解散の理由として宮沢さんが頸椎症性神経根症を患った事と、1型糖尿病を発症した山川さんの体調の事を考慮してです。
又、「この4人でやれる事、(ザ・ブームとして)やるべき事は全てやり尽くしたのではないかという思いが心を支配するようになった為」だと語られております。
ザ・ブーム 宮沢 和史、なぜ沖縄を想い大ヒットになったのか?
さて、そんなザ・ブームのメンバーが何故、沖縄の想いを綴った島唄を作ったのでしょうか?
それは1990年くらいから何度も沖縄へ赴くことになった宮沢和史さんが、沖縄の人達の温かさや土地の風土に癒された事が元々にあったのですが、沖縄民謡に魅了されたとも仰っています。
一番の引き金になったのは宮沢和史さんが1991年に沖縄県の「ひめゆり平和祈念資料館」を初めて訪れました。
ひめゆり学徒隊に入っていたという一人のお婆さんに出会い、想像を絶する沖縄の戦争時の悲劇を聞いたのが制作のきっかけになり、その時代の人達への思いを寄せてこの曲が作られました。
moonももちろん、生まれる前の話ですが、親族の方が沖縄戦で、亡くなっておられます。つまりそのくらい激しい戦線で、多くの方が亡くなった場所でもあるのでしょう。
しかし、宮沢和史さんの想いとは裏腹に、初めのうちは沖縄の人達は、この『島唄』を沖縄ブームを利用しただけと、いぶかしげに見る方も多かったようです。
又、独特の三線の持ち方や、独特の沖縄の方言の発音に違和感を持つ方も少なくなかったようです。
そんな中、沖縄出身のBEGINの比嘉栄昇さんはザ・ブームの島唄について、こう述べています。
「『島唄』は画期的でした。それまでは沖縄のミュージシャンは本土でどう歌えばよいか分からず、本土のミュージシャンも沖縄で歌うのは遠慮があった。その橋渡しをポンとしてくれたのがこの楽曲です。ありがたかった」
と述べてます。
後に宮沢和史さんがニュース番組で
「沖縄戦があったことは知っていたが、集団自決やひめゆり学徒隊などのことを知らなかった。その無知だったことに対する自身への怒りや、当時の軍事下の教育に対する疑問みたいなもので怒りがこみ上げて、地下のガマに残っている皆さんの魂を空に解放してあげたいみたいな思いがあって、東京で『島唄』を作った。」
そんな風に語っております。
今では、多くの沖縄の方たちも、『島唄』を大切に思ってくださっているのではないかと感じています。
でいごの花:春から初夏にかけて赤い花が咲く。
でいごの花が見事に咲いた年は天災に見舞われるという言い伝えがあると言います。
戦争を想い平和を願う。沖縄の人々の心の傷を、サトウキビ畑で出会った人、サトウキビ畑で別れた人、
ウージの下で 八千代に別れ
(サトウキビ畑の下の洞窟で、永遠の別れとなった。)
ザ・ブーム 宮沢 和史の現在、長男は俳優の宮沢氷魚。本名なの?
宮沢和史さんの奥様はタレントの光岡ディオンさんと言う方です。息子が2人と娘が1人という3人の子供がおります。
宮沢和史さんの長男には「氷魚(ひお)」、次男には「海実(かいみ)」、そして長女は「琉歌(るか)」と言うお名前です。
宮沢和史さんの次男の海実さんは、アメリカで弁護士をなさっているそうです。テレビ番組で、氷魚さんは、楽器は出来るけど、歌はびっくりするくらい下手で、俳優の道を選んだのだというお話をされていました。
逆に次男の海実さんは、歌が上手いのだと仰っておりました。
ちなみに、長男の名前である「氷魚(ひお)」は、鮎の稚魚を指す言葉で、どんな環境の変化でも生きていける」という琵琶湖にいる氷魚(ひうお)という鮎の稚魚に由来していると言います。
「どんなプレッシャーや環境の変化にも対応できて突き進んでいけるように」と言う宮沢和史さんの願いが込められているようです。
改めて由来を聞くと良いお名前ですね。
さて、この度、宮沢氷魚さんに女優の黒島結菜さんとの間に赤ちゃんが出来たという報道。父を尊敬しているという宮沢氷魚さん。
平和への想いや願いが世代を超えて続くことを願ってやみません。
以上、いかがだったでしょうか?今回は何故、縁の無かった山梨出身のザ・ブームと宮沢和史さんが沖縄を歌ったのかについてのお話でした。
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