松山千春昔は?若い頃の出会い、涙の別れ。結婚、妻、娘、孫がいる?

フォークソング

筆者moonが十代の頃には、松山千春さんはミュージシャンとして有名でありましたが、ラジオパーソナリティーとしても人気を博しておりました。

べらんめえ口調で歯に衣を着せぬ松山千春さんの話は、妙に説得力のあるものでした。今から45年も前の話です。

数々のヒット曲があり、大御所の松山千春さん。今年になって孫が生まれたと言う報道もありました。

そんな松山千春さんの昔や、若い頃、結婚した方、お孫さんの話などにスポットを当ててみたいと思います。




松山千春昔は?今の年齢。身長、血液型、出身、今の自宅?兄弟は?

松山 千春(まつやま ちはる)さんは本名です。1955年〈昭和30年〉12月16日生まれと言う事なので、去年2025年の年末には70歳になられていますね。

身長170cm、血液型はO型です。

ご出身は北海道は足寄郡足寄町のご出身。現在は札幌に住んでいらっしゃいます。札幌オリンピックの大倉山スキージャンプ台のある麓に大きなご自宅をお持ちです。

又、足寄町の生家も、ご自身の事務所として建て替え利用されているようです。何しろ、郷土愛の強い方なので、地元の貢献度は大きいですね。

松山千春さんのお父さんは北海道夕張郡栗山町出身の松山明さんと言う方で、地元足寄出身のお母さん美代子さんの間に生まれます。

松山千春さんは、足寄町のみすぼらしい家で生まれたとご自身でお話されています。生まれた時産声を上げず、母親が何度か顔を殴ったら初めて産声を上げたのだとか。

松山千春さんには昭和23年8月19日生まれのマリコさんと言うお姉さんがいましたが、1歳の時に亡くなっています。

 そしてその次に生まれた女の子が、松山千春さんが、”姉ちゃん”と慕っていた松山絵里子さんは、昭和25年生まれです。

松山千春さんは、お姉さんの影響を受けフォークソングに惹かれて行くきっかけなった方でした。しかし1998年に舌がんのため48歳の若さでお亡くなりになりました。

そして昭和28年、長男の智秋(ちあき)さんが生まれます。ところが残念ながら智秋さんも2歳にして肺炎で亡くなってしまいます。

智秋さんが亡くなったのは昭和30年2月28日ですが、同じ年の昭和30年12月16日に松山千春さんが生れます。

”千春”と言う名前は、当時、オリンピックに向けて活躍していた北海道出身のスキー選手・猪谷千春(いがや ちはる)さんにあやかって父親が名付けました。

その後、昭和34年になると、弟の明人(あきひと)さんが生れます。4歳年下の方でしたが、令和3年(2021年)9月19日、享年62歳で亡くなっています。

弟さんが亡くなった直後の2年振りの東京公演では、天国にいる両親へ向けて

「弟はいま、そっちに向かいました。オレは何とか歌っています。もしオレがそっちに行っても、また父さん母さんの子どもからやらせて。もっと稼ぐから。もっと勉強するから」と呼びかけ、楽曲「生命」を歌唱した。

出典:中日スポーツ 2021年11月18日付

貧乏だったけど、5人で身を寄せて暮らした幼少時代に思いを巡らせ、涙をぬぐいながら熱唱した松山千春さんの姿に、涙を流すファンの方も多かったようです。


松山千春昔は?弟はレコード会社で敏腕を振るう!

松山千春さんの弟・明人さんは、家族の中でも真面目で堅実なタイプで、松山千春さんがデビュー後、松山千春さんが支援するから大学へ行くように家族会議が持たれます。

家族、誰も大学に行っておらず、デキの良い明人さんにそんな思いを家族が伝えると、

「大学行ってもいいけど、兄ちゃんの世話にはなりたくないんだ。」と言って、釧路教育大学へ進みます。

その後、学校の先生にはならずに、兄とは違うクラシック音楽の分野で、レコード会社の中でプロデューサーとして手腕を発揮します。

早期退職後、松山千春さんの事務所に身を置きご一緒に仕事をされていたようです。

さて、松山千春さんは生まれてすぐに股関節脱臼と診断されます。札幌の北海道大学附属病院に半年間入院を余儀なくされ、父は入院費捻出のため多額の借金を背負うことになりました。

その事も原因となり返済が家計を圧迫した事で、家族が大変な時期もあったと言います。松山千春さんの父・明さんは、戦前は新聞記者の職に就いていましたが、足寄町で印刷業を行っていました。

仕事の傍らに『とかち新聞』と言う地元紙を1954年(昭和29年)から1984年(昭和59年)まで発行されていました。

1965年に、とかち新聞が足寄町長の不正疑惑を取り上げると、町長の圧力で購読者が激減して、松山家は経済的に追い込まれます。

一時的に10歳の松山千春さんも、納豆を売ったりして生計を支えます。町長はとかち新聞を訴えますが、4年もの裁判をとかち新聞が制し、勝訴しています。

松山千春さんが、政治活動を支えたり、曲がった事が許せない気質は、父の背中を見ていたからかもしれません。


松山千春昔は?音楽は姉の影響!松山千春を見出した恩人の急逝!

松山千春さんは、地元の足寄西小学校、足寄中学校を卒業します。小学5年生の時に、姉が聞いていたジョーン・バエズや、PPM(ピーター・ポール&マリー)など、アメリカのフォークソングの王道と出会います。

又、同級生の兄もフォークソングファンで、当時”フォークの神様”と称された岡林信康さんが足寄でコンサートを開くと聞きつけ、「今まで聞いた事の無い音楽」として松山千春さんは衝撃を受けます。

岡林信康さんは、プロテストソングと言う政治や社会への疑問などを投げかけ、歌詞にしてゆくスタイルでした。松山千春さんは中学時代にギターを手に取り、独学で練習を始めます。

足寄高校に入学すると高校1年の文化祭の前夜祭で、友人に推されて、飛び入りで岡林信康さんの『私たちの望むものは』を熱唱した事が、初めて大勢の前で歌った時でした。

当時は、カラオケボックスなども普及している訳ではなく、人前で歌うと言うのは、そうそう経験する事でもなかったはずです。

松山千春さんは高校を卒業すると北見市に住み始めます。北見時代は、父の手伝いをするために自動車の免許を取りたくて、叔父の経営する料理屋やバーテンダーとして働いていました。

そして北見で無事に自動車免許を取得した松山千春さんでした。

そんな中、松山千春さんは19歳の頃の1975年に『全国フォーク音楽祭』と言うニッポン放送が一部のネットワーク局と共に行っていた若者のデビュー支援、フォークソングの登竜門と呼ばれたコンテストの北海道大会に出ます。

予選に出た時の松山千春さんは、

「審査員から『ギターがひどい』と言われ、カチンときた彼は『おれはギターの品評会に来たんじゃない! 歌はどうなんですか!』と反論。そんな態度をとったことで望みはないと考えていたようですが予選を通過。北海道大会の本選へと進みます。このとき千春は19才。赤いニッカーボッカーにサングラスといういでたちでしたね」

(音楽評論家の富澤一誠さん)

出典:2022.01.31付 ニュースポスト セブン

しかし本選では、敢無く落選してしまいます。そんな松山千春さんを見つめる関係者の一人であるラジオ局のディレクター竹田健二さんがいました。

やがて、竹田健二さんの口利きで、翌年の1976年に北海道のラジオ番組の『サンデージャンボスペシャル』で15分の『千春のひとりうた』のコーナーを松山千春さんは担当します。

今でも、松山千春さんのMCは定評がありますが、話が面白いのと、竹田健二さんが、毎週2曲を作ってくることを宿題にし、それがリスナーの心を掴んだようです。

結構ハードだったと思いきや、松山千春さんは週に2曲作るのが、楽しみで仕方がなかったのだととか。

そして、その中にあの『大空と大地の中で』や『銀の雨』等の珠玉の名曲も含まれていたと言います。

これは当時は竹田健二さんが、全国で人気を博す人物だと松山千春さんの才能に自信を持っていたと思われます。

松山千春を世に出すために、ストック曲を増やすのを目的に出した宿題でした。

いくら話が上手い、度胸があると言っても、若干二十歳の若者である松山千春さんにとって、いきなりラジオ番組で喋ると言うのは、ハードルも高かったのかもしれませんが、大いに訓練の場となります。

1976年4月4日から1977年10月2日まで続いた、このコーナーは、人気を博し、やがて北海道全土で松山千春と言う名前が知れ渡る事になります。

2年後の1977年1月25日に竹田健二さんが見出したと言っても過言ではない松山千春さんは「旅立ち」でポニーキャニオンからメジャー・デビューを果たします。

順調な滑り出しに見えたのですが、ここで松山千春さんにとって思いもよらない事態が起こります。

メジャーデビューから7か月後の8月27日、二人三脚で歩んできた竹田健二さんが急性心不全のため36歳の若さで亡くなってしまいます。

打ち合わせ後に、ラジオ局の守衛さんから「残念だったね。」と言われ、竹田健二さんの自宅へ。

泣き崩れる松山千春さんが、今日、函館のコンサートが入っている事を知っていた竹田健二さんの奥さんから、

「ここで泣いてないで、コンサートへ行ってきて。主人もそれを望んでいると思います。」と言われ、涙をぬぐい、函館に向かいます。

所属事務所もなく、22歳の松山千春さんにとっては、独りぼっちの山道でコンパスを失うような気持ちだったのではないでしょうか?のちに『手足をもがれたような思いだった』とお話されています。

非常に落ち込み、失意の中で、竹田健二さんが生前に言っていた言葉を思い出します。

「音楽業界のしがらみに縛られず、自分の意志で自由に活動しなさい。」

松山千春さんは、北海道を大切にしたいと言う気持ちと、自分で選んだ仕事を出来るようにと、助言してくれた竹田健二さんの意志を貫くように、個人事務所を同じ年の1977年10月に「オフィス・パンタ」(現在のオフィス・ゲンキ)を設立します。

もう一つ、竹田健二さんは、亡くなる前日に、ニッポン放送のプロデューサーと、オールナイトニッポンの第二部のレギューラーの出演交渉を行っていたと言います。

音楽活動と相まって、2部(AM3:00~AM5:00放送)にも拘わらず、人気となり、僅か半年後には1部(AM1:00~AM3:00放送)に昇格します。


松山千春昔は?中島みゆき、鈴木宗男、そして家族や、孫が!

そこからは、私が書くまでも無く、ヒット曲が続き、1970年代後半から1980年初頭には、ビックネームとなって行きます。

さて、同じ北海道出身の大御所のミュージシャンと言えば、中島みゆきさんが居ります。

デビューのきっかけが同じように、コンテスト出身で、又、オールナイトニッポンに出演中にお互いが、乱入?してくるような事があり、トークのノリが良く、仲が良かった為、二人は噂になります。

プライベートでも、繋がりがあったようですが、噂について聞かれると

新人当時を振り返り「デビューしてから数年後に、俺と中島みゆきとの噂があって、あれには背筋がゾーッとした。嫌いじゃないよ、でもタイプじゃない。あの時みゆきと一緒になってたらよ、(今頃)あいつのマネジャーやってただろうな。ヒモみたいな生活してた」などと告白。

出典:東スポWeb 2015年5月28日付 

交友関係だと、松山千春さんの8歳年上の政治家・鈴木宗男さんがおります。鈴木宗男さんも、やはり北海道は足寄町のご出身です。

松山千春さんのご家族と鈴木宗男さんのご家族は、当時から家族ぐるみのお付き合いがありました。

鈴木宗男さんの父は、宮城県からの開拓民の一人で足寄町で農家を営んでおりましたが、生活は大変だったと言います。

今から、43年前の1983年(昭58)に鈴木宗男氏が衆院で初当選した時も、当時27歳の松山千春さんが、支援、応援に駆けつけておりました。

鈴木宗男さんが、喉を酷使してしまう事を懸念すると、「どんなことがあっても当選するなら、いくらでも歌う」と、鈴木宗男さんを励まし、その甲斐もあり鈴木宗男さんは初当選しました。

この選挙は鈴木宗男さんが大学時代から秘書を務めていた北海道出身の中川一郎衆議院議員の方が亡くなり、息子さんの中川昭一さんも加わった激戦でした。

お二人の絆はかなり深いようで、鈴木宗男さんが、辛酸を舐めた時期にも、また新たな活動の場の為にも、応援されておりました。

プライベートでは、松山千春さんは、1977年にお互いに客として札幌市内のスナックで知り合った三愛デパートでOLとして、働いていた金田孝子さんと言う一歳年上の一般人の女性と約6年間の交際を重ね婚約、2年後の1985年に結婚されています。

30歳になるまで結婚しないと決めていたなんて話と、過熱報道、多忙な状況などが8年間の長い交際期間になったものと思われます。

 松山千春さん曰く、

”辛抱強く我慢強い女性” ”決して表に自分から出るような女性じゃない”

と言う事で、華やかな芸能界で活躍する夫の大きな支えとなっているのだと思います。松山千春さん自身が家庭を大事にする方だと言うのは、ファンのみならず感じられることだと思います。

お二人の間には、1986年3月30日生まれの月菜(るな)さんと言う一人娘が居ります。娘さんは一般人の方なので、詳細は知り得ないのですが、ご結婚後、2026年3月23日に男児を出産します。

松山千春さんは70歳にて『初孫』を抱くことになります。

嬉しい知らせは松山千春さんがパーソナリティーを務めるラジオ番組『松山千春 ON THE RADIO』で、初孫の誕生を「本当に可愛いもんだな」とデレデレな様子で語っておりました。

その様子は、ジイチャンになれたと喜ぶ姿は、微笑ましくも、家族愛の強い方である事を感じます。

moonが若い頃、行った長渕剛さんのライブのMCで、松山千春さんが、「剛、これみろ、このギター、1000万だぞ!」と言って、特注の漆と螺鈿(らでん)で仕上げられたギターを見せてくれたそうです。

一つ年下の長渕剛さんは、「千春さん、音はどうなんですか?」と聞いたら「バカヤロー、そんな事より、この仕上がりいいだろう!」と切り返されたと言う話をされていて笑いを誘っていましたが、

昔から、豪快な感じがする方ですが、自分はフォークシンガーだと言う信念は一貫しています。

自分を世に出してくれた竹田健二さんが、生前「音楽業界(芸能界)では、規律を持って生きて行かないと流されてしまう」と言う思いからデビュー間もない松山千春さんに下の様にアドバイスしたそうです。

「千春、酒、タバコ、女、どれかひとつをやめなさい。そうしないとね、プロとしての自律心・自制心が足りないことになるから」と助言される。松山は「タバコはやめられそうにないし、女も嫌だっていっても女がすがってくるから、酒(をやめる)かなぁ。じゃ、オレは酒をやめますよ」と約束し、以後禁酒を続けている。

出典:Wikipedia 松山千春

又、竹田健二さんが、ギター一本で勝負するコンサートステージの傍らに、ギター一本では寂しいだろうからと「一番気高いバラの花を一本置いとくよ。」と言われ、初めてのステージから現在もステージの傍らにバラの花が置いてあると言います。

自分がボケて、自分の誕生日を忘れても、竹田健二さんの命日は忘れないと言う松山千春さん。

若い頃は、女性が寄ってきてモテていたのだと思いますが、家族を思い、浮気の噂など一切ない松山千春さん。本物の漢ですね~。

いかがだったでしょうか?今回は松山千春さんの結婚や昔の出来事、お孫さんの話などをまとめてみました。

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