小山田圭吾さん。現在はコーネリアスの名でソロプロジェクトとして活動しています。だいぶ前に小沢健二さんの事を書きましたが、共に音楽の一時代を担ったと言っても過言ではない方です。
小沢健二さんは東大卒のエリートで、家系も小澤征爾さんを始め、音楽から語学まで幅広く著名人のいる家系でしたが、
小山田圭吾さんも、サラブレッドと言っていい家系の様です。若くして小沢健二さんと共に『渋谷系』と呼ばれる音楽ジャンルを構築した小山田圭吾さん。
息子さんや奥さん。東京オリンピックの時に炎上した原因などを纏めてみました。
小山田圭吾現在と若い頃!両親とも歌手。エスカレーター式の学校へ
小山田圭吾(おやまだ けいご)さんは、1969年1月27日生まれの現在(2026年7月)57歳ですね。
お生まれは、東京都世田谷区下馬です。子供の頃は、近所の駒沢公園でよく遊んでいたそうです。世田谷区下馬と言えば、目黒に近く落ち着いた街並みで、利便性も良い高級住宅地です。
実は小山田圭吾さんのお父さんもミュージシャンです。昭和のムード歌謡と呼ばれ、早くからハワイアン音楽を融合させ、一世を風靡した『和田弘とマヒナスターズ』と言うコーラスバンドのメンバーの三原さと志さん(本名・小山田晃)が、小山田圭吾さんのお父さんです。
母方のおじいさんは、終戦直後から始まったNHKのラジオ『紅白歌試合』(これは非公開の実験的番組)から、『第1回NHK紅白歌合戦』、『第2回NHK紅白歌合戦』で総合司会を担当した元NHKアナウンサーの田辺正晴さんと言う方でした。
その田辺正晴さんの末っ子が、筆者moonの世代だと『よせばいいのに』や『男と女のラブゲーム』等で知られる歌手で俳優としても活躍されている田辺靖雄さんと言う、方の姉にあたる方が小山田圭吾さんの母親です。
義理の叔父(父の妹の夫)に当たる方に、日本版画界の巨匠である中林忠良先生がおられ、はとこには、ハナレグミの永積タカシさんや、イギリスのロックバンドのLushのヴォーカル、ミキ・ベレーニさん、投資家で作家の伊藤穣一さんなどがいらっしゃいます。
親族となるとフリーアナウンサーの本村由紀子さんを始め多くの著名人が名を連ねます。
2006年に父の三原さと志さんが他界され葬儀の後、親族が集まって話をすると、芸術家の岡本太郎さんも遠縁にあたるらしいと聞いたと言います。
小山田圭吾さんの父である三原さと志さんは、小山田圭吾さんが生れた時、岩手県で演奏旅行(リサイタル)の中、電話で小山田圭吾さんの誕生を知りました。
しかし、正確な時期ははっきりしませんが、小山田圭吾さんが幼少の頃に、両親は離婚してしまい、母親に育てられました。
小学校から東京都世田谷区にある私立の和光小学校に入学、中学と高校は東京都町田市にある和光中学校・高等学校までエスカレーター式の学校でした。
小学生時代の話は、2020東京オリンピックの開催に伴って取りざたされて、『いじめ』や『炎上』と繋がって行くので、少し後にお話します。
中学生になると、ギターを弾き始め、小沢健二さんと同級生になります。小山田圭吾さんは高校時代、小沢健二さんとバンド仲間だったと言います。
小沢健二さんは、中学卒業後は別な神奈川県立多摩高等学校へ進学後、卒業して一浪して東京大学文学部に入学します。
一方、小山田圭吾さんは和光高校を卒業すると、絵を描くのが好きだったと言い、大学へは行かず、セツ・モードセミナーという美術系の専門学校に進学します。
セツ・モードセミナーは、ファッション界では山本耀司さんや、川久保玲さん、イラストレーターでは、ペーター佐藤さんや葉祥明さん、写真家のホンマタカシさん、建築では安藤忠雄さんまでジャンルレスで多くの著名人が卒業していますが、残念ながら2017年4月に閉校しています。
当時、セツ・モードセミナーの入学は、会場に行って、抽選箱からくじを引いて”当たり”が出たら入学出来ました。又、専門学校としては、当時でも授業料も安く、小山田圭吾さんはくじで当たり、入学します。
小山田圭吾さんはその頃、渋谷にあったシード・ホールと言う演劇やライブ、展示会、展覧会などに使われるホールのバイトを含め複数のバイトをしながら、複数のバンドでもアシスト的な活動をしていました。
小山田圭吾現在と若い頃!小沢健二と井上由紀子!友人宅に突然電話
そんな中、あるファッション雑誌の編集部で働いている先輩がいて、高校時代からストリートスナップでのモデルとして不定期にバイト感覚で、雑誌に登場していました。
小山田圭吾さんはその都度、渋谷や原宿に呼び出され、写真を撮ってもらって数千円のバイト代をもらい、レコードを購入する足しにしていました。その雑誌が当時の若者の多くが知る『POPEYE』や、『OLIVE』でした。
ある時、小山田圭吾さんが友人の家にいると、突然、見ず知らずの大学生の井上由紀子さんから電話が来ます。事の経緯は下のような状況です。
井上由紀子さんはある時、ポパイを立ち読みしていました。初めて見た時は、当時、長髪だった小山田圭吾さんをみて「おやまだ けいご 17歳」と書いてあり、「おやまだ けいこ」という女性だと思っていたのですが気になっていたのだそうです。
井上由紀子さんは、バンドを組んでいましたが、特に楽器が得意な訳じゃなく、アレンジャーや、アーティスト写真を撮ったりしていたと言います。
その後、同じマガジンハウスの雑誌「オリーブ」でのストリートスナップに登場した「小山田圭吾 18歳」と言うのを見て、中性的なイメージで自分のバンドのフロントマンにぴったりだと思ったそうです。
ポパイで見た時から、バンドに入って欲しいと思っていたのですが、偶然にも井上由紀子さんのバンド仲間に、小山田圭吾さんの連絡先を知っている人がいて、その場で電話をしました。
当時は携帯電話は普及しておらず、家に電話をすると家の人が「圭吾は○○さんの家にいるから、そっちに電話して。」と電話番号を教えてもらい(いい時代です。w)友人の家にいる小山田圭吾さんに繋がりました。
唐突に「バンドに入って!」と言う井上由紀子さんのオファーに小山田圭吾さんは、「いいよ」の二つ返事。
井上さんは雑誌で顔を見て、小山田圭吾さんがドラムを叩いていると言う情報は知っていたようですが、小山田圭吾さんは顔も見ずに、バンドに入る為に次の日、会いに行きます。
井上由紀子さんは、当時ロリポップ・ソニックと言うバンドを率いていた【現在・雑誌nero創刊者・編集長】の井上由紀子さんでした。
井上由紀子さんは、人は見た目で、多くの事を物語っていると言う感覚をお持ちで、それは差別的な意味ではなく、ファッションや顔立ちでその人が、どの方向を見ているか?
なんとなく、気が合うかなどを感じ取れると言います。
そして1987年の秋になると、井上由紀子さんとのバンド、『ロリポップ・ソニック』の活動が始まりました。
1988年、19歳の春に、高校の時のバンド仲間だった小沢健二さんに声を掛け、バンドは5人体制のバンドとなります。
甘いマスクの中性的な『可愛らしい』男の子が二人がいるバンドで女性ファンが多くいました。
1989年になるとレコード会社の方から、デビューの話が出るのですが、『ロリポップ・ソニック』だとインディーズ感が強すぎるからと言う理由で、『フリッパーズ・ギター』と改名します。
バンド名にこだわりは無かったと言いますが小山田圭吾さんは、”F”で始まるバンド名が文字にした時かっこいいと”F”の付くバンド名をみんなで考えたのだそうです。
1989年8月25日に元々、実験的なマニアックな音楽が好きな小山田圭吾さんでしたが、自分たちの好きなものを詰め込んだ全詞英語のファーストアルバム『three cheers for our side~海へ行くつもりじゃなかった』をリリースします。当初は全くプロになるつもりなどなかったようです。
当初のフリッパーズ・ギターのメンバーは、(敬称略)
小山田圭吾(ボーカル・ギター)
井上由紀子(キーボード)
吉田秀作(ベース)
荒川康伸(ドラムス)
小沢健二(ギター・ボーカル)でした。
しかし、その8月の初めに、小山田圭吾さんは友人の車に乗っていて、追突され、骨盤骨折、全治6ヶ月と言う重傷で、デビューが遅れ、11月から小沢健二さんと2人体制で活動が始まります。
セカンドシングル『恋とマシンガン』は、10万枚を超える売り上げるスマッシュヒットに!
その後、フリッパーズ・ギターとして、3枚目のアルバム『DOCTOR HEAD’S WORLD TOWER -ヘッド博士の世界塔-』を1991年7月10日に出し、ツアーのチケットも売りはじめますが、ツアー直前に突然、解散を発表します。
のちのインタビューで小山田圭吾さんは、お互いに「やめよっか。」みたいな感じだと言います。周りの人達は大わらわで、新聞にも『無責任な若者』という見出しが躍ったと言います。
実際のフリッパーズ・ギターは1989年11月頃から、1991年の7月くらいまでの実質1年半くらいの活動でしたが、その間に『渋谷系』と言う新たな音楽ジャンルを生み出しました。
『渋谷系』の詳細は→小沢健二深津絵里?嫁と出会う前の『ラブリー』は彼女にささげた曲?
そして、何より今も色あせない楽曲は、日本のみではなく、海外からも高い評価を得ている事です。
小山田圭吾現在と若い頃!オリンピックの炎上騒ぎとその時代背景。
さて、フリッパーズ・ギターが解散した後は、小山田圭吾さんは、1993年よりソロユニットCornelius(コーネリアス)として活動します。
そして、ファン以外の人の頭から『小山田圭吾』と言う名前が少し記憶が薄らいだ頃、東京オリンピック2020の名と共に再び耳にすることになります。
小山田圭吾さんは、東京オリンピックの開会式で楽曲製作を担当するというニュースでした。そんな大役を受け入れた小山田圭吾さんですが、思わぬところから亀裂が入ります。
それは30年以上前に受けた複数の雑誌のインタビュー記事の内容でした。それは、小山田圭吾さんが小学生の頃まで、更に遡ります。
小学2年生の頃から始まった和光学園の小学校時代からのイジメでした。小山田圭吾さんは「ロッキン・オン・ジャパン」(1994年1月号)の中で、
「あとやっぱりうちはいじめがほんとすごかったなあ」
●でも、いじめた方だって言ったじゃん。
「うん。いじめてた。けっこう今考えるとほんとすっごいヒドいことをしてたわ。この場を借りてお詫びします(笑)。だって、けっこうほんとキツいことしてたよ」
●やっちゃいけないことを。
「うん。もう人の道に反してること。だってもうほんとに全裸にしてグルグルに紐を巻いてオナニーさしてさ。ウンコを喰わしたりさ。ウンコ喰わした上にバックドロップしたりさ」
●(大笑)いや、こないだカエルの死体云々っつってたけど『こんなもんじゃねぇだろうなあ』と俺は思ってたよ。
「だけど僕が直接やるわけじゃないんだよ。僕はアイディアを提供するだけで(笑)」
●アイディア提供して横で見てて、冷や汗かいて興奮だけ味わってるという?(笑)。
「そうそうそう!「こうやったら面白いんじゃないの?」って(笑)」
●いちばんタチが悪いじゃん。
「うん。今考えるとほんとにヒドいわ」出典:ロッキンオン・ジャパン(1994年1月号)
と言うような記事や、転校生の障害のあった沢田(仮名)君に向けたイジメの内容なども雑誌『クイック・ジャパン』vol. 3号(1995年8月)の中で語られていました。
「段ボール箱とかがあって、そん中に沢田を入れて、全部グルグルにガムテープで縛って、空気穴みたいなの開けて(笑)、『おい、沢田、大丈夫か?』とか言うと、『ダイジョブ…』とか言ってんの(笑)そこに黒板消しとかで、『毒ガス攻撃だ!』ってパタパタやって、しばらく放っといたりして、時間経ってくると、何にも反応しなくなったりとかして、『ヤバいね』『どうしようか』とか言って、『じゃ、ここでガムテープだけ外して、部屋の側から見ていよう』って外して見てたら、いきなりバリバリ出てきて、何て言ったのかな…?何かすごく面白いこと言ったんですよ。……超ワケ分かんない、『おかあさ〜ん』とかなんか、そんなこと言ったんですよ(笑)それでみんな大爆笑とかしたりして。」
出典:クイック・ジャパンvol. 3号
そもそも、和光学園は、『インクルーシブ』(包括的な障害や国籍で排除しない)と言うようなビジョンを掲げていました。
同じクラスに障害のある方も、健常者の方も一緒に授業を受けていると言う事です。一見素晴らしいと思いますが、理想の状況への道程は容易いものではないでしょう。
実は私、moonも、特別支援のクラスが多い小学校へ行っていましたが、当時は多少のイジメはあったようにも思います。(小山田圭吾さんとは3~4歳違いです。)
しかし、子供たちも同じ小学校へ行き、30年くらい経過した20年前には、差別やイジメは、無くなっているようでした。
後に小山田圭吾さんは、公式のサイトの中で
『ROCKIN’ON JAPAN (1994年1月号)』の誌面にて見出しとして記載され、この度多く報道されていた「同級生に排泄物を食べさせた、自慰行為をさせた」といった内容については、私が行わせたり、示唆や強要をしたといった事実は一切ありません。
「排泄物を食べさせた」ということについては、小学校の帰り道に、クラスメイトの一人がふざけて道端の犬の糞を食べられると言い出し、拾って口に入れてすぐに吐き出したという出来事があり、彼本人も含めその場にいた皆で笑っていたという話が事実です。
「自慰行為をさせた」という部分については、中学校の修学旅行の際、ある先輩が、私のクラスメイトの男子に対し、自慰行為をしろと言っている場面に居合わせ、限度を超えた状況に自分は引いてしまったということが事実です。出典:https://www.cornelius-sound.com/index_20210917.html
小沢健二さんの学生時代の万引き自慢についてもそうですが、どうも、その世代の裕福な家庭で育った、どちらかと言うと優等生の方は、何か悪びれて見せようとする傾向を感じます。
それと同時に、雑誌の内容は面白おかしくされていて、実際の出来事とはギャップがあったようです。
肩を持つわけではありませんが、訊かれるままに、ノリで喋ってしまったと言う風にお話されていて、何よりも、その時代的にマイノリティの方に対して、今のような意識が働かない時期のインタビューだったと思います。
例えば、テレビでもゲイの人を揶揄して笑いを取ったり、黒人の部族の人達を誇張してモノマネしたり、色々な物事の意識の向け方が今の状況とは全く違って感じられます。
小山田圭吾さんは、謝罪し、東京オリンピック2020の音楽担当を辞任し、その後Fantastic Plastic Machine(ファンタスティック・プラスティック・マシーン)こと、田中知之さんに変わります。
しかし、オリンピックと言う世界的なイベントだったこともあり、ネットを問わず、長い間、炎上しておりました。
筆者は、私見としてそんな大昔の小学生の頃の行いまで、批判される事に違和感を感じていました。
擁護ではないと言いながら、擁護っぽくなってしまいますが、小山田圭吾さんの事に関わらず、一度も間違いを起こしてはいけない、『一発アウト』的な息苦しさを、多くの人のストレスで作っているようでいただけません。
つまり、小山田圭吾さんの問題が自分に降りかかることも無いのに、正義の味方的に圧倒的に正しい剣を振りかざし、怒りに身を任せネガティブな投稿する事に疑問を感じます。
その時代の背景は、エロ、グロの渦巻くサブカルチャーが流行し、悪趣味なスプラッタビデオ作品などが多く出回り、微塵の規制もない時代でした。(今のネット社会の状況よりははるかに良いとは思いますが)
何かのせいにするのとは、違いますが、そういうノリの中でイジメの主犯の横で「やれ!やれ!」と言っている取り巻きの一人だったのだろうと思います。
恐らく、本人も小学生の頃や、20年以上前の雑誌に取り上げられたことなど、全く忘れていたのではないでしょうか?そもそも、その事を取り上げられるとは思いもよらなかったのかと思います。
小山田圭吾現在と若い頃!嫁や息子・米呂と、現在の世界的な活動!
先ほども書いたように、小山田圭吾さんのソロプロジェクトの名前をコーネリアス(Cornelius)と言いますが、これは、小山田圭吾さんが好きな映画『猿の惑星』が第1作1968年4月13日に日本で公開された映画のキャラクターです。
知的な学者キャラクターのチンパンジーの名前コーネリアスを流用しています。
小山田圭吾さんは、2000年に結婚しています。お相手は、歌手で元『L⇔R』のメンバーだった(みねかわ たかこ)さん、1969年6月3日生まれの方です。
小山田圭吾さんとは、1990年に、フリッパーズ・ギターが監修したのオムニバスアルバム『FAB GEAR』でカヒミ・カリィさんと嶺川 貴子さんの『Fancy Face Groovy Name』と言うユニットで参加しており、その頃をきっかけに、交際に発展したものと思われます。
出会いからおよそ10年後、2000年に結婚しその年の11月2日に長男の小山田米呂(おやまだまいろ)さんが誕生しています。
ちょっと変わった『マイロ』と言う名前は先述の『新・猿の惑星』(1971年7月31日日本公開)に登場するチンパンジーのコーネリアスとジーラとの間に生まれた子供(のちにシーザーと改名)の当初の名前が『マイロ』です。
コーネリアスの息子だから『米呂‐マイロ‐』と言う事のようです。
息子の小山田米呂さんは全員が中学生のバンド『Sure Shot』のギタリストとして『VOGUE JAPAN』の2015年4月21日付けの記事で取り上げられていましたが、
先日行われた2026フジロック(2026年7月24日~26日開催)に登場した『CHAPPO』と言うユニットに、アシストでギタリストして参加しています。
CHAPPOは細野悠太& 福原音さんのユニットで、細野悠太さんは、元YMOの細野晴臣のお孫さんです。
実は私と近しい人物が、東北の片田舎で中古レコード店で、偶然、小山田米呂さんと出会いました。
アメリカに留学していた彼は、日本の東北の地に用事があり数週間、滞在していたそうで、その後、いろんな話をしてくれたそうです。
小山田米呂さんは父親と同じ和光学園の高校を卒業すると、アメリカに留学していたと言います。
ちょうど父が、バッシングにあっていた後の事で、自身にも心無い書き込みなどがあり、辛い時期だったのかもしれません。その時はアメリカの生活の話などをしたと言います。
小山田圭吾さんが、あの時代の中、高い評価を受け、当時の若者から支持を受けていたのとは、形は違っているかもしれませんが
現在、小山田米呂さんは、音楽活動の傍ら、マニアックな音楽専門雑誌『ele-king-エレ キング-』等でコアな音楽のコラムなどを手掛けたり、ミュージックビデオに出演したり、モデルとして活躍しています。
小山田圭吾さんは、古くからの友人、さくらももこさんとの交流で、ちびまる子ちゃんのテーマソングの作曲や、2023年に亡くなられた坂本龍一さんのラジオ番組のピンチヒッターを務めたり、
パリで開催された高田賢三さんのファッションショーの楽曲や、田島貴男さんや青葉市子さんとのライブなどでご一緒されていたり、最近ではショーン・オノ・レノンとのコラボレーションがニューヨークで話題になったりしており、
定期的にライブやアルバムを手掛けていらっしゃいます。実験的な要素とトライを重ね、炎上騒ぎをもってしても、多くの人に作品の評価を受けています。
いかがだったでしょうか?今回は小山田圭吾さんの東京オリンピック2020の時の炎上騒ぎや、ご家族や息子、米呂さんの活動などにスポットを当ててみました。

コメント