鈴木雅之妻と中学で出会う?サングラスは体の一部!マイソウルな姉!

ポピュラー

鈴木雅之さんと言えば、『シャネルズ』から『ラッツ&スター』と一世を風靡するグループから、ソロでも沢山のヒット曲で知られるミュージシャンですね。

アラカンの筆者moonにとっても、とても馴染み深く、深夜のスナックなどで隣の席のオジサンが『ロンリー・チャップリン』等を熱唱しているのも定番の風景となっています。

黒いドーラン(実際は靴墨)を塗り黒いサングラスで登場した『シャネルズ』を見ていた中学生の頃の自分と黒いサングラスの事も思い出しながら、あの頃から、現在までを覗きに行ってみましょう。


鈴木雅之妻!実家は旋盤工場、幼い頃に受けた姉と黒人音楽の影響

鈴木雅之さんは、1956年〈昭和31年〉9月22日生まれと言う事なので、2026年3月現在69歳ですね。本名も同じです。

血液型はAB型で、身長は178cmです。ラブソングの王様なんて紹介されることもあるようですね。

「Martin(マーチン)」と呼ばれて、親しまれている方ですが、このマーチン、「まさゆき」の『ま』からと思いきや鈴木雅之さんが中学生の頃の映画『007シリーズ』のボンドカーのアストンマーティンに憧れてのマーチンなんだと『MUSIC FAIR』でお話されておりました。

アストンマーティン好きの友人に『アストン』と呼ばれる方もいるのだとか。

ご出身は、東京都大田区のご出身。大田区は、田園調布のような高級住宅街から、下町の町工場が立ち並ぶ職人の街の顔も持っています。

鈴木雅之さんのご実家は後者の方で、ご実家はお父さんが経営する下町の旋盤の町工場です。

内気で内向的な子供時代だったそうです。何をするのも4歳年上のお姉さんの鈴木聖美さんについて行くような子供時代だったようです。

鈴木聖美さんは小学5~6年生の頃に、近所に住んでいる叔父さんが聞かせてくれたブラックミュージックを聴いていたのだそうです。

その頃、日本の音楽シーンは洋楽を日本語の歌詞てカバーするような曲が沢山あり、当時のラジオや、普及し始めたテレビなどから流れてくる時代でした。

そのような背景もあり、洋楽もなじみ深く、すんなりと聞く事が出来たと言います。

お姉さんの鈴木聖美さんは、黒人の声に魅了され、ミュージシャンとして活躍されてます。先述の『ロンリー・チャップリン』での鈴木雅之さんとのデュオは、誰もが知るところではないでしょうか?

鈴木雅之さんの幼い頃は、声が大きく、何事にも毅然と立ち向かうと言う子供だったお姉さんの鈴木聖美さんに後ろで、影を潜めているような子供時代だったそうなので、

当然の様に、一緒に音楽を聴いて育ったのではと思います。


鈴木雅之妻!姉の鈴木聖美、後輩のクワマン、高校で田代まさしと!

鈴木雅之さんと鈴木聖美さんのご姉弟については、沢山の面白いエピソードがあるのですが、鈴木雅之さんが、お姉さんについて

いや、でもね、けっこうマセてたっていうかさ。私にあの、マイ・ソウル・お姉ちゃん・鈴木聖美っていうのがいまして。

で、そのお姉ちゃんの影響っていうのがすごく大きくて。そのなに? まあ、リズム&ブルースとか、そういうものに傾倒してったっていう部分がすごくあるのね。で、その中でやっぱり小学校の5~6年ぐらいからブラックミュージシャンというかね、テンプテーションズとかジェイムズ・ブラウンとかマーヴィン・ゲイという。そういうヴォーカリストたちっていうものに対する憧れっていうのは、当時はドーナツ盤ていうシングル盤とかね、レコードを聴きながらジャケットを見て、そのステップ踏んでいる姿とか、写真に写ってるのがカッコいいなぁっていうのがすごくあって。

出典:フジテレビ TK MUSIC ログより NON-EDIT TALK : 鈴木雅之 * 中居正広  1996年 9月19日

そんな風にお話されています。相当お姉さんの鈴木聖美さんからの影響が大きかったようです。

やがて、思春期になると、姉の鈴木聖美さんは当時『スケ番』と呼ばれるような(懐かしい)女番長となります。

当時は不良と呼ばれる感覚も若干今とは異なっていて、姉御肌で、弱い仲間を助けるようなイメージも持たれていました。

姉の影響を受けている鈴木雅之さんでしたから、当然のごとく、下町のやんちゃな友人との絡みが多くなり、あまり素行の良い子供とは言えませんでした。

1972年(昭和47年)4月に芝浦工業大学工業高等学校機械科に入学します。そこには、のちに『シャネルズ』のメンバーとなる田代まさしさんがいました。

田代まさしさんも素行が悪く、当時の不良グループや暴走族とつるんでいましたが、田代まさしさん曰く、鈴木雅之さんは「俺より不良だった。」と、色んな場面でお話されています。

田代まさしさんの両親は早くに離婚しており、父や継母との生活がうまくゆきませんでしたが、高校を卒業します。

一方、鈴木雅之さんは、父との関係は問題なかったのですが、高校を中退してしまいます。

高校在学中に映画『レッツ・ザ・グッド・タイム・ロール』に登場するドゥーワップに刺激され、ドゥーワップグループ結成しようと、実家の旋盤工場で働きながら、

傍らコーラスやダンスの練習を重ねます。ある時、仲間の一人が、バイク事故で亡くなってしまいます。

その事を機に鈴木雅之さんは、バイクを降り、音楽に打ち込むようになります。

鈴木雅之さんのお母さんに気に入られ、ちょくちょく居候していた田代まさしさんも一緒に練習に加わる事になります。

鈴木雅之さんの父は1992年に、母は2020年に24年振りの紅白歌合戦出演が決まった日にお亡くなりになったそうです。


鈴木雅之妻!高校中退後、音楽に絞り込んだ理由は、”仲間の死”

同じ頃、小中学校で一緒だった佐藤善雄(さとうよしお)さんと中学校の同級生の久保木博之(くぼきひろゆき)さんも人達も練習に加わりだします。

 のちに幼稚園から中学時代まで一つ後輩と言うクワマンこと、桑野信義さんもサックス奏者が抜けた後を手伝って欲しいと鈴木雅之さんに頼まれて加入します。

1975年鈴木雅之さんが19歳の時、シャネルズを結成します。バンド名は、フランスの高級アパレルブランド・シャネルからかと誰もが思ったのでしょうが、実は関係ありませんでした。

鈴木雅之さんの憧れであったアメリカのオールディーズバンド「シャ・ナ・ナ(Sha na na)」とドゥ・ワップグループ「ザ・チャンネルズ(The Channels)」を合わせたら事からだそうです。

バンドを始めた頃は「シャ・ナ・ナ」のコピーバンドとして活動してました。その頃のバンドはキャロル解散のタイミングもあり、ロカビリーバンドの多い中、

他の人と違う事をやりたいと、ドゥ・ワップやリズム&ブルースの音楽へ進みます。

1980年のメジャーデビュー時は田代まさしさんは、トラック運転手として、久保木博之さんはガソリンスタンドで、鈴木雅之さんは旋盤工場で、佐藤善雄さんは、デパートで山本山海苔の販売員として働いていました。

5年近くのライブハウスなどでの下積みを踏み、1980年2月にレコードデビュー曲の『ランナウェイ』がいきなりの110万枚を売り上げるミリオンヒットとなります。

デビュー時のメンバーは10人。田代まさしさんの提案で、顔を黒く塗っていたのは、上のメインボーカリストの4人で、その他のメンバーは、メイクはしていませんでした。

デビュー直後のTBSのザ・ベストテン出演の時は、黒柳徹子さんがそれぞれのメンバーの本業を「あなたは、ガソリンスタンドの店員さん・・」とか本業を確認されていました。

リアルな不良だったシャネルズのメンバーは、半年後にデビューした横浜銀蝿の不良スタイルだが、みんな大学に行っていた。という所で気に食わなかったような話もあります。


鈴木雅之妻!ヒットから事件、結婚、サングラスは体の一部?

1980年2月にシャネルズが売れ、人気もうなぎのぼりの7月に、鈴木雅之さんにとっては、思わぬ事件が起こります。

しかし同年7月、メンバー10人のうち5人(久保木・桑野・新保・山崎・須川)が埼玉県青少年保護育成条例違反(わいせつ行為)の疑いで書類送検され、シャネルズは半年間謹慎する。なお、この件に関しては田代は関与していない。

出典:ウィキペディア 田代まさし

 プロモーターが連れてきたとされる16歳の女性とわいせつ行為に及んだと言う事のようですが、当時の個人的な記憶では、それほど大きな報道だった記憶はありません。

この事件の謹慎明けの1981年に『CHANELS』を『SHANELS』に変えていますが、先述のフランスのシャネルからクレームが入ったのではないかと言う憶測も飛んでいました。

1982年には資生堂から楽曲の依頼が入った事などもあり、又、ドゥ・ワップ以外へも枠を広げようと言う意味で前に本の題名にした『RATS&STAR』(ラッツ&スター)に改名します。

反対から読んでも同じなのは、ドブネズミが歌うとスターになれると言うような意味だそうです。

1983年の資生堂の春のキャンペーンソングが、ラッツ&スターのデビュー曲となる大ヒットソング『め組のひと』は80万枚の売り上げを記録します。

さて、鈴木雅之さんは、元々、気が弱くナイーブな性格の方の様で、サングラスをかけていないと落ち着かないと言います。インタビューでは、体の一部とも!

現在はドイツの高級ブランド「CAZAL(カザール)」の「LEGENDS MOD.642」と言うティアドロップ形状が特徴の80年代にリリースされたモデルだそうです。

同じブランドを長年使っているのかもしれませんが、レコード会社もデビュー時からエピックレコードから一度も変えることなく、エピックレコードの最長のアーティストだそうです。

中島みゆきさんなどもそうですが、レコード会社が変わらない、変えない姿勢と言うのは、信頼できる感じもします。

そして、鈴木雅之さんは、奥さんの礼子さんも同じ東京都立大森区立第九中学校で、2人は同級生として知り合い、その当時からお付き合いが始まったと言う事です。

1985年4月3日にラッツ&スターの他のメンバーと一緒に合同で、東京の赤坂の日枝神社で行われました。

仲人は桑田佳祐、原由子ご夫妻。鈴木雅之さんは、若い頃にヤマハが主催する「EastWest」と言うバンドコンテストに出場した際にサザンオールスターズと渡り合ったことがあり、お互いにリスペクトし合う仲なのです。

結婚式を終えたメンバーで、そのまま、フジテレビの『夜のヒットスタジオ DELUXE』に出演した事などから、話題になりました。

残念な事に、この少し後から、田代まさしさんの不祥事などが続き、ラッツ&スターとしての活動を耳にする機会は減りましたが、バラエティ番組で田代まさしさんは人気者だっただけに残念です。

鈴木雅之さんのソロとしては、 『ガラス越しに消えた夏』を皮切りに、『渋谷で5時』『違う、そうじゃない』などお馴染みのヒット曲が沢山あります。

サングラスも80年代からこだわりのあるものを利用していて、奧さんとも中学生の時からお付き合いがあり、レコード会社にも義理を守り、仲間も幼馴染と言う鈴木雅之さん。

もしかしたら、病気治療中の桑野信義さんや、社会復帰に向けての活動中の田代まさしさんも明るい兆しが見えると言う情報もある二人の為にラッツ&スターも解散せず、守っているのかもしれません。

ブラックミュージックにおける「Super Bad」って言葉は日本語に直訳すると「ものすごいワル」となりますが、実は「ものすごくカッコいい」と言う意味のスラングだそうです。

 いかがだったでしょうか?今回はまさに、「Super Bad」な鈴木雅之さんのお話でした。

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