角松敏生さんといえば、1980年代の後半からJ-POPシーンの中で、大きく飛躍したミュージシャンで、シティ・ポップなんてジャンルを確立しました。
多くのアーティストの方への楽曲提供などもあり、そのおしゃれで、洗練された音楽は、当時の他のミュージシャンとは一味違ったものでした。
そんな角松敏生さんに、亡くなられ、先日お別れ会なども行われた『中山美穂』さんや『病気』『事故』などのキーワードが見え隠れするので、ちょっと調べてみる事にしました。
角松敏生、病気の噂?音楽への道は、家族が音楽好きだった?
角松 敏生(かどまつ としき)さんは本名です。1960年8月12日生まれのご出身は東京都渋谷区代々木と言う事なので、都会生まれの都会育ちなんですね。
身長は、169cm。血液型A型です。日本大学鶴ヶ丘高等学校、日本大学文理学部哲学科卒業と言う事です。
角松敏生さんの父親は、放送関係の仕事をしていた方だそうです。ポップスをよく聞いていたとの事です。
角松敏生さんは、幼い時からピアノやオルガンを習わされていました。角松敏生さんは非常に器用で色々な楽器を使いこなせるのは、この頃の基礎が出来ているのでしょうね。
母親は、クラシック音楽を、父親はポップスをと、様々なジャンルの音楽の中に身を置いていたのではと思います。
角松敏生さんは、最終的にポップスを選ぶ訳ですが、小学生の時点で、バート・バカラックなどを聴いていたと言うのですから、やはり普通の小学生とは違いますね。
角松敏生さんには8歳年上のお兄さんがいて、角松敏生さんが10歳の頃、ギターを弾き始めると、教えてくれたそうですが、だんだん面倒くさくなって教えてくれなくなったそうです。
角松敏生さんは、小児喘息で子供の頃は体が弱く、イジメられることもあったようですが、ある程度弾けるようになった頃、こっそり学校にギターを持って行って休み時間に弾いたら、みんなが「すごい」って集まってきたと言います。
その日を境に、ぱったりといじめがなくなり、子供ながらに人と違う事が出来るとみんなの見る目が変わる事を実感したのだそうです。
小学6年生の時に『はっぴーえんど』を知り、高校時代まで、はっぴーえんどの演奏はモチロン。
同じはっぴーえんどのメンバーの細野晴臣さんや鈴木茂さん、それに松任谷正隆さんなど5人のバンド『ティン・バン・アレー』等の曲から影響を受けていたのだそうです。
大学3年生だった1981年6月、シングル「Yokohama Twilight Time」とアルバム『SEA BEEZE』で角松敏生さんはメジャーデビューします。
角松敏生、病気の噂?噂があった中山美穂さんとの関係は?
当時は、山下達郎さんや大瀧詠一さん等の曲がこれまでのフォークや、ニューミュージックという所からシティポップなんて呼ばれ始めた時期でした。
松任谷由実さんがフォークをニューミュージックに、山下達郎さんがニューミュージックをシティポップに変化させてたと言う感じでしょうか?
角松敏生さんは、多くのアーティストに楽曲を提供しています。代表的な曲には1988年に発売された、当時人気アイドルとして活躍されていた故・中山美穂さんの「You’re My Only Shinin’ Star」という曲もその一つです。
この曲は、日本レコード大賞金賞を受賞しました。中山美穂さんは角松敏生さんのプロデュースアルバム『CATCH THE NITE』にも参加していて、そのアルバムには「Get Your Love Tonight」などの曲も収録されています。
中山美穂さんが角松敏生さんのファンだったようです。そんな事もあってか?一部の噂では、角松敏生さんと中山美穂さんが恋人同士だったのでは?なんて噂されることもあったようですが。
角松敏生さんが自身のインスタグラムで、亡くなった中山美穂さんを追悼するコメントを公表しました。
角松敏生さん 追悼全文
突然の訃報に接し深い悲しみの中にいます。
中山さんとは
80年代に一緒に仕事をさせていただいて以来お会いしていませんので
私の中の中山さんは10代のままです。音楽が大好きで努力家だった記憶があります。
改めて中山さんの遺した多大なる功績を讃えるとともに
心から哀悼の意を表します。全文 以上 角松敏生さんのInstagram より
追悼のコメントからも解るように、恋人説は単なるデマだったみたいですね。
他にも、中森明菜さんや亡くなった西城秀樹さんのプロデュースも行っていました。
角松敏生、病気の噂?角松敏生は長万部太郎?なぜおしゃまんべ
そんな風に順風満帆に見えた角松敏生さんですが、1993年1月27日に、日本武道館のライブを最後に、活動を凍結することになりました。
理由としては、音楽業界への絶望と角松敏生さん自身の活動、パフォーマンスの行き詰まりや疲弊などを挙げています。
その頃の角松敏生さんには元JALのキャビンアテンダントの奥さんがいらっしゃいましたが、個人的な女性問題もあったようです。
1991年頃にはその前妻との離婚などもささやかれていて同じ時期なので、身も心も疲れ切っていたのではないでしょうか?
それから約5年後、1998年5月18日、また同じ、日本武道館に活動再開として姿を現わします。
しかし、その5年間何もしていなかった訳ではなく、1997年には、長万部太郎(おしゃまんべたろう)と言う名義で、覆面バンドAGHARTA(アガルタ)でのプロデュースや演奏をしています。
そして長万部太郎名義の『WAになっておどろう』と言う楽曲はV6が同時期にカバーした事やNHKの『みんなのうた』等で紹介され大ヒットしています。
しかし、都会的イメージを売りにしていた角松敏生さんが何故『長万部太郎』?その由来について
”長万部太郎”の由来ですか?僕、由利徹さんのファンなんです。「おしゃ、まんべ」ってギャグあったでしょ。当時角松敏生は凍結中だったのでペンネームで出したんですが、そのおかげで『WAになっておどろう』と角松敏生が結びつかない(笑)。角松敏生にしておけばよかったなぁと今は思います。
JASRAC角松敏生インタビュー
やはりご自身も、結びつかなったと思っておられたんですね。由利徹さん若い方はご存じないかもしれませんが、一世を風靡した昭和の名コメディアンの方です。(笑)
角松敏生、病気の噂?再婚、一人娘、病気・事故の真相は『えっ?』
角松敏生さんは2009年に一般の女性と再婚なさっています。関西出身のどことなく、女医でタレント活動などもされていた西川史子さんに似てる方だそうです。
馴初めなどは、明らかにされていません。
そして2011年に娘さんが生まれています。奥さんに付き添って産婦人科に通院されていたようです。
角松敏生さんが51歳くらいの時のお子さんでしょうか?でしょうか?ライブなどでも報告されていたようです。
娘さんは中学生くらいでしょうか?もちろん名前等の詳細は不明ですが、都内在住のようです。
そして、角松敏生さんの病気や事故の噂ですが、これは全く事実無根で病気の噂の出どころは、はっきりしませんが、ラジオでご一緒のパーソナリティの方がメニエール病であったとか?
事故については、日航機墜落事故の年代は全然違うのですが、角松敏生さんの誕生日の8月12日が、日航機墜落事故の日と同じ8月12日だったことだけのようです。
ここ数年、1980~90年代の『シティポップ』が、今再び注目を浴びてきます。その筆頭とも言うべき、角松敏生さん。
現在も、ライブ、ニューアルバムなど精力的に活躍中です。
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