山崎ハコさん、久々にお名前をお見掛けしました。私moonが、15~6歳の頃、活躍されていたイメージと、当時、中島みゆきさん、五輪真弓さん、山崎ハコさんは『暗い』と言うイメージが付きまといます。
実際の楽曲も中島みゆきさんの「うらみます」や山崎ハコさんの「呪い」など、五輪真弓さんも、「合鍵」など近寄りがたい雰囲気を醸し出してました。
あれからもうずいぶん経ちましたが、何故か似つかわしくない『ちびまる子ちゃん』のキーワードと共に出てくる山崎ハコさんの世界。
ちょっと、奥が深そうですが、ご一緒にCHECK Now!
山崎ハコ若い頃と現在!出身や本名。おばあちゃん子だった幼少期
山崎 ハコ (やまさき はこ)さん、ついつい『やまざき』と発音しがちな私ですが、正確には『やまさき』と言うご苗字です。本名は山崎初子(やまさき はつこ)さんと言います。
そう、『ハコ』さんは、子供の頃の愛称、ハコをそのまま芸名にしました。
1957年〈昭和32年〉5月18日、大分県日田市のご出身で、血液型はAB型と言う事です。戦後10年以上程経過して、人々の暮らしも落ち着いた頃でしょう。
実家は大分県の城下町の風情を残すのどかな町でお父さんは郵便局員の傍ら、田んぼも所有する兼業農家でした。
お母さんが、近所の会社で事務を熟していて、若い頃は不良で音楽をやっていたと言う5歳年上のお兄さんがお一人おります。田んぼは、専らお祖父さんとお祖母さんが手をかけていた様です。
山崎ハコさんは、ご両親の思い出よりも、お祖母ちゃんとの思い出が多いそうです。すごいおばあちゃん子で、お祖母ちゃんの事は、誰より尊敬していたと言います。
山崎ハコさんが10歳の頃にお母さんは小料理屋を始めたので、家ではお兄さんとお祖母さんと3人で過ごす事が多くなります。
当時は、保守的な地域で長男が強く、山崎ハコさんのお兄さんは、妹を奴隷のように扱っていたとお話されています。
山崎ハコさんは兄が、自分を奴隷の様に扱う事が悔しくて、祖母に相談すると、「今は、我慢して丸く収めなさい。あんた、勝って嬉しいか?」と言うような事を言われたのだそうです。
その時は、モヤモヤした気持ちでしたが、今、我慢するとお祖母ちゃんに褒められると思い、悔しい想いを飲み込んだのだそうです。
とても懐の深いお祖母さんの様でしたが、山崎ハコさんの家で毎年、なんでもない日にお祖母さんが、赤飯を焚いていたそうです。
山崎ハコさんが子供の頃は、不思議に感じて、「なんで今日お赤飯なの?」と聞いても教えてくれませんでした。
小学6年生のある日、お祖母さんが「あんたも大きくなったから・・・」とその理由を話してくれました。
山崎ハコさんが生れる10年前、1947年に山崎ハコさんの家は大火事にあって、焼け出されたの事があったのだそうです。
なんと赤飯を炊いていたのはその日だと言います。びっくりした山崎ハコさんは縁起の良い日に使われるお赤飯を何故そんな日に焚くの?と聞きました。
すると、お祖母さんはゆっくりと、振り返ります。「あの頃は、戦後まもなく、そうでなくてもみんな貧しい生活をしていて、それなのに、更に家は焼けてしまって・・・。」
住む場所を失った山崎ハコさんの一家は、近くの神社に寝泊まりしているような暮らし、食うや食わずの中、栄養失調で親戚も一人亡くなったそうで、大変辛かったそうなんです。
しかし、なんとかみんなで乗り切り、赤飯を食べる事が出来る『今』に感謝をしてるのだと言うお話を聞き、山崎ハコさんは、改めてお祖母ちゃんの深さに気付かされます。
災難にあわないような戒めと、火事を風化させないように、お祖母ちゃんは毎年その嫌なことがあった日に赤飯を焚いて、今の暮らしに感謝していたのです。
山崎ハコ若い頃と現在!大分県から、横浜に転居した理由とは?
小料理屋を始めた母の手伝いをすることもあり、お客さんにおしぼりを配ったりする傍ら、お店に流れる森進一さんや藤圭子さんが歌う演歌や、山口百恵さん等のアイドルが歌う歌謡曲、井上陽水さんを代表とする当時のフォークソングを熱心に聞き入ります。
又、お兄さんが、エリック・クラプトンのいたクリームや、ビートルズなどを好んで聞いていたそうで、山崎ハコさんは、兄のいない隙に、こっそりと兄のギターで、雑誌や教科書に載っている楽譜を見て、エレキギターを弾いていたのだそうです。
幼少の頃は、妹を奴隷のように扱うと山崎ハコさんがいうお兄さんでしたが、ロックに傾倒して、兄はグループサウンズのゴールデン・カップスの「長い髪の少女」という曲が好きでした。
妹の山崎ハコさんにも、お前は「長い髪の女になれ!」と要求しました。それをきっかけとして、山崎ハコさんは髪を伸ばし始めた事も、後のフォークソングへの足掛かりになったとお兄さんの影響をお話されています。
しかし、後に母親の経営する小料理屋がうまく行かなくなり、田舎で人目も気になり、母は心機一転、全てをやり直したいと、既に横浜で地下鉄工事のアルバイトをしていた山崎ハコさんの兄の元へ両親が身を寄せます。夜逃げのような引っ越しだったそうです。
山崎ハコさんは、中学校を卒業するまで、お祖母ちゃんと大分で暮らし、その後、横浜の両親と暮らし始めます。
その頃の山崎ハコさんは、学校の先生になりたいと思っていたと言いますが、「女の子の為に先祖からの田畑を売って、大学へ送る訳にはいかん!教師はやめてくれ。」と父に言われたのだそうです。
横浜に転居した山崎ハコさんが通い始めたのは、横浜学園高等学校です。中学生の頃から何となく音楽に興味を持っていました。
高校に入学してから友人と歌のコンテストに出る話が持ち上がり、この頃から初めて山崎ハコさんは自分で曲を作り始めます。
高校在学中の1974年11月、高校2年生のときに「ジョイナス・フォーク・コンペティション」に出場して優勝した事をきっかけに高校3年生になったばかりの4月に音楽事務所に所属する事になります。
山崎ハコ若い頃と現在!ちびまる子ちゃんと楽曲『呪い』の関係は?
高校3年生になったばかりの山崎ハコさんは、デビューのきっかけを掴み、数年前まで吉田拓郎さんが所属していた未だインディーズだったエリックレコードからデビューアルバムが発売される事になりました。
そんな風にフォークソングの色合いの強いレコード会社でした。
既に多くの楽曲を書き留めていた為、過去に作った曲を選りすぐり、アルバムタイトルは『飛・び・ま・す』1975年10月1日にリリースされています。
タイトルチューンの様に『飛びます』と言う楽曲も収められてますが、アルバム名と曲名が同じになる事に納得がゆかずに、文字の間に『・』を入れる案を山崎ハコさんは、提案して受け入れられたと言う事でした。
その時、18歳でした。感性が研ぎ澄まされていたのだと思います。歌詞の世界は、「飛びます」においても、暗く受け取れば、『死』へ向けたようにも、逆に『信じる為に、今飛び始めるのです』と言う詞には、むしろ明るい未来を感じる事が出来ます。
情熱的な部分も、静かな部分も声だけで、心を揺さぶる事が出来る唯一無二の存在として評価されます。
揺さぶられると言うのは、感動的な部分だけでなく、何かしらの心の傷を持った人に対して、明るい曲では慰められない、徹底的に落ち込んでから、立ち上がる為の準備になるのだと思います。
エリックレコードは、ある戦略として、暗いキャラクターを作ると言う方向性に向かい、山崎ハコさんは、『しゃべらない』『笑わない』『物事に執着しない』と言うように意識したのでした。
本来の山崎ハコさんは、普通の女子高生だったようです。
冒頭にも出てきた『呪い』という、もはや題名だけで怖がられそうな楽曲ですが、この曲は、丑の刻参りをモチーフにしていて、『釘』や『わらの人形』、『血』なんて歌詞が出てきます。
この曲は2002年7月7日放送の「まる子 フォークコンサートへ行く」の巻(FNS26時間テレビの企画の一環)として放送されておりました。
脚本は2024年に亡くなられた声優のTARAKOさんが担当されていると言う事です。
ちびまる子ちゃん、すなわち、さくらももこさんが子供の頃、始めてフォークのコンサートに行った話をモチーフにしているものかと考えられ、
結構、怖かったと言う経験なのか?とも思ったのですが、実はさくらももこさんが、山崎ハコさんの大ファンで、アニメの中でも、山崎ハコさんが、そのまま本人役の声優として登場しています。
その他にも 1981年1月2日放映の特番のドラえもんで「精霊よびだしうでわ」と言う道具のお話の中で「夢」と言う作詞・作曲・歌全て山崎ハコさんの声が流れるのですが、この回の為に作られたと曲だと言う事です。
残念ながら絶版のモノ以外ソフト化されておらず、入手困難となっているようです。
その他、ホラー映画『地獄』で起用された『心だけ愛して』や『きょうだい心中』等の情念のこもった歌。
五木寛之さんの原作の映画『青春の門』で、五木寛之さんが、九州弁で作詞をした『織江の唄』は、一般の公募で曲を募集を予定していましたが、
「これは、自分が歌わないと!」と自分の曲を持ち込んで、『織江の唄』は大ヒットとなりました。
山崎ハコ若い頃と現在!印税を知らずにいた。夫との出会いと別れ
しかし、その後、山崎ハコさんが所属していた事務所の社長が、交通事故に遭い、瀕死の重傷を負い、事務所は倒産してしまいます。
1980年代の山崎ハコさんは、ヒット曲もなく、巷では、『根暗 ネクラ 根明 ネアカ』なんて言葉が面白がられ、その中で、『暗い』代表の様にネタになっていたりしました。
30歳の頃には、劇団三〇〇の渡辺えりさんと知り合い、俳優さんとも交流が出来てはいましたが、実際の生活は、
中華料理屋でアルバイトをしたり、24時間営業のファミレスで夜を過ごしたりと、半ば、ホームレスのような生活の中をされていたそうです。
中華料理店でアルバイトをしながら、ふと、有線放送から自分の歌が流れてきて、「自分はまだ歌いたいのか?」と自問自答し、歌い続ける事を決意しました。
18歳の高校生の時に見出され、突っ走ってきた山崎ハコさんですが、そんな生活を劇団で交流のできた原田芳雄さんに相談行った時に、印税の話をされたそうです。
原田は「印税が入っているだろう。それでしばらくしのぐしかない」という。だが、山崎は「印税ってなんですか?」と聞き返した。事態を理解した原田。激怒した。「二十数年、1銭も自分に入っていなかったのか!」
出典:産経.com 2024年11月22日付
詳細の経緯は解りませんが、その後、原田芳雄さんが、山崎ハコさんの仕事復帰のサポートに尽力してくださったそうです。
その後、長い間、独身を貫いていましたが、2001年1月1日に44歳の時に、長く一緒に仕事を共にしたギタリストの安田裕美さんと結婚します。
安田裕美さんは、若い頃から才能を発揮し、ギタリストとして、小室等さんが率いる、石川鷹彦さんや吉田拓郎さんの元妻の四角佳子さんも所属していた『六文銭』のメンバーだった事もあります。
古くはフォーリーブスから中島みゆきさん、中村雅俊さん、海援隊、小椋佳さん、井上陽水さんの楽曲のアレンジャーとして名を馳せ、井上陽水さんのステージではギターリストとして活躍しておられた方です。
長年、一人きりで弾き語りを続けていた山崎ハコさんは、演奏は夫で、歌は自分と言うスタイルで活動を続け、大きな支えにもなっておられたようです。
しかし、安田裕美さんは2020年(令和2年)7月6日に72歳で大腸がんでお亡くなりになってしまいます。
以来、山崎ハコさんの喪失感は、相当なもので、2年間くらい喪失感の中で暮らしていたと言います。
「安田さんが生きていたら、私の声が出なくなっても、彼がギターを弾けなくなっても、ずっと2人でライブハウスを回り続けるのが理想だった。安田さんがいなくなってすべてが変わった」
出典:産経.com 2024年11月22日付
しかし、七転び八起きとばかりに、下りたと思っていた幕の隙間を覗き込むように、2023年頃からステージに上がる山崎ハコさんの姿がありました。
実は、山崎ハコさん、先述のお祖母さんの言葉を世に送りたいと言う気持ちで歌っていたと言う事もあります。
『呪い』にしても、実は相手を恨んでいるうちに、やがて、いつの間にか、恨む自分に釘を打っている事に気付かされる事になります。
表面だけでは、捉えきれない深い言葉が、今も多くの人を勇気づけています。
いかがだったでしょうか?今回はデビュー50周年を過ぎ、現在もライブやアルバム制作に余念のない山崎ハコさんのお話でした。


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