矢沢永吉さんは、もはやレジェントと言う言葉がぴったりくる、日本人なら知らない人はいないのではないだろうかと言うビッグスターですね。
筆者moonも、中学生の頃になると、キャロルや矢沢永吉と言う名前がラジオから聞こえてきます。ただテレビで見る事は少なかったように思います。
程なく、化粧品のCMソングや、コカ・コーラのCMソングなどで流れ始めるとあっという間に、矢沢永吉と言う名前は日本中に広まりました。
しかし、その後、巨額の不正事件に巻き込まれ35億円もの借金を抱えた矢沢永吉さん。その後の顛末を。
今回は、矢沢永吉さんの話題にスポットを当ててみます。
矢沢永吉、借金。誕生日や身長など。幼い頃の極貧生活、祖母の元で
矢沢 永吉(やざわ えいきち)さんは、1949年〈昭和24年〉9月14日に広島県広島市仁保(現:南区)にて生まれました。
丁度、このブログを書いている今日2025年9月14日で76歳の誕生日です。
身長180cm、血液型はB型だそうです。
名前については、ネットでもいろいろな事が言われていますが、巴山(はやま)永吉さんではないかと言われています。
『永吉』と言う名前は叔父さんが付けてくれたのだが、子供の頃は、「古臭い感じがして、イヤだった。」とラジオでお話されていました。
他にも『五大洋光』と言うペンネームで他のアーティストの方に楽曲提供しています。
矢沢永吉さんの生まれた時代の広島は、原爆投下の戦災が色濃く残る時代でした。矢沢永吉さんの生い立ちもやはり原爆投下を背景に、けして良いものとは言えませんでした。
矢沢永吉さんの父親、永一さんは、広島市内で大きな自転車屋さんを営んでおりましたが、原爆投下で妻とお子さんを二人を失ってしまいます。
戦後、矢沢永吉さんのお父さんは10歳年下の女性と結婚しました、戦後4年目に矢沢永吉さんが生れますが、前の家族を失った悲しみからか、酒におぼれる生活が続き、借金まみれになります。
奥さん(矢沢永吉さんの母)は、とうとう耐え切れなくなり、矢沢永吉さんが3歳の時に蒸発してしまいます。
しかし、父と子の二人の生活も長くは続かず、矢沢永吉さんが小学2年生の時に、被爆した事が原因で、原爆症で亡くなっています。
その後、親戚中をたらい回しにされ、最後は父方のおばあちゃんに育てられたのだそうですが、それは今では、想像もつかない程の極貧生活でだったと言います。
スポーツの用品のひとつも買えないし、遠足のリュックも新聞紙で自作で作ったのだそうです。いじめられる対象にもなっていたようです。
生活保護を受け、近所の裕福な子供に、「お前の家は、貧乏でケーキなんか買えないだろう!」と顔にケーキを投げつけられた経験が、矢沢永吉さんのハングリー精神に火をつけたのだそうです。
矢沢永吉さんは広島市立の小学校の6年生になると、新聞配達のアルバイトを始めました。
矢沢永吉、借金。若い頃組んだ、伝説のバンド「キャロル」を結成!
矢沢永吉さんは広島市内の公立校の中広中学校の2年生の頃に、トランジスタラジオから、ザ・ビートルズの楽曲が流れてきたのを聴き衝撃を受けます。
又、ザ・ベンチャーズの広島公演を見て影響を受けたのだそうです。
周囲に歌手になって、ロックでビッグになると言うような話をすると、「頭大丈夫か?」と言うような反応しかなかったのだとか。
その頃、グレ始めていた矢沢永吉さんですが、近所の妊婦さんが「ナマコを食べたい。」と言う話になったら、海に潜ってナマコを取ってきてくれたなんて逸話もあります。
矢沢永吉さんは中学3年生のとき、転校してきた女の子に「パッと見て、ガバーッとなった」と。
これが初恋だったのでしょうか?その為に前向きになり、高校進学を目指すようになったのだとか。
その後、高校は別になりますが、その子に会う為に、びしっと決め、クラス会に出向き、その後しばらく文通を続けますが、最後に「お付き合いしている方がいます。」と綴られていて、終わったのだとか。
高校は、アルバイトをしながら広島電機大学附属高校に入学し、途中で市立広島工業高校の定時制に転校して卒業していますが、卒業証書を破り捨て、上京します。
1968年の早春、誰も送りに来てくれる人もいない夜の広島駅をあとにギターと譜面、それにアルバイトで稼いだ5万円を握りしめ、夜行列車で東京を目指します。
長い距離、通路に座って東京を目指しますが、お尻が痛くなり、思わず飛び降りた駅が横浜駅でした。
その後、レストランや、喫茶店、船の荷下ろし、雀荘のスタッフ、工事現場等など沢山のアルバイトを、当時、タコ部屋と呼ばれた狭い部屋に数人で寝泊まりして、仕事現場に向かう暮らしの中、音楽の夢はあきらめませんでした。
そして、自作で作った『ⅠLove you, OK』をレコード会社に2社に持ち込みますが、いずれも良い返事ではなく、再びアルバイト生活に戻りました。
矢沢永吉さんと言えば、『キャロル』のイメージですが、その前に『ザ・ベース』『イーセット』、『ヤマト』と言うバンドが前身にありました。
当時は相当尖っていたのでしょう、「才能の無い奴は去れ!」とばかりにメンバーチェンジが行われ、『ヤマト』で本格デビューとの思惑もありましたが、解散してしまいます。
しかし、その頃のメンバーには、現在も音楽活動を続けていらっしゃる方も多くいるようです。
その後、楽器店に「ビートルズとロックンロール好きなヤツ、求ム!」と貼り紙をしてジョニー大倉さん・内海利勝さん・今井英雄さん、(この方はレコードデビュー直前に脱退、ユウ・岡崎さんが加わります。)にて、1972年6月、ロックバンド キャロルを結成します。
矢沢永吉さんはボーカルおよびベース、ギターを担当します。又、多くの作曲を矢沢永吉さんが、ジョニー大倉さんは作詞を手掛けています。
歌謡曲、演歌、フォークソングがメインの音楽業界の中、ロックを日本語で歌うスタイルで、クラブやキャバレーなど歌いますが、酔っ払いやヤクザに、「演歌やれ!」とどやされながら、それでも、自分たちのスタイルを持ち続けました。
矢沢永吉、借金。一度テレビに出た事で、二人の重鎮から声がかかる
そんな生活の中で、1972年10月8日キャロルは『リブ・ヤング!』「ロキシー・ファッション 出演者募集」というダンス大会に出演演奏します。
名曲の「ジョニー・B.グッド」や「グッド・オールド・ロックンロール」を革ジャン姿の4人が演奏します。
番組に集まったフィフティーズファッションの男女がツイストを踊ります。生放送で司会の愛川欽也さんが、「この中からリーゼントの一番キマってるナウいやつを1人選ぶ」と宣言しました。
もちろん、ツイストを踊る若者の中から選ばれると思いきや、愛川欽也さんが連れてきたのは、なんと矢沢永吉さんでした。「君が一番決まっていた!」
その様子、存在感は同じ番組に出演していた若き日の内田裕也さん、たまたま家でテレビを見ていたミッキー・カーチスさん双方の目に留まり、
内田裕也さんとミッキー・カーチスさん両方からデビューについての声がかかりますが、内田裕也さんに丁寧にミッキーカーチスさんの方のお話でまとまります。
当時、商業的には全く売れなかったロックが、キャロルによってブームとなり、ライブ会場はいつもいっぱいになりました。
しかし、その後、解散ライブ中の演出のアクシデントで、ボヤが起こり楽器をすべて失い、アーチ形の『CAROL』と書かれた電飾の看板も焼け落ちました。
この時、親衛隊を務めていたのが舘ひろしさんや岩城滉一さんが在籍した『COOLS』(クールス)でした。
観客は、演出だと思った方も多くいたのだとか。その後、矢沢永吉さんは、単身で渡米しキャロルと全く違った曲調の『I LOVE YOU,OK』でソロデビューを図りますが、
キャロルのファンからは不評でした。しかし、矢沢永吉さんは、「キャロルと同じことをやるならなキャロルを解散した意味が無い。」と新たなスタイルで突き進みます。
そして、矢沢永吉さんの楽曲が、何故か多くの不良少年の心の琴線に触れます。しかし、一方で矢沢永吉さんのライブ観客が危険だと、会場関係者の中で囁かれることになります。
そんな中、画期的な日本のロック・ソロアーティストとしては初の日本武道館単独公演を敢行するに至ります。
その後は『時間よとまれ』(この曲のレコーディングには、まだ知られていない20代の坂本龍一さん、高橋幸宏さん、後藤次利さんも参加)
この曲が、資生堂のCMソングとなりオリコン週間1位(6月12日付から3週連続)
1978年度年間オリコン9位となり、大ヒットとなります。又、当時、まだ、コピーライターとして、西武百貨店でブレイクする前の同年代の糸井重里さんが聞き取りのライターとなった
『成りあがり』という著書も社会現象とも言うべき、ベストセラーになります。
その後の活躍は、枚挙にいとまがなく、沢山のエピソードと、ヒット曲があります。
矢沢永吉、借金。一人目の妻の支え方と、二人目の嫁の言葉を胸に。
さて矢沢永吉さん、22歳の時に一度目の結婚をしています。『ヤマト』時代に、横浜駅西口のゴーゴークラブ『グルッペ』で演奏中、「マブい女」が来店します。
その彼女が、当時19歳の銀行員のすみ子さんでした。矢沢永吉さんは、その日のうちにプロポーズして、2か月後に結婚されています。
さて、矢沢永吉さんのお母さんは、矢沢永吉さんが3歳の時に蒸発していましたが、20歳の時に、再会しています。
その時の様子を「ぶん殴ってやろう!」と思って会いに行ったのだが、顔を見たら、お互いに号泣してしまった、二人で泣いた。とお話されていました。
まだまだ、一人で食ってゆくのが精いっぱいの時期に、そのお母さんが結婚指輪のお金を出してくれたと言います。
アパート暮らしで、二人で川崎の浮島の夜景を見にいったり、月に一度程度、近所のどさん子ラーメンにラーメンを食べに行くのが楽しみだったと、つつましやかでロマンチックな結婚生活が続きます。
そんなお二人には3人の子供もおります。長男は栄一郎さん、次男の寛十郎さん、長女は綾子さんです。
奥さんのすみ子さんは、家庭に仕事を持ち込まないで欲しいと言う思いがありましたが、矢沢永吉さんは、どんどん忙しくなり、家でも曲作りを余儀なくされてゆきます。
1977年頃に知り合ったと言うアメリカ人モデルのマリアさんといつ頃から不倫関係になったのかは定かではありませんが、その浮気も大きな要因だったのだと思います。
複雑な状況の矢沢永吉さんは、1985年11月12日に不倫関係にあったマリアさんに赤ちゃんが出来た事が決定的となり離婚されたようです。
そのマリアさんとの長女の方が矢沢洋子さん、歌手やモデルとして活躍されています。旦那さんもギタリストの方です。
結婚から17年目の1989年に「愛が無くなった。」と言う表現を理由にポルシェ3台分の慰謝料、(推測では6000万円くらい)で離婚が成立します。
その後、すみ子さんは、矢沢永吉さんの事務所の社長を務めていたり、長男も矢沢永吉さんのライブの映像などを製作する仕事をしていたり、家族への配慮もありました。
すみ子さんが58歳で亡くなったと言う噂もありますが、真偽は解りません。
その後、不倫相手だったマリアさんと翌年1990年に結婚。しかし、矢沢永吉さんに受難は続きます。「オーストラリアで35億の負債を負って、バカにもほどがあることを自分がやっちゃったわけですけど」と語る矢沢永吉さん。
31歳の時に単身で渡米したのをきっかけに、世界水準の音楽活動を求める中、1998年に、豪州で購入していたスタジオ建設予定地を、信じていた友人が無断で担保に入れてしまうと言う、
巨額の横領事件に巻き込まれてしまうのです。その結果、35億円の借金を背負ってしまう矢沢永吉さん。
友人に裏切られた悔しさ、自分の未熟さ、現実の借金、毎日、酒浸りの生活の中、俺はもうだめだとしか思わなかった矢沢永吉さん。そんな時、妻のマリアさんは、「お酒もたくさん飲んだから、飽きたでしょ?」と切り出し、
大変な金額だけど・・・、矢沢が本気を出せば返せない額じゃない。と矢沢永吉さんを奮い立たせます。「これはまるで映画だ。」と自分に言い聞かせ、
35億円を矢沢永吉さんはたった6年で完済してしまいます。そこから更に大きな仕事を次々熟し2025年の今年は、ソロデビューから50年の節目の年。
いつも自分を信じて、ブランディングを続けた結果なのだと思います。
現在に生きる日本のアーティストの中で、最も大きなサクセスストーリーを持ち、多くのどこか寂しい気持ちを抱える若者たちに、今も尚、夢を与え続けている矢沢永吉さんのお話でした。
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