矢野顕子さん、特徴的な声と明るく朗らかなメロディ。都会派のシティ・ポップなんて言葉もピッタリくる。そんなイメージが強い方です。
『春先小紅』を筆頭に沢山のヒット曲も、又、さまざまな方とのコラボレーションや、カバー曲なども聴きごたえがあります。
1980年代からの活躍ぶり、あの頃のエピソードも多そうですが、検索のワードに”病気”と言う言葉も出てきます。
矢野顕子さんの若い頃から、現在の活動、病気の噂まで、調べてみたいと思います。
矢野顕子若い頃。青森の医者の娘として、ピアノの英才教育を受け。
矢野 顕子(やの あきこ)さんは、1955年〈昭和30年〉2月13日生まれです。71歳になられたところですね。(2026年6月現在)出生名は鈴木顕子(すずきあきこ)さんと言います。
初めに伝えると、矢野顕子さん、現在お病気と言う事は全くないようです。2011年頃に白内障の手術を受けた事を発表しています。
矢野顕子さんのお母さんの家系は、会津藩の武士の家系の上流武士でしたが、戊辰戦争に敗れ、青森に定住したそうです。
矢野顕子さんの父の家系は、お爺さんは、鈴木伊佐治さんと言い、東京医科大学卒業後、若くして青森県の病院の院長として迎えられ、次男である息子さん(矢野顕子さんの父)威男(たけお)さんが生れます。
矢野顕子さんの父・威男さんも東京医科大学に入学、学生の内にお見合い話が舞い込みました。そのお相手がミスユニバース青森代表に選ばれた経験のある丸山淳さんでした。
この方が後に矢野顕子さんの母になる方です。お見合いは功を奏して、1954年威男さんは学生結婚となり、次の年、東京の高円寺で矢野顕子さんは生まれます。
医学生として、顕微鏡を覗き込む日々の中、顕微鏡の『顕』の字を選んで「顕子」と命名しました。
父が青森に戻る事になり、3歳からは父母の故郷である青森市で育ちました。
青森では、おじいさんの伊佐治さんは、医師としての職業の傍ら、絵画を描くことが趣味で100号サイズの絵も描いていたと言います。
伊佐治さんは矢野顕子さんの事を可愛がり、矢野顕子さん自身が「一番影響を与えた人」とお話されています。
矢野顕子さんには弟さんが一人おられます。弟さんのお名前は、伸吾さん。青森市内で『MINATO YA 港屋』と言うバーを営んでおりました。
お父さんの医院のあった同じ場所のようです。古川2丁目は青森駅から歩いて7~8分の大通りの横の地域で、ひっそりと美味しいお店がありますが、住宅も多くある場所です。
矢野顕子さんのお母さんは、子守歌としてシューベルト等のクラシック音楽が多かったそうです。お母さんは、戦争で叶わなかったピアノへの夢を矢野顕子さんに託します。
青森でピアノを習い始めるのですが、先生は当時カナダから、日本の地方都市に展開を始めた「明の星学園」の修道院の先生が教える教室でした。
カナダ人のシスターの先生の指導は厳しく、今では考えられませんが、間違えないように鍵盤の間に剃刀の刃を仕込み練習させたのだそうです。
しかし、矢野顕子さんは反発して、好きなように弾いて、発表会でも途中から違うフレーズを引き出したりする始末、挙句にさんざん叱られたそうです。
矢野顕子若い頃。ピアノ漬けの幼少期から、中学を卒業すると上京。
矢野顕子さんの子供の頃は、気ままでわがままなとみられていたようです。実はお爺さんの伊佐治さんの気質も、自由気ままな性格だったと言います。
ピアノの上達は早く、幼稚園の頃には、毎日ピアノを弾き、母親との会話でも、ピアノを用いて即興のフレーズで感情を表現するようになりました。例えば、
幼稚園の遠足から帰って来て、母から「楽しかったの?」と聞かれて、「こんな感じだったの」とピアノを弾いて答えた記憶があるんです。
出典:花椿GIRLS ROCK BEGINNINGS 2021.03.19付
その頃、母は、この子には、この道しかないと思っていたのだとか。
そんな中、青森市の古川小学校へ入学。勉強は良く出来て、成績は良かったようです。時折男の子と殴り合いのケンカをしてくることもあったと言う活発な面も持ち合わせていました。
お母さんは音楽好きでしたが、父もジャズが好きで、小さい頃からジャズ喫茶に連れて行かれたのだそうです。
小学五年生までピアノを習っていましたが、楽譜は得意ではなく、ほぼ耳コピで弾いていたようです。
形式通りに弾くクラシック音楽より、ジャズの様に感情表現が自由に奏でる音楽は、矢野顕子さんにとってはしっくり来ていたようで、小学校の高学年になるとジャズの曲もマスターしていました。
中学生になっても、父とジャズ喫茶に出かけ、父は娘をジャズ喫茶に置いて、別の店に飲みに行ってほろ酔いになって11時頃に迎えに来ると言うパターンだったようです。
時折、大人に混じって飛び入りでピアノを演奏していたそうです。
又、矢野顕子さんは、中学生の頃から、柳ジョージさんやミッキー吉野さんも在籍していたことがある「ザ・ゴールデンカップス」に夢中になり、横浜は本牧にある当時ザ・ゴールデンカップスが演奏していた「ゴールデン・カップ」という店に見物に来ていたと言います。
勿論、東北新幹線がまだなかった時代、結構な労力と費用だと思いますが、当時矢野顕子さんの生まれた家が、高円寺にまだ残っていて、お爺さんの伊佐治さんが住んでいらしたようです。
高校は、部活でジャズの練習もできると思い、青山学院高校に入学する為、上京します。両親は頑張れと送り出してくれたと言います。
入学式が終わりすぐに、軽音楽部の部室に行くと、矢野顕子さんが思っていた雰囲気とは違うと感じたと言います。
つまり、当たり前ですが、そこにプロを目指し、ジャズを専攻しているような方はいませんでした。
それでも、一年生の時に学校内で作曲コンテストがあり、ベースとドラムと組んだピアノトリオで自作曲を発表、優勝しました。
青山学院は、皆さんご存じの通り、幼稚園から大学までの一貫校でもあり、高校にもなると、始めから在籍していた内部の人と、高校から受験入学した外部の人とでは、温度差(壁)を感じたと言います。
そんな中、「外部の人」が優勝したものだから、話題になり、多くの人から「いい曲だね。」と褒められたそうです。そう言う事もあった為か一年生の内に軽音楽部の部長になります。
そんな軽音楽部のOBには、プロのドラマーになる林立夫さん、同級生には作曲家となる渡辺俊幸さん、三年生だった先輩には、のちにベーシストとして北欧に渡る森泰人さんがいました。
森泰人さんは、矢野顕子さんの才能を見抜いたのか?その頃、付き合いのあったプロのミュージシャンの方に矢野顕子さんを紹介すると、人脈が出来、仕事の依頼が来ます。
高校二年生の頃になると夕方の四谷の喫茶店を皮切りに、レストランで弾いて、日付が変わるころ六本木のバーへ移動し、朝の4時まで、早生まれだったので、当時16歳であった年齢も偽ってピアノを弾いていたと言います。
毎日の様にお呼びがかかるようになると、月収が七十万円にもなったのですが、当然、睡眠時間は無くなり、学校は遠ざかります。
プロとしてやって行くと言う目的が近い所に見えた矢野顕子さんは、高校二年生の一学期で高校を中退します。
父親に話をすると「仕方ないんじゃないの?」程度の反応で、強く反対するような反応は無かったそうです。
矢野顕子若い頃。用心棒は、あの安部譲二。広がる才能と人脈に。
しかし、親御さんとしては、15~16歳の地方から出ていった娘が、夜中に働くことを心配し用心棒兼お目付け役としてお願いしたのが、
1980年代に、バラエティ番組やクイズ番組で活躍した、元暴力団組員の肩書のある、『塀の中の懲りない面々』を代表作とする作家の安部譲二さんでした。
安部譲二さんは、生い立ちや、エピソードが凄過ぎてブログが二本くらい書けそうな方ですが、今回は割愛。
安部譲二さんと遠藤瓔子(ようこ)さんご夫妻は、青山でジャズクラブ「ロブロイ」をやっていました。
遠藤瓔子さんは、元JALのアテンダントとでしたが、宗教団体「エホバの証人」の信者でもありました。
矢野顕子さんがエホバの証人へ入信するきっかけを作ったと思われ、現在も矢野顕子さんは熱心な信者である事を公言しております。
矢野顕子さん自身のアルバムのブックレットでエホバの神に感謝を捧げているものも多くあります。
安部譲二さんが自宅として所有していた港区赤坂2丁目の交番のそばのマンションに高円寺からピアノを運んできてそこに住み始めます。
私はあちこちのレストランやクラブでピアノを弾き、その仕事が終わるとロブロイに立ち寄って安部さんたちと一緒に帰るんです。そして、やがてロブロイでも弾くようになりました。
出典:asahi.com 2016.11.24付
子供の頃から、家にカラーテレビはあったものの、クラシック音楽やジャズが流れる家庭で、歌謡曲を聞くことが無く、日本の流行っている曲を全く知らなかったと言う矢野顕子さん。
レコードを出すなんて事も考えておりませんでしたが、色々なお店でピアノを弾いていると、評判となり、スタジオミュージシャンとしての仕事も増えてきます。
山下洋輔さん(ピアニスト)、坂田明さん(サックス奏者)など、名立たるジャズの名士とのセッションも行います。
一方、クラブやバーでは、歌う事も増えてきました。一度歌ってみたら、お客さんやお店の反応が良くギャラも増えたので、歌う事も増えたのだそうです。
そんな中、ギターをやっている彼氏ができ、彼氏を含む男性3人と矢野顕子さんを中心とした『ザリバ』と言うバンドを結成します。
赤坂から高円寺に住居を戻し、ライブハウスやディスコ、米軍基地なども回ったそうですが、自分たちで楽器を運び、労力の割にクラブで歌うような収入にはならなかったと言います。
そんな時レコード会社から、ザリバのレコードを出さないか?という声が掛かり、行きがかり上、乗り気ではなかったと言いますが、シングルレコードの制作に入ります。
その頃、スタジオミュージシャンとして、矢野顕子さんを気に入っていたと言う筒美京平さんが作曲を担当し、アレンジャーの矢野誠さんが編曲を担当します。
『ザリバ』は、『或る日』c/w『こわれた時計のように』と言う唯一のシングル・レコードを1974年にリリースします。
バックバンドは、細野晴臣さん、松任谷正隆さん、青山学院高等部の軽音部のOBの林立夫さんらのいるキャラメルママ(当時)。
筒美京平さんは矢野顕子さんの才能を買っていましたが、それ以上に日本一のアレンジャーと評価していたのが、この曲を編曲した矢野誠さんでした。
しかし、シングル・レコードが販売され始めると、5日後には解散してしまいます。原因を矢野顕子さんは、自分のわがままだと思うとお話されています。
恋人だった方とも別れてしまったようです。リリースの翌年1975年に”出来ちゃった婚”で矢野顕子さんは結婚しますが、そのお相手がアレンジャーの矢野誠さんでした。
まだ19歳の時に結婚して、同じ年の1975年に20歳の時に長男(風太さん)が生れます。
矢野顕子さんは大田区の洗足池の夫である誠さんの家に、夫の母と弟の5人で暮らし始めます。夫の母は、孫の風太君の面倒もよく見てくれたと言いますが、変わり者だと言われていたお二人。
徐々に関係性が悪くなってしまいます。
矢野顕子若い頃。坂本龍一との出会い。最新曲は同じ東北出身の!
さて、矢野顕子さんの夫と言えば、坂本龍一さんが元・夫である事は多くの方が知るとこですが、推測ですが矢野誠さんは正直すぎて変わり者と呼ばれる部分も多かったようです。
坂本龍一さんは、個人的にクールで硬派なイメージも持ちますが、実は大学時代から浮名を流し、学生結婚し、娘さんもいました。
矢野誠さんと矢野顕子さんの関係が悪くなっていったあたりに坂本龍一さんの影がちらつきだします。
1978年に行われた矢野顕子のソロツアー「ト・キ・メ・キ」に、坂本龍一さんがサポート(キーボード)として参加するのですが、その前に横浜の中華街から、矢野顕子さんのテレビ中継で歌う場面がありました。
その時、キーボードの松任谷正隆さんが急に参加できなくなり、当時、東京藝術大学の学生だった坂本龍一さんでした。
初対面の時は、臭うくらい不潔な出で立ちで矢野顕子さんは、食事の時に隣に座った坂本龍一さんを嫌だなと思ったそうです。
その頃、坂本龍一さんは、学生結婚した女性と離婚し、大貫妙子さんと暮らしていたと言います。
次に細野正臣さんが、ツアーのメンバーに推してきて面会した時は、清潔になっていたのだそうです。
その後、坂本龍一さんは、矢野顕子さんが矢野誠さんと言う音楽的な才能を持つが、自分以上の変わり者である彼と暮らす事について、
矢野顕子という天才が、ぼくなんか手が届かないような特別な才能が、このままではだめになってしまうのではないか、それをぼくがなんとかできるのではないか、と考えたというのか。本当におこがましいんですか、そういう男気みたいなものかあったと思います。これはとにかく、男としても、人間としても、音楽家としても、守らなきゃいけない、本気でそんなふうに思っていました。
出典:坂本龍一 著『音楽は自由にする』(新潮社刊)
1979年のイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のワールドツアーに矢野顕子さんが参加し、同じ年に矢野誠さんと離婚し、お子さんの親権を持ちます。
1980年には、娘の坂本美雨(さかもと みう)さんが生れます。しかし実際にお二人が結婚したのは、1982年、実質的にYMOが活動を停止していた時期に坂本龍一さんと結婚します。
その頃、林真理子さんが1982年11月エッセイ集『ルンルンを買っておうちに帰ろう』の中で、矢野顕子さんを痛烈に批判していますが、筆者としてはあまり意味を感じないので割愛します。
林真理子さん自身売れるはずがないと思って書いた著書がベストセラーになった事で戸惑いもあったようです。
何しろ、後の対談で、林真理子さんがその話題の謝罪をしようと振りましたが、矢野顕子さんは意に介していない様でした。
1981年に、親交のあったコピーライターの糸井重里さんが、『春先小紅』と言うカネボウのルージュのCMソングがヒットした時期で、矢野顕子と言う名前は広く知れ渡っていました。
結婚から8年過ぎた1990年には家族でニューヨークへ移住します。坂本龍一さんがアカデミー賞を受賞した事などによりアメリカでの仕事が増えた事がきっかけだと言いますが、
坂本龍一さんの女性問題も背景にあったようで、さすがに矢野顕子さんの中には安定してきた家庭を守りたいと言う気持ちもあったのでしょう。
しかし、坂本龍一さんと女性の関係は切れる事は無かった様です。結婚から10年目の1992年には別居生活となり、2006年に離婚しています。
2023年3月28日、坂本龍一さんが逝去しても追憶のコメントなどに、坂本龍一さんへのアーティストとしてのリスペクトを感じます。
現在まで既出のミュージシャンの他に槇原敬之さん・小田和正さん・YUKIさん・井上陽水さん・忌野清志郎さん・上原ひろみさん・森山良子さん・レイ・ハラカミさん・宮沢和史さん等など
多くのミュージシャンとセッションや作品制作、又、カヴァーソングなどを発表してきた矢野顕子さん。
若い才能を見出すと言うか?自然と才能を持った人が集まるのでしょう。最新では、同じ東北のご出身の北村蕗(きたむら ふき)さんと2026年6月10日に新曲の発表をされています。
北村蕗さんのInstagramでは
本日リリースの矢野顕子さんの作品を編曲させていただきました🩵……😭
矢野さんの作品に何度も救われてきたので、今回こうして音が一緒に鳴っていることに大変感動しております……歌が入ったものを頂いた時、鳥肌が止まりませんでした❕
矢野さんの声の成分には愛しかなくて、ピアノには推進力で背中を押されて、包まれ、
あたたかいのに、強さをもらえる曲で何度も何度も聴きました。「みんなのうた」でも流れております。
こちらも夢でしたので嬉しすぎます。ぜひ見たら教えてください〜❕
皆さんに聴いてほしいです。・:*+.—
NHK「みんなのうた」書き下ろし楽曲
「THE RIVER」
作詞・作曲:矢野顕子 編曲:北村蕗・矢野顕子
—そして私も
猫が好きです❕出典:kitamurafuki Instagram
いかがだったでしょうか?今回は矢野顕子さんの若い頃から最新の情報まで調べてみました。

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