平井堅さんと言えば、ドラマチックな歌声と歌唱力で多くのヒット曲をお持ちです。外国人のような深いホリの顔立ちと、長身の為、外国人と間違われることもしばしばだそうです。
しかし、ここ数年、あまりお見受けする機会が少ないようにも感じます。平井堅さんの歌は、『大きな古時計』等の童謡や、『見上げてごらん夜の星を』などの古い楽曲のカバーソングも有名ですね。
今回は平井堅さんの年齢やご家族、若い頃から近況までを深堀してみます。
平井堅の年齢は?実家の家族構成や、音楽との出会い。高校は名門!
平井 堅(ひらい けん)さんは、1972年〈昭和47年〉1月17日に大阪府で生まれます。2歳の時から三重県名張市に引っ越し、高校を卒業するまでその場所で育ちます。
現在(2026年1月末)ちょうど、54歳になられたばかりですね。身長183cmと言う事で、やはりテレビなどで見る通りすらりとした長身です。血液型はA型と言う事です。
父は平井みちのりさん、母は佐和子さんと仰る方です。お父さんは2004年にお亡くなりなってますが、お母さんはご健在のようです。
平井堅さんの外国人のようなホリの深い顔立ちは、お父さんに似ているのだとか。又、『桔梗が丘』と言う楽曲のミュージック・ビデオで、お母さんの姿を拝見する事も出来ます。
出身の小学校は、名張市内の桔梗が丘南(ききょうがおかみなみ)小学校と言うです。子供の頃は、活発な子供で、歌が好きでした。
小学校2年生の時に、人気ドラマ『ふぞろいの林檎たち』で使われたサザンオールスターズの『いとしのエリー』に感銘を受け、そこからサザンオールスターズの大ファンになります。
中学は名張市立北中学校と言う地元の中学校で、活発でスポーツも得意だった平井堅さんが選んだ部活動はバスケットボール部でした。
意外な事に中学入学時は150cm程度の身長だったそうですが、花形選手で、中学生活の中で、30㎝も身長が伸びたと言う事でした。
高校は三重県の上野高等学校です。この高校は進学校とされていて大半の方が大学に進学するそうです。部活はせずに、音楽を続ける為にゴルフ場でアルバイトもしながら、
バンド活動も始め、友人とカラオケに通ったりと言う事が多かったのですが、その頃は、小学生の頃から歌手になろうと言う思いを誰にも打ち明けなかったそうです。
平井堅の年齢は?大学は第二希望校。サザンオールスターズへの想い
大学は、サザンオールスターズの母校として知られる青山学院大学を目指していましたが、まさかの、母親が願書を出すの忘れたと言う理由で、
第二希望だった横浜市立大学商学部に入学します。高校まで表に出さなかった「歌手になりたい。」という思いを、大学では大いに発揮します。
周りに「歌手になる」と公言し、軽音楽部に籍をおいて、やはりサザンオールスターズのコピーバンド「NO-NAME(サザンのシングル「EMANON」の逆さ読み)を組んでいたのだそうです。
大学に入り、サザンオールスターズ一辺倒だった平井堅さんも遅ればせながら、ビートルズやローリングストーンズなども聴き始めました。
それでも、桑田佳祐さんの声に憧れて、河原で大声で叫んだり、バーボンウイスキーでうがいをしたりすると、1日くらいはつぶれた声になりますが、すぐ元に戻るとインタビューで語っています。
その頃、平井堅さんはサザンオールスターズが好き過ぎる為、桑田佳祐さんの自宅の門の上に、「桑田佳祐様、原由子様、コーラスでいいので雇ってください。平井堅」とメッセージを添えたデモテープを作り置いてきたと言う事もあったそうです。
そのデモテープには松任谷由実さんが大好きだったと言うプロコル・ハルム「青い影」と言う曲と、ビリー・ジョエル「ニューヨークの想い」の2曲が収録されていました。
淡々としているように見える平井堅さんですが、熱い気持ちだったのが判ります。
平井堅の年齢は?若い頃の売れない歌手生活、風呂嫌いエピソードも
大学時代の平井堅さんは、横浜や新宿のライブハウスで活動しながら、家庭教師のアルバイトも続けて、オーディションやデモテープ作成に励みました。
その甲斐があって、ソニーミュージックの企画にビリージョエルの「ニューヨーク・ステイト・オブ・マインド」を歌い、合格を果たします。大学に入るまで、洋楽を聞かなかったと言うのも意外ですね。
そんな平井堅さんですが、私生活の中では、とにかくお風呂が大嫌いで、上京した18歳から30代までシャワーだけで、湯舟に浸かる事は滅多になく、体も洗わなかったとライブの合間に話し、ドン引きされた経験があります。
40歳を越えたあたりから、代謝を上げる為、湯船に浸かるようにしているそうですが、平井堅さんにとっては苦行なのだそうですが、大好きな曲を2曲かけて、お風呂の中で熱唱するそうです。
竹内まりやさんの「色・ホワイトブレンド」と「元気を出して」などもお気に入りなのだそうです。
何はともあれ、ソニーミュージックに見出され、その後、ボイストレーニングなどを積み、1995年にCDデビューを果たします。
デビューシングル『Precious Junk』はフジテレビドラマ『王様のレストラン』(三谷幸喜作品)に起用されましたが、オリコン50位程度でした。
その後、5年もの間、ヒット曲に恵まれることなく2000年には、とうとう契約打ち切りと言う話にまでなってしまいます。
この曲が売れなければ、契約打ち切りという所まで追い詰められた平井堅さんは、それまでの自作の曲ではなく、R&Bを取り入れた他の人の作詞作曲の曲『楽園』を2000年1月19日に発売します。
この曲のCMに当時、バラエティ番組などで活躍されていた江角マキコさんに、平井堅さんが直接依頼し、深夜枠で流れると、大きな反響が起こります。
ようやく8枚目のこのシングルで、オリコンでも7位となり、50万枚超えるヒット曲となりました。
この曲をきっかけとして、童謡の『大きな古時計』のヒットであったり、『瞳をとじて』等など、ヒットメーカーとなります。
平井堅の年齢は?デビュー30周年を前に活動が見えず心配の声が!
昔から平井堅さんは、ホリの深い外国人のような顔立ちで、特にインド人に間違われる事が良くあるそうですが、2014年には大勢のインド人とインドを舞台に『ソレデモシタイ』と言う楽曲のPVを製作しています。
その後も1年に1作品くらいの映像作品や、カバーアルバム、オリジナルアルバムをリリースしていましたが、
2022年5月11日の Ken Hirai Films Vol.16『Ken’s Bar 2021 – ONLINE -』を2021年唯一の単独公演の様子を映像作品にして、これを最後に、平井堅さんの活動が見とめられなくなりました。
コロナ禍において活動が狭められていたのではないかと思われますが、コロナが落ち着いた後3年以上の間、活動がありません。
又、平井堅さんのライフワークともいえる『Ken’s Bar』と言うバーさながらに、いつもの演奏とはちょっとアレンジして、お酒などを飲みながら音楽を楽しむライブも行われませんでした。
一部の平井堅さんのファンの間では、『コロナ鬱』のような事になっているのではないだろうか?と心配の声が囁かれます。
又、その間にも平井堅さんが、尊敬していたと言うミュージシャンのKANさんもお病気でお亡くなりになっており、KANさんの葬儀、告別式で沈痛な表情を浮かべている記事が、
週刊誌で報道されると、更にファンの皆さんは、繊細な平井堅さんの心情を思います。2023年の11月にホームページが1年4か月ぶりで更新されたのを最後に、動きがなくなります。
2024年3月にフライデーの直撃インタビューを受け、作詞や作曲を普通に続けているという事でしたが、その後、
1年2か月の沈黙を破り2025年5月13日に横浜アリーナにて開催したデビュー30周年記念ライブ『Ken Hirai 30th Anniversary Ken’s Bar – One Night Special !! -』を開催しました。
ベースにハマ・オカモトさんが参加し、演奏楽器も通常のKen’s Barより多めで、平井堅さんのアカペラの声は健在でした。
又、亡くなられたKANさんの楽曲のサビの部分や、イントロを起用し、ご自身の曲につなげて行くアレンジなども行われていたと言う事です。
ライブ終了後にお客さんを外に誘導するサウンド・エフェクトにもKANさんが好んで使っていたビリー・ジョエルさんの「And So It Goes」と言う曲を流していたと言う事です。
故人へのリスペクトの仕方も、音楽でと言うのも、平井堅さんの深い部分を感じさせる心意気の様にも思えます。
有客のライブとしては5年越しになる生の平井堅さんの声に、涙を流すお客さんが大勢いたそうです。
このライブを皮切りにデビュー30周年のアニバーサリーライブが始動され、心待ちにした多くの平井堅さんのファンの方の喜びは格別かと思います。
今後もマイペースでも、平井堅さんの歌声が聞こえる事を期待いたします。
いかがだったでしょうか?今回は平井堅さんの若い頃から現在の活動について、スポットを当ててみました。

コメント