八神純子さんと言えば、筆者moonのようなアラカン世代では、小学生、中学生の頃、大ヒットした『みずいろの雨』の伸びの良い美しい声が印象に残っているのではないでしょうか?
大人の曲と言うイメージがありましたが、そこは昭和の”家族でテレビを見る”と言う定番の団らんの中で、親しんでいたと言う事が多かったのかと思います。
さて、今回はそんな八神純子さんが、まだフォークソングとJ-POP、シティポップなんて言い方と歌謡曲のはざまにあった時代にどんな活動をされていたのか?
大ヒットとなった『みずいろの雨』が生まれた時の心境や
又、『家系図』と言うキーワードが出てくる事から、ご家族の事など垣間見てみたいと思います。
八神純子現在!年齢や身長。幼少期。実家は名古屋の中心部の豪邸
八神 純子(やがみ じゅんこ)さん、本名も同じです。1958年(昭和33年)1月5日生まれですので、(2026年10月現在)68歳です。
身長は148㎝、血液型はA型です。
ご出身は、名古屋市千種(ちくさ)区で生まれます。
八神製作所と言う医療材料、医療設備やトレーニングマシンやメディカルチェック機器の販売やレンタルを行う会社の第4代会長となる八神良三さんがお父さんで、八神純子さんは長女として生まれました。
4人きょうだいの長女で1歳年下の弟、6歳年下の妹、8歳年下の妹がいました。どちらかの妹さんは現在介護のお仕事をされているそうです。
ご実家は、3000坪の敷地の豪邸だったと言います。敷地内に祖父母が住む本宅と、八神純子さんの家族が住む新宅、それに社員寮が建っていたと言いますから、大きなお屋敷だったようです。
100年以上前から続く家系で、家系図と言うキーワードも現れるのかと思います。
3歳の頃からピアノを習い、家では歌を歌うのが大好きな子供でしたが、小学校の中では内気で目立たない子供でした。
その頃人気を博したザ・ピーナッツのファンで、いとこと、ハモりの練習をしていました。お母さんが好きで、傍に居たいから、母の横で料理を覚えたと言う事です。
中学生の頃には弟のお弁当を作ってあげる事もあったようです。
母は、洋楽好きで、その影響もあって幼い時からニール・セダカやカーペンターズ、シャーリー・バッシーの曲をよく聞いており、家で歌っている事もあったようです。
学区などから名古屋市立高見小学校(たかみしょうがっこう)と言う小学校の様で、小学校2年生の頃には、日本舞踊も習い始めます。
「3歳からピアノ、小学生から日本舞踊を習っていました。父は長唄をやっていて、母は洋楽が、祖母は民謡が好きでした。私は家でもいつも歌っていましたが、『やめなさい』と言われたことは一度もありませんでした」
出典:NIKKEI STYLE 2017年1月18日付
小学校では不器用で自分の事が好きでなかったとインタビューでお話されていますが、実は日本舞踊は、本格的だったようで、
小学校の卒業アルバムにも「日本舞踊のお師匠さんになりたい」と書いていて、それを書いた時の自分の気持ちもよく覚えています。歌が歌えたらいいなとは思っていたけれど、周囲からは 私は向いてないと思われるだろうなって。
出典:Junko Yagami official site
中学校は、名古屋市立若水中学校”(わかみずちゅうがっこう)かもしれませんが、正式にはなっていません。
その頃は、少しぽっちゃりしていたようで、憧れていた男子から「もう少し痩せていれば」と言うような事を言われた事にショックを受けた事があったと言います。
その頃、ピアノの和音をマスターして、夢中でピアノの練習をしていました。
八神純子現在!高校の時の大会で偶然の出会いから、世界も視野に!
八神純子さんは、愛知淑徳高等学校に入学すると、フォークギターのサークルを作り、活動を始めます。
無口でどちらかと言うと内気な少女でしたが、音楽に関しては別人のようになり、よその学校の文化祭に出向き歌ったりもしていたそうです。
ヤマハのボーカルタレントスクールにも通い始め、作詞作曲を始めたのもこの時期です。そんな八神純子さんが1974年の16歳のときに初めて作詞・作曲した「雨の日のひとりごと」と言う曲で、
同じ年の10月に開催されたヤマハの通称・POPCON(ポプコン)『第8回ヤマハポピュラーソングコンテスト』に出場すると優秀曲賞に入賞し、一緒にエントリーしていた曲も賞をもらうと言う快挙でした。
しかし、高校は、中高の一貫校で女子高でした。そして芸能活動を禁止していたと言う事で、学校では、コンクールに出ると、職員室に呼び出されて注意を受けていたと言います。
その後「第5回世界歌謡祭」でも本選にノミネートされております。そして同じ年1974年の12月に「雨の日のひとりごと」でデビューします。
その頃は、インタビューやテレビで喋ったりすることに苦手意識を持っていたとインタビューでお話されていましたが、作詞作曲は精力的に取り組んでいました。
次の年も、第9回のPOPCONに出場し、最優秀曲賞を受賞します。この大会では、松崎しげるさんや中島みゆきさん等の強豪も本選に出場しております。
同じ流れで「第6回世界歌謡祭」にも出場し、ここで、大きく八神純子さんを変える事になったのは偶然たまたま出会ったエントリーナンバーで隣り合わせたのがチリのアーティストの方でした。
その人に「チリでイベントがあるから来ない?」と誘われたと言います。八神純子さんは、すぐに世界へ挑戦しようと思いました。
チリの音楽祭で八神純子さんの作詞作曲の『もう忘れましょう』という曲で、着物で歌い6位に入賞します。
1976年2月に参加したその音楽イベントが「ビニャ・デル・マール音楽祭」(通称・チリ国際音楽祭)でした。
そのチリに行った時に、ラテン音楽の楽しさを満喫して、ここに住み続けたいと思う程楽しく、又、大きな影響を受けた様です。
この時まだ高校3年生で、卒業後、シンガーソングライターとして本格的に活動を始めます。
およそ1年くらいの間にラジオ番組のパーソナリティのお仕事を開始しており、二十歳の誕生日1978年1月5日にシングル『思い出は美しすぎて』でプロ歌手として本格デビューとなりました。
思い出は美しすぎて・・・恋人との思い出を回想する曲のようですが、歌詞よりも曲がボサノバ調でしっとりしたようですが、けして暗くならないですね。
恐らくチリでの”美しい思い出”とラテン音楽に魅了された八神純子さんの中で化学反応を起こさせた事で、日本のミュージックシーンに足跡を刻むことになったのでした。
この曲はオリコン最高位25位、売上12万枚のヒットとなり、その後発売された同じタイトルのアルバムはオリコンで5位にまで上り詰めました。
八神純子現在!歩道橋で思い浮かんだ『みずいろの雨』が大ヒット!
アルバム『思い出は美しすぎて』からシングルチューンされた曲は、意外にも、八神純子さんご自身の曲ではなく、同じPOPCONに1977年にグランプリを取った小野香代子さんの楽曲「さよならの言葉」のカバーでした。
POPCONのグランプリを獲得すれば、通常、華々しいメジャーデビューが待っているのですが、小野香代子さんは、メジャーデビューせずにアメリカに留学してしまった為、
この「さよならの言葉」と言う曲が宙に浮いた形となり、八神純子さんに歌ってもらう事になったのだそうです。
制作側は、POPCONのグランプリ受賞曲なら売れるだろうと考えていたようですが、八神純子さんはしっくりゆかず、実際に売り上げは1万9千枚と低迷しました。
20歳の八神純子さんは、レコードの売り上げに少なからずプレッシャーと責任を感じていたのだと思いますが、歌手を引退して作詞家や作曲家として生きて行こうと考えました。
そんな風に思い、何気なく歩いていた原宿のケヤキ並木を臨む神宮前五丁目歩道橋の上で、チリの旅行の事を思い出しながら、ふとサンバのリズムと共に、曲が思い浮かびます。
その時のこの曲は、歌詞は三浦徳子さんのもので、当時の歌姫として活躍されていた岩崎宏美さんに歌ってもらう事を想定していたのだそうですが、八神純子さんご自身で歌ってみたら、非常に評判が良かったそうです。
そう、その曲が八神純子さんにとって、5枚目のシングル『みずいろの雨』でした。売上60万枚オリコン最高位2位に上り詰めた大ヒット曲となりました。
この曲も、もしかしたら、チリで過ごした楽しかった時間の影響があるのかもしれませんね。
その後も、『ポーラ・スター』『パープルタウン』など立て続けにヒット曲を連発し、シティポップと呼ばれる部門の大きな役割を担ったと言えるでしょう。
この頃の事を、インタビューで、下積み生活が無かったと言うようにお話されて回顧されてました。
八神純子現在!夫は英国人、娘や息子がいる。震災を機に再び日本で
さて、そんな八神純子さん、プライベートでは1986年2月7日、28歳の時に、2歳上のイギリス人の音楽プロデューサーのジョン・スタンレー (John Stanley)さんと結婚しております。
このジョン・スタンレーさんは、空手に興味を持ったことから日本に興味を持ったと言う方で、八神純子さんと結婚後、40歳の時に弁護士の学校に入学し、猛勉強をして弁護士へと転身されています。
出会いは、偶然が重なります。日本に休暇で訪れていたジョン・スタンレーさんが、友人に誘われ、八神純子さんの野外コンサートを観に行き、その後、たまたま友人の結婚式で一緒になり、
ジョン・スタンレーさんがロンドンでのレコーディングに八神純子さんを誘った事から、お付き合いが始まりました。
ハワイで結婚式を挙げ、秋には渡米し、カリフォルニア州シミバレーのウッドランチに住居を移します。
親には、結婚してカルフォルニアに住むことを、事後報告で伝えたとお話されていてますが、八神純子さんの父は「純子はいつも、事後報告だなぁ。」と苦笑いしていたそうです。
1989年に長女を、1993年に長男を出産した八神純子さんにとって、子供が親の為に、やりたい事をやれなかったら、「親としても後悔するかも。」と親としての立場からもお話されています。
ジョン・スタンレーさんは、八神純子さんにとって自分には持っていないものを持っていて、凄い方だと尊敬してるそうです。又、音楽の中ではリズム感が素晴らしいのだとか。
結婚後は活動の拠点をロサンゼルスに移し、日本での音楽活動はコンサートのたびに来日して2000年までは、毎年帰国してクリスマスディナーショーやコンサートなどを中心に精力的に活動を続けていました。
八神純子さんにとって、大きな、そして心が折れかけてしまう出来事が2つ(正確には3つ)ありました。最初の衝撃は2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が発生した事です。巷で言う『9・11事件』です。
自身の住む国で起こった凶悪なテロ事件に八神純子さんは大きなショックを受けました。そして事務所が、「(八神純子さんが)飛行機に乗ることが怖くなってしまったみたいです。」と伝えました。
しかも、そのテロ事件の1週間前、当時住んでいたカリフォルニアで友人の家族3人が自宅で知人に射殺されるという身近で起こった悲惨な銃撃事件があり、
どうしようもない恐怖心がわき、その当時のアメリカ国内の混沌とした社会情勢から、子供たちを置いてどこにも行けない精神状態に追い込まれます。
その為に、毎年、行っていた日本でのコンサートの予定も立たなくなってしまい、2000年末に行われたクリスマスコンサートを最後に毎年の日本でのコンサート活動を中断してしまします。
子育ての事もあったのでしょうが、およそ10年コンサートのバックコーラスなどの単発のお仕事を受けた事はありましたが、表立っての活動を行っていませんでした。
2010年に娘さんは、21歳。息子さんも18歳になる事を機に、日本でのお仕事の話が持ち上がります。
その矢先に、大きな2つ目の悲しい出来事が起こります。東北の地を襲った2011年3月11日の東日本大震災でした。
話は前後しますが、実は八神純子さんは、1994年1月17日に、米国ロサンゼルスでノースリッジ地震と言う大きな地震を体験します。
震度(日本の測量基準)では5~6くらいと言われていますが、高速道路の高架橋が落ち大きく壊れたビルなどが日本でも大きく報道されます。
ちょうど一年後の1995年1月17日(ノースリッジ地震と同じ日でした。)の阪神・淡路大震災のニュースをアメリカで見て、日本で被災した人の為に歌いたいと思い、関西の友人に話したところ、
「今は、歌ってる場合じゃない!」と言われ、その言葉のままに現地で歌う事を断念してしまったと言う過去があり、その事を心のどこかで後悔していたのだそうです。
今、東北で歌いたい、傷ついた人たちの心に歌を届けたいという思いから、又、「これ以上、私の世界を狭くしたくない。」と言うご自身の決意の様なものがあったそうです。
インタビューでは
「9.11の時とは逆の心境になりました。周りからは『放射能が危険だ』と止められましたが震災後すぐに帰国しました。9.11で閉まったドアが3.11で開いたのです。心配するだけで何も挑戦しない人生はやめよう。東北に行って被災者の人たちと今を生きよう、と思えたんです」
出典:NIKKEI STYLE 2017年1月18日付
岩手や宮城の沿岸部などの町で、ライブと炊き出しを行います。
筆者moonも経験があるのですが、東北の被災地を訪れ、ボランティア活動を行うと、元気を届けに行くのですが、逆に元気をもらって帰ってくる自分に気が付きます。
渋谷での凱旋ライブなども成功裏を納め、日本での定期的な活動を再開し、やはりアメリカ在住の大江千里さんとコラボレーションなども話題となります。
コロナウィルスの時期の活動は控えましたが、2025年にデビュー50周年となり、「全国各地に声を届けたい」という思いから続くツアーを精力的に実施しており、2026年秋は宮城県は仙台、愛知県の豊明、大阪、神戸などで公演を行い、
2026年9月には、稲垣潤一との共演ステージ「稲垣潤一・八神純子 ~歌は時を越えて~」をやはり2024年の元日の地震で、被災地となった福井県で行うなど多くの人の心に寄り添います。
2027年に向けて迷いなく、歌を届け続ける八神純子さんの姿がそこにあるのでした。
いかがだったでしょうか?今回は八神純子さんの若い頃、又、ご家族の事、最近の活動に焦点を合わせてみました。

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