葛城ユキさんが、2022年〈令和4年〉6月27日に亡くなって、一年半ほど経過しました。(2024年1月現在)先日ふと、BGMで『ボヘミアン』が流れてきました。
懐かしく思い、少し前に亡くなったという報道を見ていたので、改めて、葛城ユキさんの情報を皆さんにお届しようと思います。
葛城ユキ死去。若い頃は?ご結婚していたの?旦那さんは?享年は?
葛城ユキさんは、1949年〈昭和24年〉5月25日に岡山県川上郡という所のご出身です。お亡くなりになられたのは、73歳と言う事になります。亡くなられた原因は腹膜癌でした。
葛城ユキさんは、若い頃はバレーボールの選手だったそうで高校時代はバレーボール部のアタッカーとして活躍してキャプテンも務め、国体に2回、全国高等学校総合体育大会バレーボール競技大会に1回出場しております。
実業団から声がかかり、卒業後、倉敷紡績に入社しますが、葛城ユキさんは身長167cmと言う事なので、実業団の選手内では低身長となり、ネットの高さも学生時代より高くなるなどアタッカーでは無理でした。
葛城ユキさんは「セッターへの転向を言い渡された。私はアタッカー。中心にいないと嫌だった」という理由で1ヶ月で会社を辞め、音楽の為に、大阪に移住を決めました。
葛城ユキさんの本名を田中小夜子さんと言いますが、初期に出場したヤマハのポップコンに出場の際は『朝霞まち』と言う名義で、その後、ヤマハ音楽振興会理事長などを務めていた川上源一氏が名付け親となり『葛城ゆき』と言う芸名で活動しておりましたが、1970年代後半に『葛城ユキ』とカタカナになっています。
葛城ユキさんのプライベートでは、1979年頃に、一般の会社員の方とご結婚なさっておられたようです。
1983年に青森県八戸市でのコンサートの際、激しい腹痛により緊急搬送されます。その後、腹膜炎と言う事で東京の病院で手術を受けました。
病院のベッドに本名の田中の姓じゃない名前になっていた為、結婚していたことが分かったと言います。葛城ユキさん本人は、
「この世界とは関係のない人だし、言う必要もなかった。別に隠していたわけでも、ウソをついていたわけでもない」
と言うようなコメントを出しておられたので、まっすぐな方だったのでしょう。
葛城ユキ死去、代表曲は『ボヘミアン』成功と事故からの復帰
葛城ユキさんは1980年、『Sitting on the Edge of the Ocean』のカバー曲『哀しみのオーシャン』がヒット。1983年に飛鳥涼さんと井上大輔さんが大友裕子さんに提供した「ボヘミアン」をカバーし大ヒットします。
独特のハスキーボイスと、この楽曲がマッチしていました。そしてその曲が葛城ユキさん自身の代表作となりました。
葛城ユキさんは1986年9月には、中国広東省珠海市『珍珠楽園』で日本人女性ロックシンガー初のコンサートを開催し3日間でのべ3万人を動員して、大成功に終わります。
しかし、2003年10月2日、フジテレビ『とんねるずのみなさんのおかげでした』の収録中に「人間大砲」のゲームでウレタンが敷き詰められたプールに頭から突っ込むように、葛城ユキさんが落下した際、第7胸椎粉砕骨折、第8胸椎脱臼の重傷を負ってしまいます。
葛城ユキさんは背中にチタンの支柱を埋め込む大手術を受け、かなりの重傷だったようです。当時は体を1ミリも動かせず引退も覚悟したと言います。
葛城ユキさんの早い回復力で翌年5月10日に復帰ライブを開く事が出来ました。2週間後の自身の誕生日には“入院治療中の気持ちを形にした”というシングルもリリースしたのです。
葛城ユキ死去、死因は原発性腹膜癌が!
晩年は夢グループ主催「夢スター歌謡祭 春組対秋組歌合戦」に出演するなど全国各地を回っていました。夢グループは、テレビショッピングでお馴染みの会社ですが、実は、芸能プロダクションでもあるのです。
そこでは、色々な歌手の皆さんと交友があったようで、お酒もイケる口で、かの石田社長のお話だと、
グループの「夢スター」コンサートには春チームと秋チームがあるのですが、春チームのメインと言っていいのが葛城さんでした。彼女が歌うのはロックですし、自分が盛り上げなきゃという意識が高い人でした。ですから、他の方は1曲ずつでも彼女には2曲歌ってもらったりしていたんです。「夢スター春」は僕が企画したものですから、これだけは毎回同行していたんです。ここ5~6年は、年100回は一緒でしたね。 デイリー新潮インタビュー
そんな中、葛城ユキさんに2021年4月にステージ4の原発性腹膜がんが発覚したのです。
葛城ユキ死去、最後は「ありがとう」と言う言葉と共に
葛城ユキさんがお亡くなりになる10日前の2022年6月17日、驚くことに葛城ユキさんは車いすで千葉県のコンサート会場にいました。
最後は、30~40パーセントの歌声でしたが、やはり葛城ユキさんの代表曲である『ローズ』を歌ったと言います。
その後、葛城ユキさんは亡くなる数時間前まで、友人やお世話になった方に『ありがとう』と電話で伝えていたと報じられています。
先述の石田社長は、最後までステージに立ちたいといい、実際に亡くなる直前までステージに立つことを貫いた葛城ユキさんの事を、社長はかっこいいとインタビューで答えておりました。
以上葛城ユキさんの若い頃のご活躍と、お亡くなりになった経過のお話でした。
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