NHK MUSIC SPECIAL~愛と平和のハーモニー~玉置浩二 2024年8月29日 (木) 午後10:30放送
玉置浩二さんは、私moonが確か18歳の頃、『安全地帯』というバンドの『ワインレッドの心』でブレイクしました。
40年以上経つのだと思います。久しぶりに玉置浩二さんのお声を聞いてみると、やはり、日本の歌手の中でもメチャメチャ上手いなと改めて聞き入ってしまいます。
そんな玉置浩二さんの結婚歴や、身長、出身地、娘さんや玉置浩二さんのご兄弟の事などにスポットを当ててみたいと思います。
NHK MUSIC SPECIAL~愛と平和のハーモニー~玉置浩二 2024年8月29日 (木) 午後10:30放送
玉置浩二の結婚歴は?身長は?何歳なの?出身地の少年時代は?
玉置浩二さんの身長は177センチと言う事で、公表されております。長身ですらりとした方で、中年期になってもすらりとしたままですね。
玉置浩二(たまき こうじ)さんは、1958年9月13日 のお生まれです。
今年(2024年)の9月で66歳です。ご出身は、北海道旭川市です。
玉置浩二さんは、『安全地帯』というバンドで、ヒット曲を連発して一躍有名になります。
玉置浩二さんは旭川市立神居中学校のご出身です。玉置浩二さんは、のちにこの中学校で生徒会長を務める事になります。部活動は野球部に所属していました。
中学校に入学すると、すぐに質屋さんで見つけた5000円で売っていた白いギターを購入します。
さてギターの方は何もわからず、価格と見た目で購入したといいますが、当時の中学1年生にとっては、5000円は大金だったでしょう。
その時代、moonにも覚えがありますが、白いギターと言うのは、巷では一つのキーワードになっていたような気がします。
1973年にはチェリッシュが『白いギター』なんて曲も出してましたね。
さてそんな訳で白いギターを手に入れた玉置浩二さんでしたが、初めに弾いたのは『青い三角定規』というグループの『太陽がくれた季節』でした。
驚くことに、玉置浩二さんは、譜面を見ずに音を聞いて、いわゆる『耳コピ』でコードを探って弾いていたといいます。
玉置浩二さんの耳コピは、今でもそれが一番の方法で、オリジナルとは違うコードを用いる事もあるといいます。
ドラムなども叩けるようですが、体で覚えて行く演奏が出来るという事のようですね。
しかしこれは、才能のある方だからなせる業なのかもしれません。
中学2年になる頃に玉置浩二さんのいる旭川市立神居中学校に、武沢豊さん(父親の転勤で旭川神居に引っ越してきたようです)が転入して、同級生になりました。
玉置浩二さんは、武沢豊さんに、何の気なしに「ギター弾けるか?」と聞くと、武沢豊さんの答えは「弾けるよ。」
玉置浩二さんの目の前で、武沢豊さんが弾いたのは、クラシックの楽曲を、すらすら弾いて見せました。
玉置浩二さん自身は、ようやっと始めた独学での演奏で、その腕前に驚くと同時に、「バンドやろうぜ。」という言葉が口をついて出たようです。
玉置浩二の結婚歴は?安全地帯のはじまり。井上陽水との出会い
そんな流れで玉置浩二さんは、バンドを結成することになります。
中学時代のメンバーはは、玉置浩二さんがボーカル、武沢 豊さんがギター、武沢俊也さん(武沢豊の実兄)がキーボードとギターの3人でバンド結成。
この時のバンド名は『インベーダー』というものでした。のちに『安全地帯』に改名しております。
少し遅れて玉置一芳さん(玉置浩二の実兄)が、ドラムス で、宮下隆宏さんベースで参加します。
玉置浩二さんは中学を卒業するときに、「野球」を取るか「音楽」を取るかを、非常に迷ったといいます。
結論としては、「野球は一人ではやれない。音楽なら一人でもやっていけるのでは?」と思い、音楽をとったとのちにお話されています。
1974年に、旭川市立神居中学校卒業した玉置浩二さん。北海道旭川農業高等学校に入学するも、プロの音楽家を志し、直ぐに退学してしまいます。
レッド・ツェッペリンに憧れていた玉置浩二さんの兄の一芳さんの影響でロックに傾倒してゆきます。
又、将来の他のメンバーたちは、1973年には、六土開正さんが自身がリーダーとなる『六土開正バンド』を新たに結成します。
このバンドに、矢萩渉さん、田中裕二さんが参加して活動していました。のちに『六土開正バンド』は、『安全地帯』として、メンバーが合流してゆきます。
そして、ヤマハポピュラーソング コンテスト(ポプコン)第6回に初出場を果たし、第11回を除く第13回まで連続出場しています。
12回大会では、つま恋の本選に北海道代表として赴く事となります。moonも、つま恋に行ったことありますが、東京からでも結構、遠かったなぁ。
そんな事から、地元のラジオ番組などからも声が掛かるようになります。
そんな中、音楽プロデューサーの金子章平さんから、当時、バックバンド探していた大物のシンガーソングライターの井上陽水さんのバックバンドに、という話が舞い込みます。
井上陽水さんのバックバンドとなると、1982年1月24日、フジテレビ系音楽番組『夜のヒットスタジオ』に井上陽水さんのバックバンドとして初出演を果たします。
井上陽水さんの春・夏のコンサートのサポート・ミュージシャンとして参加し、秋から翌年1月までの全国ツアーのバックバンドを務めました。
玉置浩二さんは、井上陽水さんは偉大過ぎて、未だに師弟関係で、井上陽水さんは玉置浩二さんにとっては絶対的な存在だといいます。
「僕は誰よりも陽水さんの背中を見て歌っていた人間だと思います。」と述べている事からも、玉置浩二さんの井上陽水さんへの想いが伝わってきます。
そしてついに1982年2月25日、1stシングル「萠黄色のスナップ」でメジャー・デビュー。
その後、1枚のアルバムと2枚のシングルを出します。
そして井上陽水さん作詩による4thシングル「ワインレッドの心」が1983年11月25日に発売されました。
同じころ、一般女性と最初のご結婚をなさったようです。旭川時代からお付き合いされていた方と言う事です。
この楽曲は同じタイミングでサントリーから発売された「赤玉パンチ」のCMソングに起用され、大ヒットとなります。
そこからは、一躍全国にその名が知れ渡り、ヒット曲を連発することになります。 その後、1987年になると、玉置浩二さんは安全地帯の活動と並行してソロでの活動を始めます。
1988年には『安全地帯』は一時活動停止となります。
玉置浩二の身長は?玉置浩二の最初の奥さんは?
さて玉置浩二さんの結婚歴は?といいますと、一番最初の奥さんは、前述のように1983年〜1986年に結婚されていた一般女性の方です。
離婚の原因はネットの中では、玉置浩二さんの不倫なのではないかと言われています。実際にのちに出てくる女優の石原真理絵さんとその頃に交際があったようです。
その後、女優や歌手として、活動されている薬師丸ひろ子さんと1991年の1月に結婚されました。
薬師丸ひろ子さんの楽曲の『胸の振子』を作曲した事で、交際のきっかけになったようです。
新婚旅行はハワイへ行き、ビッグカップルに報道も過熱しておりました。しかし1998年6月、薬師丸ひろ子さんの34歳の誕生日パーティーの終盤。
突然、玉置浩二さんが、「今日で別れます。」と口を開くと薬師丸ひろ子さんも、「そういう事です。」と続きます。
そんな衝撃的な離婚の発表でした。離婚の原因については、玉置浩二さんと薬師丸ひろ子さんの両親との関係などが取り出されましたが、真相は分かりません。
しかし、その後も関係は悪くないと言われています。
その約1年後には、玉置浩二さんは3人目の奥さんと結婚しております。その方は『安全地帯』でキーボード奏者として活躍していた安藤さと子さんという方です。
1995年の安全地帯のツアーに参加し、1999年に籍を入れています。しかし、8年後の2007年には、離婚されています。
離婚原因としては8年の歳月が過ぎ、お互いのライフスタイルが変化した事などを上げています。
そしてお互い仲良しでいる為に別れるというような事を玉置浩二さんのご自身の公式サイトで発表されました。
さて4人目の奥さんはというと、安藤さと子さんとの離婚後、2年ほどが過ぎた2009年には、又、玉置浩二さんは大きく報道されます。
実際には後述の理由で籍を入れていないのですが事実婚の状態だった『石原真理絵』さん、もしくは『石原真理』さん、又は『石原真理子』さんです。
人気漫画のドラマ化された『翔んだカップル』や人気ドラマ『不揃いの林檎たち』で一躍有名になりますが、
一方、奇抜な言動や、天然キャラで、『プッツン女優』呼ばれ方もしておりましたが、元々23年前に玉置浩二さんと石原真理絵さんは出会い、お付き合いをしていました。
23年前の1985年からの時間を経て二人は、復縁と言う事になります。2009年2月26日には、区役所に婚姻届を出し、4月にはギリシャで挙式を挙げます。
しかし、二人の結婚生活は長く続かず、新婚旅行は長期にわたり世界を回るプランでした。
7月に滞在先の韓国で言い争いになり、9月には別れたことを発表しました。その際、石原真理絵さんの前夫のアメリカ人の夫と正式に離婚が成立していなかった事も報じられました。
その為、4月に出した婚姻届けも受理されていなかった事から事実婚と言う事になります。
玉置浩二の結婚歴は?5人目の人は運命の人?!子供はいない?
5人目の奥さんも、やはりタレントとして活躍されていた元『C.C.ガールズ』の初代メンバーの青田典子さんです。
青田典子さんはグラビアアイドルとして女優として、又バラエティ番組などでも人気のある方でした。
青田典子さんは実業家の方で歌手の畠山みどりさんの甥の方と2005年に結婚一年間の結婚後、離婚されておりました。
2010年の7月にご結婚されております。しかし、出会いは結婚される20年前、青田典子さんが二十歳の頃、玉置浩二さんが30歳の頃だったそうです。
六本木で打ち合わせ中に、紫の肩パットの入ったステージ衣装のようないでたちで、入ってきた玉置浩二さん。
打ち合わせ中のスタッフとお友達だったらしく、一緒に話をしたという事のようです。
2度目に、青田典子さんと玉置浩二さんが出会ったのは、街の中で偶然に会いました。
「寒いだろう」と言って、手を取り玉置浩二さんのコートのポケットに一緒に手を入れてくれた事をのちにお話しています。
その後、3ヶ月~半年くらい交際が続いたそうですが、すぐに終わってしまいました。そこから20年ほど経過して、マイケルジャクソンの死をきっかけに、
同じ年だった玉置浩二さんは、自分もいつどうなるか解らないもう一度頑張ってみようと、活動休止中だった『安全地帯』のメンバーに声を掛けたというのです。
そんな中、当時、短い間でしたがお付き合いした青田典子さんの事を懐かしくなって、声を掛けたといいます。
20年振りに再開すると、20年前の様々な感情が浮かんで、二人で泣いて語り合ったといいます。
青田典子さんは「玉置を献身的に支えたい」という言葉と共に、芸能界を引退し、2010年に入籍しています。
実はその当時を玉置浩二さんは『人生で一番どん底だった時期』と振り返っております。精神的にストレスのあった時期なのかと思います。
青田典子さんと玉置浩二さんの挙式は、入籍した翌年2011年の7月18日に北海道・旭川にあるフレンチレストラン「ハーヴェスト ロードハウス」で80人の客を招待して行われました。
子供が好きな玉置浩二さんですが、2012年にインタビューの中で、ご自身が子供のできない『無精子症』である事を告白しています。
「無理に作るのはやめたの。もちろん(子どもが)できたらうれしい。でも子どものためにこの後の人生を使うよりは、2人で仲良く。仲良くいるのも大変だもん」
と、述べていました。
かなり前から、『隠し子』や娘や息子がいるといわれたりしていますが、未だに、検索の中には「息子」「娘」あるいは「子供」なんて、キーワードが出てきます。
しかし、歴代の奥さんのどなたとも、子供はいません。全てガセネタだったという事です。
数多くの浮名を流してきた玉置浩二さんですが、彼の楽曲には『メロディ』のように昔に思いを抱いた彼女の事を、静かに思うような場面が頻繁に垣間見れます。
これは完全に、想像ですが、ご自身がこどもが出来ない身体という事を、結構、後になって分かったのではないでしょうか?
子供が出来ない事で、4人(5人)の奥さんと巡り合う事になったのでは?なんて思ってしまいます。
玉置浩二さん、20年越しに再び、お互いに思いを寄せるなんて、なかなか素敵だと思えるわけです。本来は一途で、その人の事を想い続ける方なのではないでしょうか?
お付き合いして、嫌な思いでしかなければ、再び愛しく思う事もないでしょう。
実際に青田典子さんとは、結婚10年以上を経て、今もラブラブなようです。
そんな訳で玉置浩二さんの結婚歴は、
一般女性 1983年〜1986年
薬師丸ひろ子 1991年〜1998年
安藤さと子 1999年〜2007年
石原真理子 2009年(事実婚で、数か月)
青田典子 2010年〜
以上、玉置浩二さんの結婚歴、出身地、身長や、井上陽水さんとの関係、バンドのきっかけなど調べてみました。
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