フジファブリックのメンバー。ボーカル志村正彦の死因とはいったい?

メッセージソング

フジファブリックは2000年代の初頭、当時一部の20代の若者に絶大な人気を博していたオルタナティブロックの代表的なロックバンドです。

そんな人気絶頂期に、フジファブリックのキーパーソンのメンバー志村正彦さんが、29歳の若さで急逝します。2009年(平成21年)12月24日の出来事でした。

あれから15年の月日が流れ、2024年7月、フジファブリックの現メンバーからある発表がありました。

さてどんな内容だったのでしょう?又、フジファブリックの志村正彦さんの死因は何だったのでしょうか?




フジファブリックのメンバー、初代ボーカル志村正彦と奥田民生

フジファブリックは2000年の年に、志村正彦さんが中心となり、静岡県の富士吉田市で結成されたロックバンドです。

高校時代からのコピーバンド仲間で志村正彦さんが声を掛けて始めて、何度となくメンバーが入れ替わります。

このバンドの事をよくご存じない方へは、このフジファブリックと言うバンドの中心であり、ボーカールとギターを担当されていた志村正彦さんは、

2009年の12月24日に29歳という若さで、お亡くなりになっています。

志村正彦さんがお亡くなりになった後は、現在まで、残されたフジファブリックのメンバーの山内総一郎さん、金澤ダイスケさん、加藤慎一さんで活動を継続しております。

志村正彦さんは、1980年7月10日のお生まれです。出身は山梨県富士吉田市。

志村正彦さんは小学校、中学校時代は野球少年でした。中学時代に渡辺隆之さん(後のフジファブリックの初代ドラマー)から、奥田民生さんのライブに誘われます。

今まで野球一辺倒だった志村正彦さんは、その奥田民生さんのライブを見てから、一気にファンになります。

1993年に奥田民生さんは『ユニコーン』を解散して1994年に『愛のために』でソロ活動を開始している事からも、奥田民生さんがソロとして活動を始めたばかりの頃のライブだったのではと思います。

そして、志村正彦さんは、奥田民生さんの出ているメディアを探り、奥田民生さんが聞いている音楽や、影響を受けた方の曲を聴きまくったといいます。

その他に洋楽も好きでシェリル・クロウ、レッド・ツェッペリン、AC/DC、ブラック・サバスなどを好んで聞いていたそうです。


フジファブリックメンバー紹介、メンバーの実家の会社名がそのまま!

『フジファブリック』この不思議なバンド名ですが、2000年4月に結成されたフジファブリックの当初のメンバーで、その後3年半在籍する前述のドラムスの渡辺 隆之さんのご実家の繊維会社の名前だったそうです。

現在も『富士ファブリック株式会社』として経営されていらっしゃるので、狙ったものかどうかは、解りませんが、結果的に広告となり、当時の若者の間には浸透した名前ですね。

最初に書いたように、このフジファブリックはボーカルの志村正彦さんが亡くなる少し前まで、幾度となくメンバーチェンジが行われていました。

その為、現在は、所縁のある富士吉田市や、富士山周辺の地域出身のメンバーは在籍しておりません。

2006年の4月から、ボーカル・ギター担当の志村正彦さんと

ギターとコーラス担当の山内総一郎さん、大阪府茨木市出身、1981年10月25日生まれ。

ベースとコーラスの加藤慎一さん、茨城県久慈郡大子町出身、1980年2月9日生まれ。

キーボードとコーラス担当の金澤ダイスケさん、石川県金沢市出身、1980年8月2日生まれ。

このメンバーで、2009年12月24日に志村正彦さんが亡くなるまで続きます。一時的にドラム担当の方が正式メンバーとしていた事もありましたが、

2006年4月から現在までドラムスは正式なメンバーではなく、サポートメンバーを起用しております。

2007年の11月7日にリリースされたシングル『若者のすべて』という曲は、地元の花火大会に、地元を離れる青年にとって最後の花火大会になるというような内容です。

そこに彼女は登場しませんが、見つけたいと思う自分と見つけたら何か言えるだろうかと言う自分を書いているように思えます。

明るめのややアップテンポな曲で、シングルとしてどうなるか解らないまま、タイミングがずれて花火大会の曲なのに11月に発売されることになったのです。

しかし、この曲が急に売れたわけではありません。フジファブリックは2000年の中頃からラジオ番組を持ったり、日比谷の野外音楽堂や両国国技館等のライブも成功を収めて、それなりの知名度を誇っていたと思います。

正直なところ、一部の根強いファンは一定数いたものの、誰もが知っているバンドではなかったと思います。

又、熱狂的なファンと言うより、ちょっと、何曲か知ってるって言う緩めのファンが大勢いたのではないだろうかと。

しかし、志村正彦さんの残した楽曲は、2000年代を代表する事になります。それは、玄人向けをする楽曲が多く、天性の声の持ち主である事も大きく影響します。


フジファブリック、メンバー志村正彦の死因は自殺ではない根拠!

フジファブリックは、この時点で、バンクバンドがカバーした『若者のすべて』が人気になったり、パフィーへの楽曲提供などでも話題になっていました。

当時の音楽好きな若者なら、知っているというような存在だったと思います。今から大きく羽ばたく前兆は、ファンならずとも感じていた事でしょう。

しかし、皮肉な事に、このフジファブリックと言うバンド名が一気に全国に知れ渡る事になったのは、

やはり、ボーカルでギターの楽曲の殆どを作っていた志村正彦さんが急逝した事が、ニュースになった事だと思います。

クリスマスイブに、非業の死を遂げた若干29歳の若者に、ネットやマスコミがスポットライトを当て続けたのです。

では、なぜ志村正彦さんは、亡くなってしまったのでしょう。多くの人が初めに、『自殺』では?と思ったのではと推察します。

これは、その当時の志村さんがちょっと謎めいていて、歌う時は精気にかけた目をして、情熱をあまり表に見せなかったことも少なからずあると思います。

その少し前の2009年12月10日の志村正彦さんのブログ”志村日誌2”に、健康状態の事を書いております。

1ツアーやるとなると、1ツアーに1回は必ず風邪をひいていた過去のフジファブリックですが、最近全然ひきません。体調もかなり良好です。どこも痛くも痒くもない。

インフルエンザが流行っているみたいですが、僕らは大丈夫です。ここまで健康だとなんか…年末にこう…風邪が来そうで怖いのです。まあ、ひいている暇など微塵も無いのですが。でも、かかってしまう時はかかりますよね。分かります。どんだけ、予防接種しても、マスクしても、栄養つけても、かかる人はかかります。そりゃあ仕方ないですわ。なったら治すだけですね。

もうこうなったら、フツーにライブの無い来週あたりにむしろ風邪ひいときたい。

出典・志村日誌2

そしてこの日の日誌が最後になっています。

年末の12月30日に「COUNT DOWN JAPAN 」フェスの出演が決まっていました。その事を配慮して年末に風邪をひきたくないと書いていたのだろうと思います。

そして何より、約半年後の7月には、凱旋コンサートの予定を発表していたフジファブリック。

『フジフジ富士Q』と銘打った凱旋ライブは、まさに中学生の志村正彦君が、奥田民生さんを生で初めてみて、『道を外した。』富士急ハイランドの中のコンサートスペースその場所でのライブだったのです。

高校時代の志村正彦さんは進学校へ進んでおり、「奥田のせいで道を外した。」と冗談交じりに生前のインタビューで答えていました。

さて、2009年12月24日、前日から連絡が取れなくなっていた為、マネージャーが自宅を訪れた所、既にパソコンの前で事切れていたという状況だったようです。

死因は不詳とだけ、公式のホームページに記載されていたのですが、それが憶測を呼んだのだと思います。

実際には、志村正彦さんは、自分を追い込む事で楽曲の制作をしていて、多くのアーティストがそうであるように、パフォーマンスの何倍もの制作の時間を使っていたのだと思います。

志村正彦さんは2006年頃には、ストレスが原因なのか?難聴や電車や飛行機に乗れなくなるなどの症状があったと言います。

そんな状況にありながら、主食は『ミンティア』(清涼菓子)と公言し、日々2時間程度の睡眠時間だったとも伝えられています。

文字通り、食うのも寝るのも惜しんで、作品に打ち込んでいたのではないでしょうか?又、酒も好きで、かなりの量を飲んでいたといいます。

前日も酒席があったようですが、あまり飲まずに帰ったという証言もあります。病名としては、未発表のままですが、不整脈などの心臓の疾患が疑われています。


フジファブリックの現在のメンバーからの重要なお知らせ

志村正彦さんの急逝を受けて、フジファブリックはロッキンジャパンの企画する日本最大の年越しライブ「COUNT DOWN JAPAN 09/10」をキャンセルすることになりました。

替わりに過去の出演映像を上映しました。同フェスでは、28日の初日公演に出演した奥田民生さん、TRICERATOPS、29日に出演した氣志團 らがフジファブリックの曲を演奏しました。

又、同フェスに参加していた、付き合っていたのではないかと噂されていた椎名林檎さんが

 志村くんが亡くなってすぐに出演したフェスで「ありあまる富」を歌わなければいけないことがすごくつらかった。だって、要するにこの曲は「死んだらおしまいよ」って言っているようなものだから。                     音楽ナタリーより

そんな風に、後のインタビューで語っています。

そして自分の背中を追ってきた、才能あふれる後輩の突然の死を悼み、奥田民生さんが演奏中に感極まって号泣する姿がありました。

トライセラトップスの和田唱さん(イラストレーターの和田誠さんの長男)は親友で、氣志團の綾小路翔さん、星グランマニエさん、西園寺瞳さんはライブハウスのバイトの先輩だったといいます。

志村正彦さんが行き詰まって音楽を辞めようとしたとき『茜色の夕日』という曲を俺に暮れと言ったと言う氣志團、「ヤダ!」と言い返し、そこから又、コツコツ音楽を続けた志村正彦さん。

氣志團の楽曲である「One Night Carnival」のインディーズ版には、志村正彦さんがコーラスとして参加しているくらい親しい仲でした。

みんなが、諦めていた『フジフジ富士Q』は、違う形で開催されることになりました。フジファブリックの他のメンバーの3人に。

先述のトライセラトップス、氣志團、楽曲提供したパフィー、仲の良かった『くるり』の岸田繁さん、メレンゲのクボシンジさん、交流のあった斉藤和義さん、東京スカパラオーケストラ。

そして何より、奥田民生さん。奥田民生さんが、最初に歌ったのはフジファブリックのデビュー曲「桜の季節」。

最後まで、フジファブリックの楽曲をそれぞれのアーティストが歌い、最後は志村正彦さんが歌う『若者のすべて』

歌詞通りに花火が上がり、フェスが終わった。

その後、フジファブリックは、山内 総一郎さんと金澤 ダイスケさん、それに加藤 慎一さんで、志村正彦さんの遺志を引き継ぎ継続していて、今も多くのファンがおります。

しかし、2024年7月3日、突然フジファブリック公式のホームページのインフォメーションに、

「いつもフジファブリックを応援していただき、ありがとうございます。
この度フジファブリックは、2025年2月をもちまして、活動を休止させていただく事となりました。」と綴られています。

2004年4月14日 の1stシングル『桜の季節』でメジャーデビュー以来20年を駆け抜けてきました。

そして次のように続きます。

2000年に志村正彦によって結成されたフジファブリックは2009年に大切な志村正彦を失いました。彼と共に歩んだ時間、共に育んだ思いや一緒に見た景色は、かけがえのない宝物だと思っています。
その思いをメンバー3人が胸に刻み、フジファブリックという大切な場所を音楽を作り続けながら守っていくという覚悟を持って2011年に活動継続を決め、多くの方々に支えられながらこれまで歩んで参りました。

今年2月にリリースされた12枚目のアルバム「PORTRAIT」を制作中の2023年、金澤ダイスケより、自分のすべてをこのアルバムに注ぎ込み、20周年イヤーを全力で駆け抜け、その後バンドを脱退したいとの申し入れがありました。メンバー、スタッフ間で何度も話し合いを行いましたが、この20年間でバンドに対してすべてを出し尽くしたという金澤の意思は固く、バンドとしての活動継続は困難という判断に至り活動休止という決断をしました。
今後、メンバー3人それぞれが新たな道を進みます。その道がフジファブリックという場所に繋がっているのか、今後の活動の中で見つけられるかどうか、現時点では正直なところ分かりません。今は残されたLIVEの1本1本、1曲1曲に全身全霊を捧げていきたいと思います。

これまでフジファブリックを守り抜くという使命を幾度となく自らに問い、「絶対に解散しないバンド」という信念を持って活動してきました。今回の決断でファンの皆さまに残念な思いをさせてしまう事を大変申し訳なく思っています。
どうか受け止めていただきたいと思います。

 フジファブリックにたくさんの愛情を持って応援し、支えてくださったファンの皆さま、全国のメディアの皆さま、そしてバンドを何度も救ってくださったアーティストの皆さまには心から感謝を申し上げます。

来年2月以降のメンバーの活動につきましては、現在のところ未定となりますが、新たな一歩を踏み出した際には、温かく見守っていただけますと幸いです。

フジファブリックHPより

さて、ファンにとって残念な部分と、メンバーの3人のそれぞれの活動への期待もお持ちだと思います。

志村正彦さんの歌詞は、苦しい、デビュー曲からして『桜の季節』と言う題名だが、別れの歌だ。そして、歯切れが悪くたどり着かない自分をやるせない気持ちで描いている。

奥田民生さんに、「すごい才能の塊」と言わしめた才能と天性の声。誰もが、なんとなく浮かれた気持ちのクリスマスイブに一人きりで、そっと逝ってしまう。

以上そんなフジファブリックのメンバーと志村正彦さんの死因などのお話でした。

 

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