薬師丸ひろ子さん、女優さんとしても不動の地位を得ている感じでもありますし、過去に、玉置浩二さんの時も登場しておりますが、今回は歌手としての部分もご紹介してみたいなと思います。
さて、個人的には中学生の頃、仲の良い友人のお兄さんが、デビューしたての薬師丸ひろ子さんのファンで、その頃の映画のポスターが部屋に貼ってあった事を思い出します。う~ん確か、年齢は私の一つ上くらいの方だったかと?
音楽の面でも、数多くのヒット曲が知られてますが、どこかミステリアスな部分も持ち合わせており、どんな人物なのか?ちょっと調べてみましょう。
薬師丸ひろ子年齢は?渋谷生まれの青山育ち。薬師丸の姓は20人!
薬師丸 ひろ子(やくしまる ひろこ)さんの本名は薬師丸 博子(読みは同じ)です。1964年〈昭和39年〉6月9日のお生まれ。2026年11月現在で62歳ですね。
薬師丸ひろ子さんは、渋谷の広尾にある日本赤十字病院で生まれ、港区の北青山で育つと言うバリバリの都会っ子と言う感じです。
幼い時は、原宿幼稚園に通っておられたのではないかという情報もありますが、定かではありません。
北青山に住んでおられた事は間違いないので、創設から現在100年以上の歴史を持つ原宿幼稚園でも不思議ではありませんが、実家が裕福だったと言うウワサも出どころははっきりしません。
少なくともエレベーターのある集合住宅で過ごした幼少期だったようですので、青山のお屋敷ではなかったのだと思います。
それでも、現在では港区女子等と言う言葉もあり、都内でも区民の平均年収が1500万円なんてことも言われている高級住宅地ですが、1960年代は、北青山と薬師丸家の情報までは、はかり知れません。
父は石巻出身である事を、インタビューで答えている事と、石原慎太郎氏が支持していると言う宗教法人の霊友会に勤めていた方と言う事が、ネットの中では囁かれています。
但し、薬師丸ひろ子さんやご家族と、宗教は関係ないものと考えられます。薬師丸と言う珍しい苗字は母方の姓で、全国的にも20人くらいしかいない苗字だそうです。
現在の佐賀県と長崎県である肥前国佐賀郡薬師丸邑が発祥と言う説や、薬師如来、丸は丸子部という古代日本朝廷に関わる氏族、あるいは薬師丸という名の船に関連するという説もあります。
苗字の話になると、薬師丸ひろ子さんの少し後にデビューしたシブがき隊の『薬丸裕英』さんや『烏丸‐からすま‐せつこ』さんなど、偶然とはいえ、『〇丸』と言うお名前の方が芸能界に急に増えた感じを受けたものでした。
いずれにしても、古くから続くお名前の様です。ご姉妹は、5歳年上のお姉さんがいらっしゃると言う事です。
薬師丸ひろ子さんが、デビューした1978年当時は、個人情報が今のような感じで取り扱いされている事もなく、ファンやマスコミが自宅に来たり、父の職場にも電話をかけてきたりした経験から、家族の事を極力、表に出さないよう気を付けているのかもしれません。
お姉さんの情報を含め、ご家族の情報は少ないようです。
東京都立青山小学校に通い、ピアノを習っていて、足も速く運動会のリレーでは、毎年選手に選ばれていたと言う事で、更にクラス委員なども務めるしっかりした子供だったようです。
後に俳優になる鶴見辰吾さんが同級生でした。青山小学校から、東京都立青山中学校と言う都立の学校に通います。
薬師丸ひろ子さんのデビューに関しては、中学一年生の頃に、5歳年上の姉が勝手に、角川映画『野生の証明』のオーディションに申し込んだと言う事が言われていた時期もありましたが、
薬師丸ひろ子さんのお祖母ちゃんが、大変厳しい方で、芸能活動に反対していたと言います。
両親が共働きの家族で、同居するお祖母ちゃんがお弁当なども作ってくれていたようです。お姉さんが、勝手に応募して、そのまま芸能界にと言うのも疑問が残ります。
都立青山中学校に通い始めた中学1年生の頃の出来事でした。
通学中の薬師丸ひろ子さんにそっとカメラを向ける青年がいました。
薬師丸ひろ子年齢は?女子中学生と高級クラブのママと角川春樹社長
実際にこんな記事がありました。
2023年4月15日の「文春オンライン」に薬師丸ひろ子さんのデビューと銀座の高級クラブのママの関わりの記事がありました。
文春オンラインによると銀座の高級クラブ「順子」のオーナーである田村順子さんは、才能のある女性をスカウトすることに最も力を入れていました。
それは、銀座でお店を張る身としては、当然かもしれません。
田村順子さんはご自身がアンテナを張るだけでなく、周囲の人々にも協力をお願いして、日頃から、有望な人材(身のこなしなどを含め美しい女性)がいればすぐに知らせるよう働きかけていました。
そんな中、運転手として雇っていたタカギ君が、ある日、血相を変えて店に飛び込んできました。
「ママ、大変です」
「どうしたの、タカギ君」
「さっき青山の中学校そばを歩いていたら、信じられないほどかわいい女の子が歩いていました」
「信じられない?」
「あれほどの子は、ちょっと見たことがないですね」
出典:2023年4月15日付「文春オンライン」
その頃、『日本一のいい女ハンター』を自負していた順子ママにとって、見てみたい!と言う気持ちになったのは当然です。
「タカギ君、写真撮れるかな?」
「やってみます。」そんなやり取りがなされたと言います。
興奮して喋るタカギ君の言葉は、否が応でも順子ママの興味心をくすぐります。タカギ君は早速、翌日から張り込みをして、写真を撮ることに成功します。
今なら、通報され大変な事になりそうですが。(笑)ある意味おおらかで平和な時代でした。
沢山のイイ女を見ている順子ママのハードルはかなり上がってたのでは?と思いますが、その写真に写る黒髪の飾り気のない少女は、順子ママのハードルを余裕で越えてゆくもので、何より瞳が放つ存在感は想像以上のものでした。
実はこの黒髪も、厳しいお祖母ちゃんが、前髪が眉に掛かると短くしてパッツン状態だった様ですが、これがかえって純朴で清楚な感じを出していたのでしょう。
薬師丸ひろ子さん本人は、幼稚園の頃から、お鍋を被っているようなオカッパの髪型に劣等感を抱いていたようです。
子供の頃は、地域柄おしゃれな子が多く、カールをかけたりしている女の子をうらやましく思っていたと言います。
さて、そんな順子ママの店を社交場の一つとして、又、仕事の打ち合わせなどで頻繁に利用していたのが、
なんとあの角川書店社長の角川春樹さんでした。作家である『人間の証明』の森村誠一さんを始め、女優さんやミュージシャンを引き連れて、クラブの一角で連日のように映画や出版の打ち合わせをしていました。
『読んでから見るか?見てから読むか?』なんて当時流行った映画『人間の証明』の有名なキャッチフレーズと共に『人間の証明』がヒットし、
『犬神家の一族』などの角川映画が、小説と共に大ヒットを続けていました。
その日も、お店でにぎやかに飲んでいた角川春樹社長に、順子ママは、つい「可愛いでしょう?」と、薬師丸ひろ子さんの写真を見せます。
その瞬間、お店の空気は一変します。笑いながら飲んでいた角川社長が、黙り込んで写真を凝視しています。
数々の女優さんを見ている角川社長が中学一年になったばかりの少女の写真に釘付けになります。
「この写真借りていいかな?」順子ママは、内心「しまった!」と思ったそうですが、青山の中学校の付近で取られた写真だと言う事を正直に伝えます。
その後、知らない間に映画『野性の証明』のオーディションに応募されていたらしいのですが、このあたりの経緯ははっきりしません。
事実上、第一選考は写真だけで、二次選考に入ったと言う事で初めて薬師丸ひろ子さんに知らされています。
母娘は、驚きます。もちろん家族誰も知らなかったようですが、その時は母娘は、「落ちれば、大丈夫。」落ちれば、写真を送った人も諦めるだろうと考えました。
角川事務所にも出向き、社長とも話をした時に、探している役の年齢が小学生の予定だと聞いて、審査に落ちる事を前提にしていました。
ウィキペディアには、薬師丸ひろ子さんの写真は小さな事務所から送られてきたとなっていますが、当初、対外的にそう言う事にしておいたのだと思われ、実際の所は前述のような事の様です。
映画『野生の証明』の長井頼子役には、1000人以上の応募があり、最終選考に残った9人による歌などの最終オーディションが1978年2月28日に銀座ヤマハホールで行われました。
薬師丸ひろ子年齢は?角川春樹の猛プッシュ、高倉健から教わった事
薬師丸ひろ子さんは、ちょっと引込み思案なところもあり、演技も興味も経験もなく女優さんになるつもりは無かったそうで、母の思惑通り、オーディションには落ちるつもりで出かけて行きました。
薬師丸ひろ子さんは、小学生の頃から古いものが好きで、考古学者になりたいと思っていた事もあったのだと言います。
そんな訳で、オーディションの審査員だったつかこうへいさんに、ピンクレディー歌ってみてと言われても、「いやだ!」と返したそうです。
しかし、角川春樹さんは、薬師丸ひろ子さんの持つ強さを見抜き、デビュー作となる『野性の証明』(1978年10月7日公開)のヒロイン長井頼子役を務める事になりました。
一家虐殺事件で唯一生き残った少女で、目の前で両親が殺されたショックで事件当時の記憶を失くし、その後、予知能力が身に着くと言う繊細な演技が要求される役どころでした。
当初の監督に、薬師丸ひろ子さんだったら(演技経験のない人だったら)監督を降りるとまで言われた角川春樹さんでしたが、目の輝きが違うと猛プッシュをして文字通り周囲の反対の中、鶴の一声で薬師丸ひろ子さんに決定しました。
映画『野生の証明』の撮影。メガホンを取るのは佐藤純彌監督。オーディションで薬師丸ひろ子さん以外の女の子を推していた監督です。
撮影が進んだある日、佐藤監督は角川春樹社長の元へ来て、「申し訳ありませんでした。あの子は天才です。」と頭を下げたと言います。
角川春樹さんが、たった一枚の写真からその子の素質を見出すと言うまさに「野生の証明」の頼子に匹敵する千里眼に、佐藤監督も屈伏したそうです。
この映画は、主役に高倉健さんを置き、夏木勲さん、三國連太郎さんなどベテラン陣が脇を固め、総製作費12億円を投じて制作されました。
この映画は大ヒットを果たし、当時『野性の証明』(1978年)は角川映画として初めて邦画年間興行ランキング1位になった映画として映画史に残る作品となります。
又、初対面だった高倉健さんが、大きな声で、中学生の女の子に「これからよろしくお願いします。」と頭を下げ、これまた、大きな手を差し出して握手、薬師丸ひろ子さんは、大人と同じように扱われた事に感激したと言います。
高倉健さんにラジカセをプレゼントしてもらい、高倉健から言われた「チャラチャラしないように」と言う言葉守って仕事に臨んでいたと言う事です。
そしてこの高倉健さんに迷惑をかけたり困らせないようにしようと、誠実に映画の撮影に挑みます。
1979年になると、中学3年生だった薬師丸ひろ子さんは高校受験のため女優業は休止しております。
薬師丸ひろ子さんは、始めの頃はテレビに出るとみんなに見られるから苦手で、映画はわざわざ見に来てくれる人しか見ないので、テレビに出る事を極力減らしたため、映画への出演が多くなります。
その後、『セーラ服と機関銃』や『Wの悲劇』など多くのヒット作を生み出し、同時に同名の楽曲・主題歌なども薬師丸ひろ子さんが歌う事になります。
『野生の証明』だけで引退しようと考えていた薬師丸ひろ子さんが、何故引退しなかったか?と言うと、
角川春樹社長が、自身の会社の出版物に登場させたり、単発のドラマの仕事を入れたり、はたまた資生堂のお正月に一度だけ流すロングCM『色』に起用を勧めたりと熱心だった事が窺えます。
そしてその資生堂のCM『色』は カンヌ国際広告祭で金賞を受賞するし、初の写真集は当時かなり高価だった1800円だったにも拘らず、10万部を超えるベストセラーになり、
映画出演2作目となる『戦国自衛隊』では、チラッと出演した程度だったのに、薬師丸ひろ子さん目的のファンで劇場が埋まった言うように、どんどんうまく進んでしまいました。
薬師丸ひろ子年齢は?カ・イ・カ・ンと流血。玉置浩二との離婚後?
薬師丸ひろ子さんと言えば、なんと言っても『セーラー服と機関銃』の機関銃を撃ちまくった後に「カ・イ・カ・ン」と呟くシーンは、アラカンの方にはおなじみだと思います。
監督は53歳にして亡くなられた相米慎二監督。作品はのちに橋本環奈さんでも制作されているので、若い方でも知られてるかもしれませんね。
映画『セーラー服と機関銃』を調べていて、筆者moonが一番驚いたのは、例の「カ・イ・カ・ン」の最中、薬師丸ひろ子さんの顔のアップになり、頬を一筋の血が流れます。
顔色一つ変えずに、恍惚とする表情と、流れる血がリアルに感じましたが、実はあれは事故で、小道具のガラス瓶が割れて破片が飛んできて深さ1㎝の跡が残るかもしれないくらいの本当の怪我をしていたのだそうです。
周囲も驚いたと思いますが、あのシーンの気迫は、あの一筋流れる血液と、止めることなく回したカメラがなせる業でそのまま日本映画の名シーンとなりました。
この作品で、薬師丸ひろ子さんは一躍スターダムを駆け上ります。
映画と同名の主題歌『セーラー服と機関銃』は来生えつこ作詞、来生たかお作曲の当時のヒットメーカーのご姉弟。ここは少し複雑な理由もあったようですが、結果的には、120万枚を超える大ヒット曲となります。
当の薬師丸ひろ子さんは「高校時代の思い出としてレコードを1枚作りたかった。」と言うくらいの気持ちで、女優にも歌手にも執着されてなかったようです。
本人の想いと裏腹にどんどん有名になってしまうのですが、それも運命なのでしょう。
薬師丸ひろ子さんは、芸能界に長年君臨されているのですが、そもそも全く芸能界に興味が無かったのは、住んでいる場所も関係があったのだと思われます。
北青山、南青山現在でも沢山の芸能人が住んでいる場所で、友人の家に森昌子さんが遊びに来ていたり、友人の父がディレクターのお仕事だったりと日常的に道で歩いている芸能人を見かける機会も多かったのだと思います。
薬師丸ひろ子さん、お若い時から第一線で活躍されていましたが、角川事務所では当然、第2の薬師丸ひろ子をと言うオーディションを繰り広げます。
渡辺典子さん、原田知世さんと共に角川三人娘と呼ばれそれぞれ、人気を博します。
薬師丸ひろ子さんは、その後、澤井信一郎監督の『Wの悲劇』(1984年12月公開)がヒットし、ブルーリボン賞に輝く事になります。
澤井監督の師匠の天才マキノと呼ばれたマキノ雅弘監督も、表情が作ったようにならない、間違った表情にならない事に驚愕します。
この映画で今度こそ女優を辞めようと思っていたと言いますが、ブルーリボン賞が大きな励ましとなりました。
個人的には、この映画と同名の主題歌『Wの悲劇』が薬師丸ひろ子さんの曲の中では一番心に響く楽曲です。松本隆さんと呉田軽穂こと松任谷由実さんのタッグで聞かせる名曲です。
直接、楽曲とは薬師丸ひろ子さんに関係ありませんが、1981年公開の『ねらわれた学園』の中で使われた松任谷由実さんの『守ってあげたい』も大ヒットとなっておりました。
そんな風にお仕事に恵まれていても、蜷川幸雄さんや、つかこうへいさんと言う厳しい先生の中で、(←想像です。)「なぜこの仕事を・・・。」と悩むこともしばしばあったそうです。
ニューヨークが大好きで30代の頃よく行っていたのですが、カウンセラーのかたを紹介されたんですね。「自分がなぜこの仕事をしているのかわからない」と吐露したら、「今のお仕事を何年やられているのですか?」と聞かれて。その時点で20年以上経っていると答えたところ、先生に「もう考えるのはやめなさい。もし嫌いなら、とっくに病気になったりして続いていないから。あなたはこの仕事が好きなんです」ときっぱりいわれたんです。せっかく500ドル払ったので、もっと話してくれないのかなと思ったりしたのですが、それさえ伝えたらもう十分です、みたいな感じでした(笑)。でも確かにそのひと言が今、自分をただただ突き動かしています。
家庭画報.com 2021年12月28日付
この言葉で、改めて自分の気持ちに気付かされた事を振り返っており、ちょっと自信が無くなった時など心の支えになっているのだそうです。
薬師丸ひろ子さんは、先にも書いたように、プライバシーを守られる方の様で、殆ど家族や恋人の話が出てきませんでした。
一つだけ大きな話題になったのが、玉置浩二さんとの結婚です。玉置浩二さんは、最初の奥さんと1986年に別れ、その後、1991年の1月に薬師丸ひろ子さんと結婚されました。
薬師丸ひろ子さん通算9枚目のシングル1987年10月10日に発売された『胸の振子』を作曲した事で、交際のきっかけになったようです。
新婚旅行はハワイへ行き、ビッグカップルに報道も過熱しておりました。しかし1998年6月、薬師丸ひろ子さんの34歳の誕生日パーティーの終盤。
突然、玉置浩二さんが、「今日で別れます。」と口を開くと薬師丸ひろ子さんも、「そういう事です。」と続きます。
そんな衝撃的な離婚の発表でした。離婚の原因については、玉置浩二さんと薬師丸ひろ子さんの両親との関係などが取り出されましたが、真相は分かりません。
情報ではその後の関係は悪くはなく、友人の様です。
薬師丸ひろ子さんを検索すると、息子や娘、または、子供と言うキーワードが出てきますが1991年1月7日のハワイなどで挙式のちに婚姻手続きから、離婚した日とされる 1998年6月6日までの7年半の間、お子さんはいらっしゃいません。
薬師丸ひろ子さん本人も、母親役をやる時、子供を育てた経験がないとお話されていますし、玉置浩二さんご自身が、子供のできない身体であることを記者会見で自らお話されています。
玉置浩二さんと当時二世帯住宅として住んでいた3億とも言われる世田谷の弦巻にある家は、現在、取り壊し新たな家を建てていると言う事です。
薬師丸ひろ子さんは、2001年に主演したNHK BSのサスペンスドラマ『コウノトリなぜ紅い』の撮影現場で、ドラマの撮影を担当していたのが、当時NHKの敏腕カメラマンだったAさんでした。
温厚なAさんに惹かれ、2004年頃から一緒に暮らしはじめ、現在は若い頃から、立ち上げていた薬師丸ひろ子さんの個人事務所の社長となっております。
薬師丸ひろ子さんの母が、社長を務めていましたが2022年頃に、高齢の母の代わりに社長を引き継いだ形となったようです。
栃木県那須町に、所有していた別荘を両親に譲り、両親の住む近所に、別な建物を建て、東京と那須町を拠点にお仕事に臨んでおります。
いかがだったでしょうか?今回は薬師丸ひろ子さんをフィーチャーしてみました。

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