松任谷由実は今、何歳?若い頃から多くの人脈が出来た店と夫の出会い

フォークソング

松任谷由実さんは、長くニューミュージックシーンで活躍され、多くのヒット曲を持っておられます。

ユーミンの愛称でも、広く浸透されている方ですね。個人的にも大好きな楽曲が沢山あるのですが、夫の松任谷正隆さんとのタッグを組み心に染みる音楽を発信されています。

中島みゆきさん、松任谷由実さん、吉田拓郎さん、井上陽水さんと言うのが自分の考えるニューミュージックの四天王なのですが、もちろんどなたから見てもビッグネームである事は間違いないのでしょう。

ご一緒に松任谷由実さんの功績の一部を垣間見に行ってみましょう。




松任谷由実は今何歳?一番多感な時に聴いていたフィンガーズとは?

松任谷由実(まつとうや ゆみ)さんは本名です。皆さんご存じの事と思いますが、旧姓は荒井(あらい)です。

もっぱら、ユーミン(Yuming)の愛称で親しまれていますね。又、楽曲提供をする時のペンネームとして呉田 軽穂(くれだ かるほ)さんとしても、松田聖子さんらのヒット曲を綴っています。

1954年1月19日のお生まれなので、2025年10月現在 71歳と言う事になります。ちょっと信じられないくらいにお若いですし、パワフルです。

これも有名ですが、実家は八王子にある大正元年創業と言う老舗の呉服店、『荒井呉服店』のお生まれです。

5人兄妹で3男2女の第4子で次女と言う事なので、お姉さん、お兄さん、弟さんがいらっしゃいます。

現在も荒井呉服店は存在し、今は、松任谷由実さんの姪っ子さんにあたる荒井哉子(あらい かなこ)さんが引き継いでおられます。お写真を拝見すると、松任谷由実さんにそっくりですね。

お嬢様だった松任谷由実さんは6歳からピアノ、11歳から三味線を。このあたりが、呉服屋さんぽいですし、松任谷由実さんの楽曲が日本人のDNAに響く要因でもあるのかと。

1966年4月杉並区は久我山にある立教女学院中学校に進学します。中学時代の14歳からベースを始めました。その当時、松任谷由実さんが熱中していたのは、『フィンガーズ』と言うバンドでした。

このフィンガーズと言うバンド1962年から1969年までアマチュアからプロとして活動されたバンドですが、メンバーが凄いんです。

慶應義塾大学の学生が中心に構成されていたバンドのメンバーは、

三井財閥の親族や、歌人・斎藤茂吉の孫、フランス文学者の息子、ミュージシャン高橋幸宏さんの兄、ブリヂストンタイヤの創業者の孫など名だたる方々。

つまり、そんな富裕層のメンバーで構成された人たちで、様々なジャンルを奏でるバンドでした。一番多感な時期の松任谷由実さんがはまっていたバンドです。


松任谷由実は今何歳?老舗のイタリア料理店のご夫婦のお気に入り

そして、中学時代の松任谷由実さんは、日本では老舗の港区は麻布台にあるイタリア料理店『キャンティ』に通っていたと言います。

キャンティはただのイタリア料理店と言うだけではなく、来日した海外の著名人が集った名店としても名を馳せていました。

そんなキャンティの川添ご夫婦に子供の頃から気に入っていただいたのだそうです。

2004年10月10日、今から21年ほど前に、キャンティに通っていた人をモチーフに、ドキュメントが半分、ドラマが半分と言うような番組『あの日にかえりたい。~東京キャンティ物語』
が日本テレビで放送されました。

脚本は小山薫堂氏、番組のナレーターは松任谷由実さん。音楽監督は武部聡志氏。インタビューの中では、ピエール・カルダン氏も登場すると言う錚々たる出演の番組でした。

又、このお店の常連さんが後の松任谷由実さんのデビューへと導くきっかけともなります。

そんなお店に中学生の頃から通っていたと言う松任谷由実さんでした。

中学の頃、ラジオからプロコル・ハルムというイギリスのバンドの『青い影』と言う曲を聴き、当時のロックの曲がギター中心の中、『青い影』は、ピアノで奏でるロックだった事に衝撃を受け、自分でロックも弾けるかもと思ったそうです。

14歳の頃に、7歳年上友人で、のちに株式会社シー・アイ・エーと言うブランディングコンサル会社の社長となるシー・ユー・チェン氏と言う中国の方が『ユーミン』と呼び始めたのだそうです。

シー・ユー・チェン氏のお話だと、当時の人気アニメ『ムーミン』と中国語の有名と言う意味『有名(yǒu míng)』、そして、名前の由実を組み合わされたのだと言います。

それで「ユーミン(Yuming)」の後ろに「ing」が付くんですね。

立教女学院高校の3年生になった松任谷由実さんは、一本のデモテープを丁度、ザ・タイガースが解散したばかりのタイガースのメンバー加橋かつみさんに採用され、17歳の時にシングル『返事はいらない』でデビューします。


松任谷由実は今何歳?大学は多摩美術大学。日本画に進んだ理由は?

意外なのは、松任谷由実さんは、染色の専攻を志し、1972年4月に多摩美術大学の日本画の専攻で入学しています。

当時、松任谷由実さんがは、はまっていたイギリスのロックバンドは、驚くほどアートスクール出身の人が多く「絵の学校へ行って音楽やるのってカッコイイ!」と感じたのだそうです。

両親は音楽をやることには反対していました。

「クラシックをやって音大に行くのならいいけれど、訳のわからない音楽はダメだと。ただ、絵だったら、家が染色業を営んでいたこともあり、日本画での進学は許されたんです。」

出典:学生新聞2009.04.01

意外と書いてしまいましたが、ご実家のお仕事を思えば当然ですよね。

大学のカリキュラムは厳しく週一のペースで作品の公表会というのがあって、月に1度は、教授も来られての教授会と言うのがあり、大変だったようです。

そんな中、大学の日本画家の教授の加山又造先生が、

 『荒井さんはレコードを出したみたいだけど、それも”表現”だから。次の公表会では、そのレコードを持ってきなさい』

出典:学生新聞2009.04.01

そんな風に言ってもらった松任谷由実さんは、表現者として大切な事は、ジャンルを超えて相通じる事を改めて思ったそうです。

 大学入学間もなく作曲家としてアルファミュージックと契約します。アルファレコードを設立した村井邦彦さんの勧めもあって、

1972年7月5日にかまやつひろしさんがプロデュースしたシングル『返事はいらない』で荒井由実としてデビューを果たします。

しかし、当時は殆ど売れる事は無かったのですが、今となっては、有名な曲となっていますね。

時代はフォークソングの中でも『4畳半フォーク』と呼ばれた、かぐや姫の『神田川』やあがた森魚さんの『赤色エレジー』が全盛の時代でした。なんとなく貧しい事に美徳を見出すような風潮もありました。

当時の四畳半フォークブームの中で、華やかで明るめのユーミンの楽曲は受け入れられなかったのかもしれません。


松任谷由実は今何歳?ダリアが縮めた二人の距離?新婚旅行は大騒ぎ

松任谷由実さんの夫でありプロデューサーの松任谷正隆さんは、慶応大生だった1971(昭和46)年に加藤和彦さんに誘われて音楽業界に身を置くことになります。

松任谷正隆さんは、細野晴臣さんらと結成したキャラメル・ママ(後のティン・パン・アレー)と言うバンドのメンバーとなり、キーボードを担当します。

松任谷正隆さんは、杉並区の上高井戸にある豪邸に住む大地主の息子さんで、母の系列もゴルフ場などの経営されている富裕層の家系のようです。

1973年に松任谷由実さんが19歳の時(荒井由実)のファーストアルバム『ひこうき雲』のレコーディングに参加し、二人は出会います。

松任谷正隆・荒井由実夫妻が結婚したのが1976年です。松任谷正隆さんは25歳、荒井由実さんは22歳でした。

1974年ごろから音楽関係者の間で「荒井由実はどう見ても松任谷正隆と恋仲だよ。あの2人の呼吸の合い方は絶対に他人同士じゃないよ」なんて噂され始めます。

『ひこうき雲』と『MISSLIM』(ミスリム:痩せっぽちの女の子の意味の造語)と言う2枚のアルバムを出していましたが、松任谷由実さん自身は大学生で、音楽で生活するとは考えていなかったようです。

1972年2月にリリースしたシングル「ルージュの伝言」がヒットの兆しを見せた頃に熱愛報道が流れます。

当時マスコミに結婚について問われた松任谷正隆さんは

「えっ、ぼくと彼女が結婚ですかって? いやあ、彼女とぼくは単なる作曲家と編曲家の付き合いですよ。」とコメントしています。

松任谷由実さんも当初は「作曲家と編曲家のお付き合い。仲がよいのは当然だけど結婚なんて噂にすぎません。」と結婚報道を否定していましたが、

のちに「結婚を前提に付き合っているのは事実なの。でも、いつ2人が結婚するかはまだ決まっていないのよ」と言う風に結婚を前提にお付き合いをしている事を認めていました。

19歳の頃の松任谷由実さんは、自身のファーストアルバム『ひこうき雲』のディレクターの有賀恒夫氏に何度もダメ出しをされていました。

自分の曲なんだから・・・と思う事もしばしばあったとラジオでお話されていました。

有賀恒夫さんは、ピッチの正確さとビブラートのかけ方に厳しく、これは長く形になって残るものだから、今ちゃんとやらないとだめだと言われ、レコーディングは、実に1年間に及んで制作されたと言います。

松任谷正隆さんの意見は少し違っていて、ピッチの正確さで持ち味が失われるより、松任谷由実さんの声に抒情的なものが大きいと感じていました。

しかし、立場が違う人間で、しかも、まだ駆け出しのプレイヤーとしての意見が通ることは無かった様です。

そんな時、レコーディングの合間に松任谷正隆さんと松任谷由実さんは、井之頭公園を散歩します。

「好きな花の種類はある?」そんな風に松任谷正隆さんは尋ねました。

「ダリアの花が好きです。」

そんな会話の後日、松任谷正隆さんは、スタジオにダリアの花を用意しました。その花を見て、アルバム最後の難題だった曲「雨の街を」のレコーディングが、うまくいったのだそうです。

松任谷正隆さんの意図は、正確さにこだわるより、エモーショナルな部分が大切だと言う松任谷正隆さんなりのディレクターへのメッセージも含まれていた様です。

真面目に誠実に、松任谷由実さんからの意見を求められることへ答えているうちに松任谷正隆さん自身が、自分の意味を再確認できたと言います。

その後、急接近したお二人は、どちらの両親からも気に入られ、とんとん拍子で結婚に至ります。

1976年11月29日に横浜の山手教会で挙式を挙げます。披露宴は横浜市内にあるの思い出のあるホテルで行われました。

新婚旅行は熱海と箱根で松任谷由実さんの親戚が経営する旅館に1週間滞在するのですが、悪友の音楽仲間、かまやつひろしさんや、吉田拓郎さんを始め、いろんな人が初夜を妨害すると押しかけ、毎晩どんちゃん騒ぎをしていたと言いいます。

松任谷正隆さんの愛されるキャラクターを感じます。

その後の活躍、ヒット曲については、枚挙にいとまがないのは、皆さんご存じの通りかと思います。

いかがだったでしょうか?まだまだ書ききれないエピソードが沢山ある松任谷由実さん。14歳の時に『翳りゆく部屋』の原曲を作曲したと言う天才少女からデビューから53年を迎える二人三脚で歩んできた松任谷由実さんのお話でした。

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