イエローモンキー・吉井和哉、息子、娘5人の子供?妻はあのタレント!

メッセージソング

吉井和哉さんはザ・イエローモンキー(THE YELLOW MONKEY)のボーカルの方です。イケメンで長身、デビッド・ボーイの大ファンであると公言しております。

若い頃から、多くの浮名を流し、女性からモテる方のようです。しかしこの所、吉井和哉さんのサイトでも早期の咽頭癌である事、治療が進んで、活動が再開される事などが発表されております。

又、吉井和哉さんのご家族がクローズアップされております。再婚の相手、お子さんの事など、話題も豊富なようです。

今回はザ・イエロモーンキーの吉井和哉さんをフィーチャーしてみます。




イエローモンキーの吉井和哉はボーカル担当、昔の活動とバンド遍歴

吉井和哉さんは1986年、20歳の頃にアーグ・ポリスと言う、浜松のヘビーメタル系のバンドに所属し、ベーシスト・ボーカルとして活動されていました。

アーグ・ポリスは、地元では、そこそこの人気で、ライブでは800人くらいの観客が呼べるくらいになりましたが、もう少しの所でデビューに至らず、解散しております。

その後、吉井和哉さんは1988年にロックバンドTHE YELLOW MONKEYを結成し、自身はボーカル・ギター・作詞・作曲・プロデュースを行っています。

1992年にメジャー・デビューを果たしてからの活躍ぶりは皆さんがご存じの通りかと思います。



イエローモンキー吉井和哉とメンバーは?出身、血液型、身長など

イエローモンキーのメンバーの皆さんのプロフィールです。

吉井和哉さんは、本名で、1966年〈昭和41年〉10月8日 生まれです。東京都北区のご出身で、静岡県で、育ちます。

身長は183cmで、血液型はA型(Rh−)という事です。 LOVIN (ロビン)という愛称(バンドネーム)でボーカル・ギターの担当です。

菊地 英昭(きくち ひであき)さんは、1964年12月7日のお生まれ。東京都日野市のご出身です。八王子市育ち。血液型はO型。

THE YELLOW MONKEYのドラマー菊地英二さんは実の弟で、元々、弟の英二さんに誘われ、THE YELLOW MONKEYのギタリストとしてメンバーになりました。バンドネームはEMMA(エマ)

広瀬 洋一(ひろせ よういち)さんは1963年4月19日生まれで、東京都足立区のご出身です。ステージネームはHEESEY(ヒーセ)。これは、小学校時代に担任の先生につけられたあだ名だとか。

ベーシストで血液型はO型で結婚なされています。一児の父。

菊地 英二(きくち えいじ)さんは、1967年6月6日 生まれ。東京都八王子市出身です。血液型はO型。既婚。ドラムスの担当です。バンドネームは ANNIE(アニー)

その他にサポートメンバーとして

三国義貴(みくに よしたか)さん、北海道札幌市出身の、1955年7月23日生まれのキーボードの担当されている方と、

同じくキーボードを担当されている1970年11月17日 生まれ、兵庫県神戸市出身の鶴谷崇(つるたに たかし)さんが、おります。


イエローモンキー吉井和哉の若い頃のJAMと言う曲で報道の在り方が変わった?

THE YELLOW MONKEYと言えば、1995年以降『太陽が燃えている』『JAM』『SPARK』『楽園』等、立て続けにヒット曲を連発し、ヒットメーカーとなったイメージがあります。

吉井和哉さん自身は1986年の20歳の頃から、先述のアーグ・ポリスと言う、浜松のヘビーメタル系のバンドに所属しており音楽活動を開始しており、

1988年にイエローモンキーを立ち上げてますので、10年以上の下積みの時代を経ています。しかもメジャーデビューからもしばらく、CDセールスがままならない歳月もありました。

しかし、ヒット曲を出そうと路線を変更し、1995年1月にリリースされた5thシングル『Love Communication』はヒット曲を意識して作られました。

目論見通り自身初のオリコンシングルチャートTOP30入りを果たし、スマッシュヒットを記録しております。

私moonが初めて意識して聞いたザ・イエローモンキーの楽曲は『JAM』でした。『JAM』という楽曲の歌詞が刺さってきました。

しかし、この楽曲は当時レコード会社が、前作の「太陽が燃えている」のような次の曲を期待していたのに、バラードでしかも長い楽曲であるためにお蔵入りしそうになったものだと言います。

楽曲を聞いたプロモーションの担当者の方や音楽専門誌の編集長が、商業主義優先とは違うと言う事に一石を投じる事になりました。

世情としては、オウム真理教のサリン事件や、阪神淡路大震災など暗いニュース続く中、歌詞の「外国で飛行機が墜ちました〜」「ニュースキャスターは嬉しそうに、乗客に日本人はいませんでした。」

と言う行は、少なくとも当時の日本人なら、実際のニュースの場面も誰しも聞いていて、やはり誰しも心に引っかかっている部分だったと思います。

しかし、この歌詞の本質にある、吉井和哉さんが繋げたいのは、「君に逢いたくて、また明日を待っている。」という部分だとお話されています。

その君は、お子さんたちの事だと言う事です。

世界の中にある日本として、最近は海外の飛行機事故の状況を伝えるとき、日本人の被害の有無の伝え方が、当時と随分変わった事に気が付いた方も多いと思います。

そして、何よりプロモーションを担当した方がお蔵入りになりそうなときに、「この曲は代表曲になりますよ。」と言ったその通りになりました。

その後、このプロモーション担当の方がアマチュアバンドが、『JAM』をカバー演奏している時、会場のトイレでひっそりと倒れているのが発見され、その後、息を引き取っております。

最終的には60万枚と言うセールスと言う大ヒット曲になりました。


イエローモンキー吉井和哉の嫁はタレント、前妻との娘3人、息子はモデルの吉井添

さて、才能もさることながら、容姿もイケメンの吉井和哉さん。前の奥さんとの間にお子さんが4人いらっしゃいます。

そんな吉井和哉さんですが、前の奥さんとは1992年頃にご結婚されています。吉井和哉さんと前の奥さんとの間には3人の娘さんと一人息子さんがおります。

吉井和哉さんの前妻は、一般人の方のようですが、吉井和哉さんの衣装などに関連したお仕事をなさっていたようですが2008年頃に離婚されています。

山梨県にある大きな家を前妻には渡しているとの報道があります。どうも、吉井和哉さんの浮気が原因で離婚となったようですが、家族の関係は良好で時折お会いすることもあるのだとか。

吉井和哉さんの幸せを願っていると言う前の奥さんを、吉井和哉さんはとても尊敬していると言います。

長女の方は1994年生まれで、すでにご結婚。2015年に出産しています。奇しくも現在の奥さん眞鍋かをりさんとの間のお子さんと、お孫さんが同じ年となるようです。

吉井和哉さん自身が早くにお父様を亡くされていて、子煩悩な方だと言います。

現在の吉井和哉さんの妻は、マルチタレントとして活躍されている「真鍋かをり」さんです。2015年にご結婚されて、その年に、男の子を授かっております。

前妻との子供が4人、今の奥さんの子供が1人と言う事です。

眞鍋かをりさんが、イエローモンキーの大ファンであった事などから、意気投合したと言います。

前妻との間にいらっしゃる息子さんは、今、人気急上昇中のモデルの『吉井添(よしいてん)』さんです。お姉さんが3人いらっしゃい、一番下だそうです。

吉井 添(よしい てん)さんは、長野県のご出身で2001年11月11日生まれの23歳。父親譲りのルックスで183cmの長身です。これから露出度も高くなるのではないでしょうか?

以上、イエローモンキーの吉井和哉さん若い頃の活躍、息子さん、娘さん、奥さんの情報などをお送りいたしました。

 

 

 

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