長渕剛の『逆流』と言う曲は篠島での吉田拓郎とのコンサートの出来事をきっかけに。

メッセージソング

「14歳の頃によく聴いた音楽が人生で一番心に残る」というのがアメリカのドラマの中のセリフがあるのですが、

自分の14歳の頃は、本当に今でも頻繁に名前を聞く方々のデビューが多く、長渕剛さんもその中のお一人です。

今回は長渕剛さんの『逆流』を取り上げてみたいと思います。



長渕剛 逆流はセカンドアルバムのタイトルチューン

長渕 剛(ながぶち つよし)本名:同じ 1956年〈昭和31年〉9月7日生まれご出身は、 鹿児島県日置郡伊集院町(現・日置市)のお生まれです。

1973年長渕剛さんが17歳の時、大学祭の前座で初めての舞台を経験します。
翌年、1974年友人と2人でフォークソングのグループ「T&Tグループ タケシとツヨシ」を結成し、ステージ活動を始めます。

1975年には
長渕剛さんは福岡県の九州産業大学へと進学。
「永渕剛(ながぶち つよし)」の芸名で、場末のバーでオリジナル曲を歌い続けておりました。

このあたりの時期はまさに地獄の環境で、毎夜のようにビール瓶や灰皿が飛び、酔っ払いや、反社風の人から「演歌やらんかい演歌!!」と罵声や蹴りを浴びつづける日々のようでした。

ここで根性が鍛えられたと長渕剛さん本人は述べており、後年、俳優として活動する際のリアリティに満ちた悪漢の演技も、ここでの観察が役に立ったのだとか。

そして、長渕剛さんはライブハウス(照和)での活動が本格的に始まります。

プロフィールとして1978年に『巡恋歌』で本格デビューとありますが、実際には前の年の1977年に『長渕剛(ながぶちごう)』で、『雨の嵐山』と言う昭和歌謡っぽい曲が出ており、moon(筆者)も、当時このシングルを持っておりました。当時の著書『僕らの旅はハイウェイ』の中でも綴っておられたような気がします。

そんな長渕剛さんの、1枚目のアルバム『風は南から』に続き、リリースされたセカンドアルバム『逆流』の中のタイトルチューンの『逆流』です。

アルバムの最後の曲です。このアルバムから音楽プロデューサーの瀬尾一三氏やギターリストの笛吹利明氏が参加して作られていて、長渕剛さんは、その後、長くご一緒にお仕事をしているようですね。

アルバムの中には『順子』や『祈り』、『ひざまくら』等の長渕剛さんの初期のヒット曲も収録されている為か、発表されてから程なくオリコンチャートにて10位圏内に入り、半年間同じペースで売れ続けた為、1位となり40万枚のセールスとなりました。


長渕剛 『逆流』は吉田拓郎と篠島での音楽フェスの『帰れ!』コールから

しかし、この『逆流』と言う曲には、当時の長渕剛さんの悔しさや、悲しさ、旅立ちの心境などを含め恐らく自分への叱咤等が詰め込まれていたのだろうと感じます。

当時1枚目のアルバム『風は南から』がリリースされた後に、長渕剛さんは、ユイ音楽工房に所属していた縁で、1979年7月26日に愛知県篠島で開催された吉田拓郎の「アイランドコンサート イン 篠島」に参加する事となったのです。

当時2万人規模のコンサートも出演して手ごたえを感じていた長渕剛さんでしたが、手放しで紹介もなく上がった篠島の舞台は大きなプレッシャーとなりました。

緊張からパフォーマンスが上手くゆかず、ギターの弦が切れたことをきっかけに、無名に近かった長渕にオーディエンスが誰ともなく「帰れ!帰れ!」の声が掛かり始めます。

それが大きくなり、やがてシュプレーコールのようになりました。

初めは、長渕剛さんも戸惑っていたように見えたのですが、だんだん感情が怒りに変ったと言います。息を整え、次の瞬間、マイクに向かってこう叫びました。

「バカヤロー! 俺は帰らんぞ! 俺は拓郎に時間をもらってここに出てきたんだ。昔のやつら”帰れ”っていわれたら”ハイ、そうですか”って帰ったかもしれんけど、俺は帰らんぞ! 俺のファンだって来ているんだからな。”帰れ”っていうのなら、テメエが帰れ!」

               出典 長渕剛著書『僕らの旅はハイウェイ』より

実際に「帰れコール」をしたのは一部の観客だけだったとも言われているるのですが、長渕剛さんとしては、その声が大きく刺さったのかもしれません。

その後、堂々と歌い、最終的には大きな喝采を浴びました。吉田拓郎や南こうせつら大物シンガーの支持があり、次第に頭角を現す事になります。

24000人の聴衆を相手に23歳の若者はたった一人で挑んでいった。そう考えるとその叫びに、芯の強さを感じずにはいられません。

この出来事は、長渕剛さんの音楽へ向かう方向性を大きく動かす事になった出来事ではなかったでしょうか?長渕剛さん自身「あのステージがなかったら今はなかった」と話している事からも、長渕剛さんにとっては大きな出来事だったのでしょう。

そして・・・『僕がここを出て行く訳は・・♪』で始まるこの歌詞が生まれる事になりました。


長渕剛の逆流と時代背景、そして音楽性への流れが変わるとき。

振り返ってみると、当時、全国的にがんじがらめの中学校・高校のスタイルだったように思います。

生徒は荒れ狂い、校舎の窓ガラスを割り、皆、同じような太いボタンと襟のスタンドが高く、裾の長い学生服を着ていました。

それを制圧しようと教師は必至で校則を厳しくしていきました。

そう、当時は、ツッパリ、暴走族、50年代スタイルのロカビリーなどの言わば全盛期であり、ファッションとして多様化していた部分と、幼い考え方の中で暴力的なものに心を惹かれる若者も少なくありませんでした。

そんな時代背景の中、校内暴力なんて言葉も出始めた頃でした。私moonも、そんな中学時代の中で、子供たち側にいた訳ですが、やはり、教師にはあまり良い感情は持ってらず。

だからと言って、反発する勇気もありません。又、同じ格好をして同じスタイルを取っている突っ張ってる輩にも同調しきれないのでした。

さて、今の長渕剛さんと違って、あの頃はまだ、優男と言う感じでした。細くすらりとした華奢な容姿に、肩まで伸びた長髪で、現在の長渕剛とは全く違うイメージでした。

曲調にしても『巡恋歌』や『順子』のヒット曲からも、推測されると思うのですが、どちらかと言うと恋愛、失恋を取り上げたもの、もしくは『風は南から』のようなポップな又はフォークソングのイメージの曲が多くありました。

そして、フェスのあと、伊豆のスタジオで・・・・


長渕剛『逆流』を持って、嘲笑う者へのリベンジの誓い。

伊豆のスタジオに缶詰めになり、にじみ出てきた言葉たちが、『逆流』のフレーズだったのではないでしょうか?

長渕剛さんが、自ら、『竹馬で歩くように今は、まだぎこちないが、先ずはここから足を踏み出し』と綴っているように、自分自身を客観的にとらえ、それでも『若いくせになんて言わせたくない。』と言う、負けない自分を描いているように思います。

軽蔑は錆びれたナイフで、そこから羽ばたこうとしない人間がブーツのボタンをはずして、立ち止まっていようと、表現しているのでしょう。

そして人の生きざまをバカにしようとも。自分には自分の道があり、それはしっかりと、一つ前を歩いているのだという自負や宣言がこの歌詞がメロディと力強い声に乗って多くの人の心を動かしました。

そして、『だって僕は僕を失う為に生きてきたんじゃない。』そうこの言葉で、当時何も持たない芯も無くふらふらしていたmoon少年は、心から頷き、一日一日、この言葉にしがみついて生きていたような気がしています。

以上、長渕剛さんの逆流と言う曲と、吉田拓郎さんの関係を考察してみました。

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