宇崎竜童、若い頃のダウンタウンブギウギバンドは?奥さんは阿木燿子

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宇崎竜童さんが率いるダウンタウンブギウギバンドは、1972年の終わり頃に、『サディスティック・ミカ・バンド』の長い名前に対抗して、その名前を、宇崎竜童さんが思いついたところから、このバンドが生まれました。

私moonが、子供の頃、このバンドの影響力は大きく、テレビはもちろん、ラジオや雑誌、漫画などでも頻繁に「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」の中のセリフ

『アンタあの娘の何なのさ』と言うフレーズを聞くことになりました。そして、バンド名と共に、そのフレーズが日本中に知れ渡る事になります。

今回はそんな宇崎竜童さんの若い頃、幼少期の境遇、ダウンタウンブギウギバンドでの活躍ぶりなどをご覧ください。



宇崎竜童が若い頃、ダウンタウンブギウギバンドは時代の寵児

当時、アマチュアのバンドで活動していた宇崎竜童さんですが、バンド仲間に『ダウンタウンブギウギバンド』と言う名前のバンドで、レコーディングしようと提案したところ、

メンバー全員が怖気づいて解散状態になり、宇崎竜童さんは新たなメンバーを集めるところからスタートとなったという事です。

約4か月を経て、宇崎竜童さんはバンド仲間を集めて、1973年4月に改めて『ダウンタウンブギウギバンド』が結成されます。

ダウンタウンブギウギバンドは、宇崎竜童さんと共にその年の12月に『知らず知らずのうちに』と言う楽曲でメジャーデビューを果たします。この曲はしっとりしたバラード調の曲です。

当時、子供だったmoonですが、ユニフォームのツナギ姿が斬新だったのを覚えております。

これは初期メンバーで2020年4月13日、虚血性心不全の為、お亡くなりになった故・相原誠さんがキャロル脱退後に半年間アルバイトしていた運送屋で着ていた作業服から思いついたと言います。

まさに、そのルックスでインパクトは絶大で、本格的なミュージックファンからお茶の間まで幅広いファン層がいらっしゃるようでした。



宇崎竜童、若い頃は?ご両親の運命に翻弄されながらの幼少期を過ごす。

さて、少しお話は前後しますが、宇崎竜童さんの幼少時代は、どうだったのでしょう?宇崎竜童さんが生まれたのは1946年(昭和21年)2月23日と戦後間もない時期です。

ちょうど半年ほど前の1945年(昭和20年)8月14日に、戦況が悪くなる日本で、宇崎さんのお母さんは、宇崎さんのおばあちゃんに「こんな時期(戦中の大変な時)に、子供を産んでもいいものだろうか?」と相談したと言います。

二人で、明日の晩まで考え、答えを出そうと言う事になり、2人とも床に就きます。次の日正午に「玉音放送」で日本が降伏し終戦となったことを天皇陛下がラジオで伝えました。

その放送を受け、宇崎竜童さんが生まれる事となりました。終戦の日が少し先になれば、生まれてこなかったかもしれないと後に宇崎竜童さんご本人が取材でお話しています。

母の疎開先の京都府伏見区で生まれた宇崎竜童さんでしたが、お父さんが会社を経営されていて、良い暮らしぶりをしておられ、生まれて間もなく、東京の代々木上原に引っ越してそこで暮らすことになります。

「お坊ちゃん」であった宇崎竜童さんですが、中学3年生の時にお父様の経営する船具店が倒産、豪邸から借家住まいと言う生活に様変わりしました。

宇崎竜童さんご本人は、大学を出て、安定した職業へと考えて『内田洋行』に就職するも肌に合わず退社。その後、義理のお兄さんのプロダクション会社に入社し、2年間、松崎しげるさんのマネージメントを担当しておられました。

宇崎竜童の若い頃、天才的作詞家の妻と、伝説のアイドルと巡り合う。

ダウンタウンブギウギバンドは、1973年12月に東芝のEXPRESSレーベルから「知らず知らずのうちに」を発表の後

宇崎竜童さん率いるダウンタウンブギウギバンドは1974年12月に「スモーキン・ブギ」3曲目、

1975年3月に「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」4曲目をリリースするのですが、両方とも大ヒットしています。

ブルース調の渋めの楽曲の「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」では、セリフとして入る「アンタあの娘の何なのさ」が、当時の流行語になるほどでした。

ちょっと面白く、インパクトがあり、かっこよかったというのが、当時の子供目線でした。

奥さんの作詞家の阿木燿子さんとは大学の同級生で軽音楽部で宇崎竜童さんと知り合い1971年、25歳の頃にご結婚なされています。

楽曲も阿木さんが作詞、宇崎さんが作曲と言う曲もたくさんあります。

そんな中、当時、ホリプロの中で、良い曲を書くシンガーソングライターに、アイドルの曲を書いてもらうと言う流れがあったようです。

桜田淳子さんは、中島みゆきさんの曲でヒット曲が出てましたし、山口百恵さんが宇崎竜童さんの名前を番組で発したことから、宇崎竜童、阿木燿子のタッグで百恵さんの活動が始まります。

1976年「横須賀ストーリー」1977年「イミテイション・ゴールド」1978年「プレイバックPart2」1979年「しなやかに歌って」1980年「ロックンロール・ウィドウ」「さよならの向こう側」など

山口百恵さんの芸能活動の半ばから、あの引退コンサートまで山口百恵さんと長い間、宇崎竜童さんは楽曲でつながる事になります。

何しろ、宇崎竜童さんの魅力は短いセンテンスで、インパクトを与える『フレーズ』です。これは、阿木燿子さんの域かもしれませんが。



宇崎竜童の若い頃、ダウンタウンブギウギバンドの解散と、繋がる人達

1979年12月31日の「ASAKUSA NEW YEAR ROCK FESTIVAL’79-’80」(浅草国際劇場)を最後に、『港のヨーコ・・・』のイメージを払拭したいと宇崎竜童さんは考え、過去の楽曲を封印しました。

1980年にダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンドに改名し、ダウン・タウン・ブギウギ・バンド時代の楽曲は演奏せず、トレードマークだったツナギも着るのを止めて、シリアスなブルースとロックへ邁進します。

翌1981年にEPIC・ソニーと契約、「ブギウギレーベル」を立ち上げますが、ソロ活動期間を経て同年12月31日、ASAKUSA NEW YEAR ROCK FESTIVAL’81-’82」(浅草国際劇場)を最後に解散となりました。

さて、お若い方はご存じないかもしれませんが、所ジョージさんは、昔は、歌手としてデビューして、テレビに出ていました。しかし、長い間売れない時期があったようです。

ある時、所ジョージさんが宇崎竜童さんを訪ねてきて、オーディションに、ことごとく落ちているという話の中、宇崎竜童さんに煙草をワンカートン渡して「それ、賄賂です。」と言ったそうです。

宇崎竜童さんは「じゃぁ、渋谷のライブハウスでライブあるから、前座やりな。」って事になったと。

その後、テレビ局が面白がって所ジョージさんは、順調にデビューすることが出来たんだそうです。

しばらく、宇崎竜童さんの付き人を所ジョージさんがしており、所沢出身と言う事で、所ジョージって名前は宇崎さんが名付親になったというお話も面白いです。

又、デビュー前の桑田佳祐氏に大手事務所を勧めたりと、後の「大物」たちにも、実はさりげない貢献もしている大物ぶりを感じる活動も多いようですね。

長い芸能生活の中、様々な方と運命的に出会い輪を広げて行く宇崎竜童さんは、まだまだご活躍中です。

以上、宇崎竜童さんの若い頃のダウンタウンブギウギバンドでの活動と、奥さんとの制作された楽曲のお話をお届けしました。

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