世良公則 若い頃、結婚した奥さんは?娘はアナウンサー?病気の噂?

ポピュラー

世良公則さんは若い頃、「世良公則とツイスト」として多くのヒット曲を世に送り出しました。

今は世良公則さん、テレビなどのメディアの露出は少ないですが、現役でバリバリやっているイメージです。

ネットの中で「がん」や「病気」と言うキーワードが見え隠れします。

若い頃の活動や、現在のご家族は、娘さんや息子さんがいらっしゃるのだとか?又、お病気の噂が本当なのか?そんな世良公則さんのネットの噂を、ちょっと調べてみたいと思います。

世良公則若い頃

世良 公則(せら まさのり)さん、1955年〈昭和30年〉12月14日 生まれなので69歳ですね。広島県福山市のお寺(母系)の孫として、生まれました。

お父さんは公務員で、お母さんは保育士でした。

なんと言っても、世良公則さんが若い頃の活躍は、ツイストと言うバンドと共に知名度を上げたのだと思います。

そして、世良公則さんが心に誓ったロックを日本中に認めてもらいたいという信念があったのです。

世良公則さんは幼少の3歳の頃からバイオリンを習っておりました。中学時代にローリング・ストーンズの「Paint it Black」を聴き、「なんだ、これは!」と衝撃を受けたといいます。

世良公則さんは高校2年生までバイオリンを習っていたようですが、13歳の時にギターを始めます。

同時に衝撃を受けたローリングストーンズをはじめ、洋楽、ロックを聴き始めたのもその頃のようです。

時代背景からすると、音楽に対する理解が少ない時代でした。今では考えられませんが、ロックをやるという事自体へ偏見も多かった時代でした。

世良公則若い頃

世良公則さんは、広島県立福山葦陽高等学校を卒業後、大阪芸術大学芸術学部放送学科に入学します。

世良公則さんが高校時代は、ベーシストがいないFBIバンドというバンドに所属し始めたのですが、ギター担当ではなく、4弦のヴァイオリンが弾けるのだから、ベースも可能では?という事でベースを担当したといいます。ちょっと笑えますが。

ローリングストーンズのカバーを得意とするバンドだったようです。

高校時代は、エレキギターのケースを持って歩いていると、警察官に呼び止められ、学校や担任の先生の名前を聴かれる事もあったといいます。

それだけ、ロックをやっている人を危険視する風潮が強かったのです。

その後、世良公則さんをはじめ、バンドメンバー全員で、当時ブルースが盛んだった大阪の大学へ進学する事になりました。

大学に入ると、音楽コンテストなどに出ていると、ボーカルの歌唱を関係者に批判されたため、世良公則さんが、ベースから転身します。

しかし、その時まで、バンドのメンバーは勿論、世良公則さん自身が、歌が上手いという事に気が付いていなかったといいます。

当時はカラオケボックスのようなシステムが普及している訳でもなく、人前で歌うのは、やはりバンドの方くらいだったのだと思います。

世良公則若い頃

世良公則さんたちが、大学生時代にバンド活動を続けていますが、卒業が迫り、それぞれの道を歩いてゆくことになります。

2つ後輩の神本宗幸さん(キーボード)は別として、世良公則さんだけは、プロのロックミュージシャンになる事を心に決めていました。

世良公則さんは、バンド解散に対してのけじめとして、他のメンバーは、『思い出作り』として、1977年10月ヤマハポピュラーソングコンテスト(ポプコン)に出場します。

その際、つま恋での決勝大会の前にバンド名を「ツイスト」にしました。

バンドのメンバー全員でサム・クックの「Twisting’ The Night Away(邦題・ツイストで踊りあかそう)」を聴いてるときに『ひねくれもの』とねじれる『Twist』も意識したと言います。

メンバーは

世良公則(ボーカル、ギター)
ふとがね金太(ドラム)
鮫島秀樹(ベース)
神本宗幸(キーボード)
松浦善博(ギター)

鮫島秀樹さんは、後にハウンドドックのベーシストとして活躍されてますね。又、娘さんはタレントの岡田れえなさんです。

ヤマハポピュラーソングコンテストでは「あんたのバラード」で見事グランプリを獲得します。ヤマハポピュラーソングコンテストでは、中島みゆきさんを始め、フォークミュージックの登竜門的なイメージがあったのですが、

世良公則とツイストが奏でるロックがグランプリになった事で、ポップコンのイメージは一新します。事件という人がいるほど大きな出来事でした。

後ほど知ったのですが、私moonの知人も若い頃、本選に出たという方が!「グランプリが世良公則だった。」と言っていました。

同じ場所にいたのだと思うとすごいですね。又、相手が悪かったとも思いました。(笑)

引き続き世良公則さんは同じ年の11月には第8回世界歌謡祭でもグランプリを受賞します。

語りのような優しくピアノで始まる『あんたにあげぇ~た愛の日々を~』と言う出だしから、情熱的な歌い方に変って行くバラードは、当時の男女や年齢に関係なく、多くの人を惹きつけました。

特に若い女性には、世良公則さんのルックスの良さもあり人気が高かったように思います。

同じ時期に、ロックを意識してテレビに出ていたのは、甲斐よしひろさん率いる甲斐バンドなどもそうですが、ロックと言うジャンルを小学生からおじいちゃんおばあちゃん世代まで、幅を広げた方だと思います。

『あんたのバラード』から『宿無し』『銃爪ーひきがねー』『燃えろいい女』などヒット曲を連発しました。

世良公則さんの心の中には、「ロックをやってるやつは不良!」と決めてかかる風潮を変えて、みんなにロックを認めて欲しかったという気持ちが若い頃からあったといいます。

世良公則若い頃

世良公則さんは、17歳の高校生の時に出会った彼女は、柳井典子さんと仰る方、8年の交際期間を経て、1980年に結婚しました。

当時、世良公則さんが住んでいたマンションは、神田正輝さん、松田聖子さんご夫婦と同じマンションだったようで、家族ぐるみで親しかったようです。

息子さんは、モデル?ジャニーズ?という噂もありますが、世良大吾さんというお名前だけは解りますが、一般人として生活されているのだと思います。

また実際に雑誌『ポップティーン』の読者モデルを務めていた事もあるようです。

画像は探せますが、父親より甘いマスクなので、モデルやジャニーズなんて憶測が飛び交っているようです。

娘さんは世良明音(せらあかね)さんといいます。フリーランスで、結婚式場のMC(司会者)やナレーションのお仕事をされていました。

その事から「アナウンサー」と言う噂が流れたのと、アナウンサーを務めている世良マリカさんという方が苗字が同じことから、間違えられたのかと推察できます。

世良公則さんの自宅が成城にあり、娘さんも息子さんも共に成城大学のご出身だということです。

世良公則さん自身のがんや病気の噂はデマのようで、2023年の7月に指を骨折して手術を受けたという情報がありました。

世良公則さんの若い頃は、ロックを演奏する、聞くだけでも不良だと言われた時代でした。

本当に学校の校則に『ツイスト』のような音楽を聴いてはいけない。というような事も書かれた時代がありました。

世良公則さんの功績は大きく、同調圧力の強い中、ロックを聴く若者たちが楽しんで、自由に聞けるように鎖をほどいていったのです。

以上、世良公則さんの若い頃、ツイストの活躍などを調べてみました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました