EPO 歌手の若い頃、J-POPの幕開け!現在の活動やご家族は?

カバーソング

エポさんは、フォークミュージック、ニューミュージックと呼ばれた音楽などを日本生まれのポピュラーミュージックをFMラジオ局J-WAVEが、J-POPと呼ぶようになった頃、36年程前の1988年の終わり頃にデビューした歌手です。

その頃、街はバブルでとても煌びやかでした。そんな中、若い人たちが歌う日本の音楽をJ-POPと呼ぶようになってきます。

 エポさんには、そんな時代の中で大きなうねりが来ます。

EPOは歌手。言葉や価値観が少しずつ変わって行く時代に。

 その頃は、J-POPと言う言葉だけではなく、それまでリバイバルソングと呼ばれていた、過去に誰かが歌った曲などを、歌い直して商品にして行く事をカバーなんて言い方になってきます。

 そして、その間にYMOを代表とするテクノポップや、ブリティッシュカルチャーミュージック、アメリカンポップス等様々な音楽も日本に入ってきます。

 エポさんは、1960年5月12日生まれ。東京都世田谷区のご出身です。本名(出生名)を「佐藤栄子」さんと言います。

 どなたが「エーコちゃん」と言おうとして、舌がもつれ「エーポちゃん」と呼んでしまった事から、『エポ』というあだ名になり、そのまま『EPO』として高校時代からバンド活動を始めました。

 エポさんは、世田谷区ご出身で、母親には「境界性パーソナリティ障害」があったようで、幼少期には親から、辛い目に遭わされていたこともあったと言います。

 しかしエポさんは3歳からからピアノを習い始め、東京都立松原高等学校、在学中に「Laugh」というバンドを組んでピアノとコーラスを担当していました。

 

EPOは歌手、音楽の道を進むきっかけはコンテスト番組優勝から!

 エポさんの「Laugh」はニッポン放送のコンテスト番組『ライオン・フォーク・ビレッジ』に出場して優勝しました。

 これを機に、エポさんに、株式会社RVC(RCAレコード)の音楽プロデューサーの宮田茂樹氏からの連絡があり、高校在学中に宮田氏よりエポさんはデビューのオファーを受けたということです。

その時はまだ、エポさんご本人も進路に対して迷いや戸惑いがあったのかもしれません。

 音楽関係の方との繋がりも出来、エポさんが高校卒業時には、東京女子体育大学への推薦入学が既に決まっており、そのまま進めば、体育の教師のお仕事なども視野に入っていたのでしょう。

 しかし、人生と言うのは解らないものです。エポさんはカーペンターズや、ザ・ビーチ・ボーイズに非常に惹かれていたようです。

 エポさんご本人は、やまがたすみこさん、小坂明子さんをあこがれの歌手として挙げています。

 大学進学後、エポさんは、昼は大学へ、夜はスタジオでのアルバイト生活を3年間されておりました。大学時代から、セッションボーカルとして、多くの作品に関わっておられたようです。

EPO 歌手、大ヒット番組『オレたちひょうきん族』で!

 エポさんと宮田茂樹氏との運命的な出会いから凡そ2年後の1980年3月21日、シュガー・ベイブのカバーシングル『DOWN TOWN』でデビューする事となります。

 宮田茂樹氏は、高校時代のEPOさんと、話をした時から「ダウンタウン」と言うキーワードが浮かんでいたと言います。そして、デビューにシュガー・ベイブの『DOWN TOWN』のカバーにしようというアイデアが浮かんでいました。

EPOさんもシュガーベイブのファンであった事からも、詩の造詣が深かったのだろうと思えます。

 エポさんは、デビューから程なくした、1981年5月16日から放送開始のバラエティ番組『オレたちひょうきん族』のテーマソングとしてEPOの「DOWN TOWN」を使いたいと依頼されました。

そしてあの、伝説的なバラエティー番組『オレたちひょうきん族』のエンディングテーマとしてエポさんの曲が、採用されることとなりました。

当時の小中学生をはじめ、若い世代の人達、世代を超えて愛される番組でした。

 楽しい番組が終わった後の土曜日の『特別感』~ダウンタウン繰り出そう~♪と、ハイトーンボイスで繰り返されるリフレーン!

 本当にあの高揚感は、あの番組と、EPOさんの音楽がなせる業だったと思います。

 その後、EPOさんご自身の楽曲『土曜の夜はパラダイス』も同番組のエンディングテーマとして使用されておりましたね。

 又、同番組内でビートたけしが演じた「タケちゃんマン」コーナーのテーマ曲『THE TAKECHANマン(タケちゃんマンの歌)』の作曲もエポさんが担当しております。

しかし、何故か作曲者名は[佐藤エポ子]と言う名義になっておりました。

エポさんのお名前は一気に全国中に広がりを見せました。

EPO歌手、次々に資生堂CMソングに起用、ロンドンへ移住

 1980年代中頃には「RCA三人娘」としてエポさんは、大貫妙子さん、竹内まりやさんと並び称され、意欲的に且つ、順調に音楽活動を進められております。

 そんな中、エポさんが1983年2月、資生堂化粧品春のキャンペーン・コマーシャルソングとして発表した「う、ふ、ふ、ふ、」が大ヒットします。

 この曲は、今でも時折、ラジオなどから流れてくるEPOさんの代表曲ではないかと思います。

 エポさんの楽曲の提供も開始する事となり、1984年2月に高見知佳さんに提供した「くちびるヌード」も、資生堂春のコマーシャルソングに起用されます。

後にエポさんご本人もアルバムで「くちびるヌード・咲かせます」としてセルフカバーしています。

 エポさんが、同じ年の8月に香坂みゆきさんに提供した「ニュアンスしましょ」(作詞:大貫妙子、作曲:EPO)も、やはり資生堂秋のCMソングに採用されております。

 エポさんのその立て続けの大ヒットの後、エポさんは、1987年9月、イギリスへ移住してロンドンで活動し始めます。

 エポさんは、1990年にヴァージン・レコードと契約して、アルバム『FIRE & SNOW』、シングル2作品をリリースしています。

 エポさんはロンドンでの3年間の移住を経て、帰国。ロンドンでは、色々な勉強を重ねておられたのか、催眠療法セラピストとして活躍されているようです。

又、2008年にエポさんはご結婚なさっておられ、宮川雅彦さんという俳優であり、やはりセラピストの同じ年齢の方です。

 エポさんは、2011年に『光になった馬。―たったひとつの―』と言う、東日本大震災でお子さんを失ったお母さんの話の絵本を出版しています。

 エポさんご自身の幼少期の辛い思い出を乗り越えて、ご主人と巡り合い、理想のお仕事が出来ていると言うのは、素晴らしですね。

 以上エポさんは歌手として、若い頃どのような活動を行っておられたか?現在の活動なども調べてまいりました。

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