南こうせつさんは、私moonが、子供の頃から活躍するシンガーソングライターです。言わずとも知れたという感じの方ですが、
若い頃は、フォークグループの『かぐや姫』として名を馳せ、多くのヒット曲を連発していました。
いつも明るい笑顔をテレビなどで拝見すると、中学生の頃、毎日のようにラジオから流れていた南こうせつさんの曲を思い出します。
今回は、そんな南こうせつさんの現在、若い頃から始めた田舎暮らしについて、そんな南こうせつさんにスポットを当ててみました。
南こうせつ現在の年齢?本名、身長、出身地、実家はお寺さん!
南こうせつさんは、本名を南 高節(みなみこうせつ)といいます。1949年〈昭和24年〉2月13日 のお生まれなので、今年(2024年)75歳でしょうか。
南こうせつさんが生まれたのは『団塊の世代』と呼ばれる第2次大戦後のベビーブーム1947年から49年の3年間に生まれた方の事で、子供がたくさんいた時代でした。
大分県大分市竹中(旧:大分郡竹中村)のご出身です。4人兄弟の三男で、実家は曹洞宗勝光寺というお寺です。
4人兄弟と書いてあったり、3人兄弟と書いてあったりするの次で、調べてみると次兄の方は若くして亡くなられているとの事でした。
又、お姉さんがいらっしゃるようなインタビューもありました。
「高節」こうせつと言う本名も、お寺さんの息子さんと言う事を聞くと、納得ですね。身長は163cm、血液型はAB型だそうです。
南こうせつさんが、何故『こうせつ』とひらがなにしたかと言うと、レコードに印刷された『南高節』という名前を年配の方が、「この”なんこうぶし”という曲を聴いてみたい。」と言う発言を耳にしたからだとか。
そんな南こうせつさんは、子供の頃から歌が好きでした。生まれ育った大分市の竹中は、当時は農家の方が多い村でした。
農家では大きな作業が一段落すると、南こうせつさんの実家のお寺を利用して打ち上げを行う事が多かったのだそうです。
南こうせつ現在の歌手の基礎を作った幼少時代の実家の思い出。
南こうせつさんの現在の歌手の基礎を作ったのは、その頃の大人たちが盛り上がって、歌を歌う中で、子供だった南こうせつさん兄弟も、「こうせつちゃん唱ってよ。」と言われる事もしばしばあって、子供の頃から人前で歌うことがあったようです。
大人の酒宴に交ざって、歌を歌う機会があり、酒宴が進むと軍歌や戦前や戦中の歌謡曲を歌いだす大人たち。
その頃の日本は、まだまだ戦争の記憶の生々しい頃で、多くの戦争経験者がいらした時代でした。
そんな歌を歌う姿を見て、歌が心のよりどころになっていると、子供ながらに思ったといいます。
南こうせつさんも中学に入ると、兄の影響などもあったのかラジオから流れる洋楽を好んで聞いていました。
ボブ・ディランの曲に衝撃を受けて、兄のウクレレで練習して、お小遣いをためてフォークギターを買ったそうです。
高校は進学校で県立の共学校の大分舞鶴高校に進みます。そこで、2年後輩の伊勢正三さんに出会う事になるのでした。
南こうせつ現在。かぐや姫の活動、奥さんとの出会いと家族
高校生活の終わり頃になると南こうせつさんは、友人のオーディションについていったのだそうです。
「高校の終わりの頃、友人についてクラウンのオーディションに行ったんだよね。ロビーでチューニングなんかしてるとディレクターの人に『アンタも歌いなさいヨ!』って声かけられたんだ。まさか通るとは思ってなかったけど、通っちゃった!」 『月刊明星』1976年12月号
と、インタビューでお話されていました。
大学は、明治学院大学に進学されていますが、大学進学は、上京が目的だったようで、殆ど学校に行かず、早い時期に退学されています。
1970年4月21歳の時『最後の世界 / むなしいうた』でソロデビューを果たしますが、レコードはわずか300枚しか売れる事が無かったそうです。
同じ年の10月には「南高節とかぐや姫」としてベース奏者、大島三平氏らと『酔いどれかぐや姫』をリリースしています。
その後、高校の後輩で大学進学で上京してきた伊勢正三さんや、別なバンドを脱退したばかりの山田パンダさんと『かぐや姫』を結成しています。
1975年までの間に、『神田川』や、『赤ちょうちん』『22歳の別れ』『なごり雪』などのヒット曲を連発します。実は意外にも『海のトリトン』と言うアニメソングもかぐや姫の楽曲でした。
しかし、映画化などの話が先行して自分たちがリリースしたい曲が発表できなかった事などが、『かぐや姫』の解散を速めてしまう事となりました。
かぐや姫は1975年4月12日 に東京神田共立講堂で行われた解散コンサートを最後に惜しまれつつも解散してしまいます。
そんな南こうせつさんは1973年に所育代(ところいくよ)さんと結婚されています。お二人の出会いは、東京の高円寺のアパート暮らしの頃、
南こうせつさんの所へ届くはずの荷物が、同じアパートに住む所さんの所へ届き、それを届けに来てくれたことがあったそうです。
その時、既にアーティスト活動を始めていて、オールナイトニッポンが終わり4時過ぎに寝入った朝だったそうで、暑い夏の日でした。
パンツ一丁にTシャツといういでたちで、玄関先で荷物を受け取ったのだそうです。その時、南こうせつさんは、「可愛い人だなぁ」と思ったといいます。
その後、半年ほど何事もなかったのですが、ゴミ捨て場で再会し、交際に発展したのが馴初めのようです。
現在、奥様の南育代さんはエッセイストとして活動されています。
1975年にはご長男が、1979年に長女の方、1994年に次男の方を授かっています。長男と次男の方では19歳の歳の差があるようです。
ネットの噂では、ご長男は東大の医学部生卒業なんて説もありますが、どうも事実ではないようです。
長女である娘さんは、南静香さんといい、写真家のようです。スポーツ紙などの紙面を飾る事が多いようで、スポーツやダンスの写真を手掛けていらっしゃるようです。
南こうせつ現在。若い頃から田舎暮らしで見出したものは?
南こうせつさんは、若い頃は都会の暮らしに憧れ、都心の青山で生活されていた事もあったのですが、子供さんが生まれる頃は、田舎で子供たちを育てようと思ったといいます。
南こうせつさんの若い頃の楽曲の中に『マキシーのために』と言う楽曲があります。
その中に「青山にでっかいビルを建てて、おかしな連中集めて、自由な自由なお城を作ろうと」と言う歌詞があります。
マキシーは、この作品の作詞家の喜多條忠さんの友人の方だそうです。その頃のお話も面白そうですがまたの機会に。
南こうせつさんは富士山のふもとに、住居を構えた事もあったようですが、農作物を作る事も目的だったのに寒さの為に、取れる作物や時期が限られていたのもあり、5年ほど暮らして引っ越します。
南こうせつさん、現在は生まれ故郷の大分県の中の国東半島の『みかん山』という場所がに目を付けます。作物を作るにも暮らすのにもぴったりでした。
2500坪の土地を購入し、家づくりは水道が通っておらず井戸を掘る作業から始まったといいます。
そこに豪邸を建て、長年過ごしますが、70歳の時、家を小さくして、断捨離を始めたと伝えています。
南こうせつさんは平屋の2DKの家屋を新たに建て、300枚にも及ぶTシャツを処分、思い出はあっても、今の自分に似合っているかで、捨てていったそうです。
南こうせつさんは、SDGsを意識した暮らしをする事で、自分にとって大事なものだけを残すことで、感性を豊かにする事が出来るといい、それを実践されています。
以上モノへの執着を無くすことで、心が豊かになるそんな南こうせつさんの現在のお話をお届けしました。
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