大黒摩季さんは、筆者moonが若い頃、広瀬香美さんや、坂井泉水(ZARD)さん等とほぼ同時期に活躍されていた女性ミュージシャンのお一人です。
それぞれ、生い立ちは違いますが、1年くらいの間の差でのデビューではなかったか?と記憶してます。
又、その頃、ガールズバンドも多く、『プリンセス・プリンセス』や、『SHOW-YA』などが既に、トップチャートで注目を集めていました。
さて、その頃の大黒摩季さんの若い頃の活躍、思うように行かなかったデビューまでの道のり、大好きな姉と慕う人物などを含めて覗いてみたいと思います。
大黒摩季 若い頃 今の年齢や身長は?出身は札幌の老舗の製パン業。
大黒 摩季(おおぐろ まき)さんの本名は、大黒 摩紀(読み同じ)です。北海道札幌市南区出身、1969年〈昭和44年〉12月31日 のお生まれ。今年(2025年)7月現在の年齢は55歳ですね。
身長は164cmだそうです。
シンガーソングライター、作詞、作曲、編曲もこなします。又、それほど多くの作品に出ている訳ではありませんが、俳優としてテレビドラマなどの作品に出演しています。
実家は、札幌キムラヤという製パン業を営んでいます。キムラヤさんは、東京の銀座の木村屋総本店からの流れのあるパン屋さんです。
お祖父さんの代から100年以上続くパン工場は、現在では、大黒摩季さんの2歳年下の弟さんが継いでいるようです。
大黒摩季さんの子供の頃は、協調性が無く、マイペースな子供だったそうですが、興味を持つとそれだけに突っ走るようなところがあったのだと言います。
子供の頃の大黒摩季さんは、年中いなくなって、探されていたとインタビューでお話されていました。
当時、跡継ぎの弟が注目されている中、3歳の頃に、母がアップライトのピアノを買ってくれました。
大黒摩季さんの母は、東京のOL時代にヴァン・クライバーンというピアニストのコンサートでショパンの英雄ポロネーズを聴いて、感動したのだそうです。
そしていつか、自分が母親になったら、子供にピアノを習わせて、毎週のように聞けたらいいなと言う憧れがあったようです。
母がパンの配達に出かける時にピアノの先生の所へ行き、帰りに迎えに来てくれていたと言います。
大黒摩季 若い頃。歌を歌う為に上京。バックコーラスからスタート
クラシック音楽からスタートした大黒摩季さんでしたが、5歳の頃に、お父さんがお金を貸していた方がいなくなり、その方の家にはレコードしか残っておらず、
それを借金の肩代わりに持ってきました。その人がロックファンだったようで、レッド・ツェッペリン、ディープパープル、クリームとか1970年代ロックのレコードでした。
幼少の頃はピアノが玩具代わりで、母といる時はクラシックを弾いたり聞いたり、留守番の時はレコードのロックを聴き、自宅に母方の祖父・祖母が来た時は演歌、テレビでは歌謡曲が流れるというようなジャンルなく音楽を聴いていました。
又、母方のお祖父さんの家には、『開かずの間』があり、そこはお祖父さんしか、入ってはいけなかったのですが、ある時、忍び込もうとした大黒摩季さんは、お祖父さんに見つかり、
怒られると思ったのですが「お前だけはいい。」と、部屋の中に入れてもらえました。
そこには、沢山の楽器があり、お祖父さんのコレクションで、眺めたり奏でたりして楽しむ部屋だったのだそうです。そこからは、遊びに行くたびその部屋で楽器に触れていました。
バンドブームのさなか、近所の貸スタジオへ出入りしており、中学生の頃からすでに、札幌にある色んなバンドのボーカルとして結構有名になりだしていたようです。
中高一貫校の札幌市にある藤女子高等学校を卒業すると、音大に進むつもりでいましたが、親に、「短大にしてもらいたい。」と言われます。
大黒摩季さんはそれならいっそのこと、プロとして音楽の道へ進もうと上京します。
東京近郊にある叔母の家を拠点にして、アルバイトをしながら、オーディションを受けたり、音楽事務所にデモテープを送ったりと言う暮らしの中、
大黒摩季さんの歌声に目を付けたのは、この時代、飛ぶ鳥も落とす勢いのあったビーイング(現・ビー・ゾーン)でした。
オーデションに合格後、ビーイングの長戸大幸社長に、まあまあの所だが、可能性を感じるので、色々なミュージシャンのバックコーラスで技術を磨くように言われ、バックコーラスとして活動を始めます。
そこから長く多くのミュージシャンのバックコーラスとして活躍しますが、なかなかデビューできず、痺れを切らした大黒摩季さんは会社に辞表を出し、単身アメリカに旅に出ます。
大黒摩季 若い頃。曲に注目されデビュー。昔は謎多き女性だった。
丁度、その頃、長戸大幸社長が、前に大黒摩季さんが書いて、楽曲提供していた曲に注目していました。
アメリカに滞在中に、長戸大幸社長から国際電話で、デビューの話が進んでいるから、日本に戻るように言われ、1992年5月「STOP MOTION」で晴れて、ソロ歌手デビューとなります。
この曲は、今一つセールスが伸びませんでしたが、同じ年の9月に発売された2曲目のシングル「DA・KA・RA」がCM(マルちゃん・ホットヌードル)のタイアップがつきます。
問合せが殺到して、ヒットチャートを上昇し最高位2位、初のミリオンセラーを記録する大ヒットとなり、第34回日本レコード大賞新人賞受賞します。
翌年1983年の2月になると織田哲郎さんが楽曲提供した「チョット」をリリースするとこちらもヒットします。
4月発売の「別れましょう私から消えましょうあなたから」も66万枚売り上げるスマッシュヒットとなり、
さらに12月に発売した「あなただけ見つめてる」は人気アニメ『SLAM DUNK』のエンディングテーマ曲に使用され、123万枚の大ヒットを記録します。
1994年、4月発売の「夏が来る」、10月発売のアルバム『永遠の夢に向かって』はアルバムで158万枚の大ヒットとなりました。
1995年、2月発売の「ら・ら・ら」以降もスマッシュヒットを連発しています。しかし、その頃から、ほとんどテレビを含めメディアに出ないばかりか、ライブ活動も行いませんでした。
その為『謎の女性』となっていました。私moonも、ヒット曲は聴いてまいたが、動く大黒摩季さんの姿を見たのはずいぶん経ってからだったと思います。
実際に世間的にも、「大黒摩季は何人もいるのでは?」とか「実在しない?」などと噂されるようにもなりました。
実際は、デビューから3カ月をめどに新曲をリリースする職人のようにお仕事をされていて、当時のアナログの作業と、曲作りのためにメディアに出る時間が無かったようです。
又、事務所の方針もメディアにあまり顔を出さないようにと言う傾向が強かったようです。
しかし、当の大黒摩季さんは、自分が世間でそんな風に見られ、又、有名になっている事も知らなかったと言います。
そんな中、誰か同級生が、週刊誌に大黒摩季さんの子供の頃の写真を売り込んだらしく、それを見た知り合いが連絡をくれたなんてエピソードもあるようです。
そこで初めて、自分が『謎の女性』とみられている事を知りました。
大黒摩季 若い頃。坂井泉水を姉のように。病気、結婚、離婚。現在!
仲が良かったのは、同じ事務所のZARDの坂井泉水さん。
二歳年上の坂井泉水さんに対して、姉と慕う位仲良しで、大黒摩季さんと同じように、当時の事務所ビーイングの方針であまりメディアに顔出ししないようにしてました。
外で待ち構えているマスコミに見つからないように、坂井泉水さんが「ヘアゴムを買いに行きたい」「カフェに行きたい」という願いをかなえるために
一緒にスタジオを何度も“脱走”し「怒られるのは私(笑)。すっごい怒られました。」とインタビューで語っていました。
そんな仲の良い二人でしたが、奇しくも絶頂期の中、二人ともに子宮の病気に悩まされることになります。坂井泉水さんは2001年に活動休止してしまいます。
かつてカフェでお茶を飲みながら、坂井泉水さんから「作詞は私で、作曲は摩季ちゃん。一緒に曲を作って、いつか一緒に歌おう」と約束を交わしていましたが・・・、その夢は叶うことがありませんでした。
坂井泉水さんは2006年には子宮頸がんを公表して、そして翌2007年5月27日に40歳という若さで、病院の階段の手すりから転落すると言う事故で帰らぬ人となってしまいました。
坂井泉水さんが亡くなった日は大黒摩季さんのデビュー記念のライブの日、ライブ後、楽屋で訃報を耳にした大黒摩季さんは号泣。
「なんで世の中に必要な人を先に連れて行っちゃって…いっそ私を連れて行ってもらいたかった」と当時の思いを吐露。「太陽のような人。心が洗われる人。天才だった」
出典:スポニチアネックス 2023年5月19日
そんな大黒摩季さんですが、30代前半のころ、知人の紹介で出会った男性と交際を開始します。結婚の話も上がるようになりましたが、
「98%もう産めないと思うよ。子供好きそうだし、だから結婚しない方がいいと思うよ」と病気を告白し、結婚を断っていました。
しかし男性は「2%あるじゃない」と言い、大黒摩季さんは2003年に結婚し、不妊治療を続けますが、2019年4月に離婚に至ってしまします。
その間も2015年に、子宮を全摘する手術を受け、傷の痛みなどが、声の出方を妨げリハビリとトレーニングを続け、復帰しますが、
大黒摩季さんにとって辛い出来事が続きます。2021年11月12日に最愛の実母である大黒美也子さんが享年83歳で亡くなってしまいます。
大黒摩季さんの母は20年前に右脳出血による左半身麻痺となり、更にステージ4の小細胞肺癌および副腎癌を患っていました。
20年にも及ぶ闘病、介護の果ての母の死は、大黒摩季さんに大きな喪失感をもたらし、直後のライブ出演も取りやめようと思っていたところ、
イベントの女性スタッフに「今の私は人に勇気や希望をあげられない」と出演の中止を申し出たところ、「音楽は、聴いた相手が自分で希望を持つもので、持ってもらうものではないと思う。」
そんな風に言われ、今のままの気持ちで歌を届けると、とても良いライブが出来たとの事です。大黒摩季さんは、そこから気負わず、今の気持ちのままで多くの皆さんに支持されているのですね。
いかがだったでしょうか?2022年にデビュー30周年を迎え、多くの女性の気持ちに寄り添い勇気付ける大黒摩季さん。親友の死、ご自身の病気、離婚などの壁を乗り越えて、今も歌を届けています。
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