西岡恭蔵と奥さんのKUROとの出会いと『プカプカ』大阪の喫茶店!

カバーソング

西岡恭蔵さん。

子供の頃、聞いた記憶があり、最近再び、聞いたらとてつもなく深く感じる曲や人々と言うのは、そうそう多くは無いように思いますが、その中の一つが、『プカプカ』と言う曲であり、

この曲の作詞作曲を手掛けた西岡恭蔵さんの持つ深さも、底知れないものを感じます。この西岡恭蔵さんの若い頃の楽曲から、どのような人生を歩んだ方なのか?

今回は西岡恭蔵さんの『プカプカ』について、又、息子さんのキーワードや、奧さんの事などに取り上げたいと思います。




西岡恭蔵と奥さん。中学の時は柔道部。親分肌の人気者だった!

西岡恭蔵(にしおかきょうぞう)さん、ニット帽、口ひげ、丸い縁の眼鏡の奥の細い優しい目。そんな印象がある方です。愛称は『ゾウさん』

本人もペンネームとして『象 狂象‐ぞう きょうぞう‐』を名乗っておりまして、がっちりした方ですが、中学一年生の時にはなんと100kgを越える体格だったとの事で「象」の雰囲気も醸し出しています。

大人になってからは、太っているイメージはありませんね。

「ぷかぷか」もクレジットは、象狂象となっています。

本名は読み方も漢字も同じ「西岡恭蔵」です。三重県志摩郡志摩市布施田という所の出身で1948年5月7日生れの方です。

三重県立伊勢高等学校時代は、柔道部に所属していました。ご友人の方が書いた高校時代の思い出として、

パーティでいっしょに歌おう、と彼がギター、わたしが歌でハーブ佐竹の「女心のうた」をやりました。途中で会場が白けてしまったなぁ。あれが恭蔵さんの最初のステージやなかったやろか。名誉挽回と文化祭の時には、仲間に女性も加え、PPMやビートルズのナンバーをやって好評でした。

恭蔵とkuroの音楽まつり 2009

(イベント要項の中よりプカプカ志摩実行委員会 代表 浜口三代和 談 抜粋)

そして、とにかく親分肌の方だったと述懐されています。高校を卒業すると、西岡恭蔵さんは近畿大学へ進学します。



西岡恭蔵奥さん。大坂の伝説のフォーク喫茶ディランから出発した!

さて、1969年8月15日、場所は大阪・難波元町に大塚まさじさんと石村洋子さんが小さなフォーク喫茶『ディラン』をオープンしました。

『ディラン』は、文字通りボブ・ディランなどアメリカン・フォークをかける店として評判になり、当時、近畿大学の学生だった西岡恭蔵さんは、音楽集会で出会った大塚まさじさんに誘われ通い詰めます。

通い詰めている間に、雇われマスターの様になります。常連客として、伊藤銀次さんや石田長生さん、永井洋(ながい よう)さん、中川イサトさん、友部正人さん、加川良さんなど、若いフォークソング、ニューミュージックの仲間が集う場所となりました。

そんな中、常連客と共に、フォークグループ「ザ・ディラン」を結成します。グループと言っても始めの内は、なんとなくメンバーを変えながら緩い感じのユニットでした。

それでもメインになっていたのは西岡恭蔵さん、大塚まさじさん、永井洋さんでした。

1971年(昭和46年)頃に、大学を卒業する事になった西岡恭蔵さんは音楽を諦め、実家の真珠の養殖業のを継ぐために実家に戻ります。

西岡恭蔵さんがグループを離れると、大塚まさじさんと永井洋さんは、『ザ・ディランⅡ‐セカンド‐』を結成します。

ザ・ディランⅡは、デビューアルバム『きのうの思い出にわかれをつげるんだもの』を発表しますがそのレコーディングに西岡恭蔵さんは参加しています。

さて、西岡恭蔵さんが大学に入る頃、同年代の19歳の少年が横須賀の基地から22口径のピストルを盗みだし、

警備員やタクシーの運転手4人を、日本のバラバラの場所で次々と殺害すると言う世間では『永山事件』と呼ばれる事件が巷を騒がせます。

犯人の永山則夫は、5歳の頃、北海道で親に捨てられ、極貧の中で育った事で、人を傷つける事や、やがては殺す事にも罪悪の感覚が身についていないと言う事を獄中で書いた『無知の涙』という本がベストセラーになっていました。

本を読んだかどうかまでは解りませんが、(読書家だったと言われているので、恐らく読んでいると想像できます。)この話は西岡恭蔵さんにとっては衝撃的でした。

大手の真珠の養殖業の息子として、汗水垂らして働いてくれる両親がいる事、普通に大学に通えた事。

自分とあまりに違う過酷な境遇にいた永山被告、環境で、人生が激しく歪められてしまった人間はそんな風になる事を知ります。

一度は、実家の稼業を継ごうと、地元の三重県に戻ります。西岡恭蔵さんの実家は大きな旧家でしたが、西岡恭蔵さんは再び家を出て、音楽で生きて行くことを選びます。



西岡恭蔵、奥さん。名曲プカプカの秘密。ジャズシンガーと女子大生

西岡恭蔵さんの代表曲に『プカプカ』と言う曲があります。「ザ・ディランⅡ」としても、代表曲として挙げています。

おれのあん娘はタバコが好きで
いつも プカ プカ プカ
体に悪いからやめなって言っても
いつも プカ プカ プカ

遠い空から降ってくるって言う
「幸せ」ってやつがあたいにわかるまで
あたい タバコ やめないわ
プカ プカ プカ プカ プカ

おれのあん娘はスウィングが好きで
いつも ドゥビ ドゥビ ドゥ
下手くそなスウィング やめなって言っても
いつも ドゥビ ドゥビ ドゥ

あんたが あたいの どうでもいいうたを
涙 流すまで わかってくれるまで
あたい スウィング やめないわ
ドゥビ ドゥビ ドゥビ ドゥビ ドゥ

Ah おれのあん娘は 男が好きで
いつも ウフ ウフ ウフ
おいらのことなんか ほったらかして
いつも ウフ ウフ ウフ

あんたが あたいの 寝た男達と
夜が明けるまで お酒のめるまで
あたい 男 やめないわ
ウフ ウフ ウフ ウフ ウフ

おれのあん娘はうらないが好きで
トランプ スタ スタ スタ
よしなって言うのに おいらをうらなう
おいら 明日死ぬそうな

あたいの うらないが ピタリと当るまで
あんたとあたいの 死ぬ時わかるまで
あたい トランプ やめないわ
スタ スタ スタ スタ スタ

あんたとあたいの 死ぬ時わかるまで

あたい トランプ やめないわ
スタ スタ スタ スタ スタ

象狂象 作 「プカプカ」

ぷかぷかは、数知れぬアーティストがカバーしてる名曲です。尾崎世界観さんはインディーズ時代に、桃井かおりさん、泉谷しげるさん、憂歌団の木村さん、つじあやのさん・・・。

オリジナルのこの曲は、何度か『プカプカ』のサブタイトルが変わっていると言う不思議な曲です。

初めに世に出たのは、ザ・ディランⅡのデビュー・アルバム『きのうの思い出に別れをつげるんだもの』が、大阪のインディーズだったURC(アングラレコードクラブ)社から発売され、

そのB面の1曲目に、「プカプカ(みなみの不演不唱)」という名前で出ています。”不演不唱”は、”ぶるうす”と読むようです。

半年後に、西岡恭蔵さん自身が出したソロのデビュー・アルバム『ディランにて』のライナーノーツでは、サブタイトルが新たに「赤い屋根の女の子に」となっています。

この『ぷかぷか』と言う曲のモデルの女性として、1970年代に女優からジャズシンガーとして、アンダーグランドとメジャーの境目を持たず、人気となっていた安田南さん(1943年11月14日生れ・没年不詳~凡そ18年の間色々なタイミングで死亡説が出ている~)と言う方で、

(みなみの不演不唱)の『みなみ』であり、『俺のあん娘』でもあります。

安田南さんは、矢野顕子さんが15歳の頃から面倒を見てもらっていたと言う作家の安部譲二氏の経営する東京・青山にあった伝説的なジャズ・クラブ(ライブハウス)「ロブロイ(THE ROB-ROY)」などでも常連シンガーであったと言います。

そんな、安田南さんと、西岡恭蔵さんは、大阪での共演で親しくなったと言います。この歌詞を見れば、自由奔放で男を振り回す女性ともとられるかもしれませんが、

本当に、安田南さんは西岡恭蔵さんとお付き合いされていたのか?と言うと正確には解りません。

確かに、歌詞通りに、付き合った男の数を70~80人なんて、あけすけにしていますが、そんなところも、ポーカーの名手だった事なども、ちょっと毒舌なところも含めて「かっこいい方」だったのだと思います。

 西岡恭蔵さんが、一方的にインスパイアされ、あるいはお互いにリスペクトしていた相手だった様です。

客観的に見ると、ダイレクトに恋人から、「寝た男たち」と「お酒飲めるまで」と言われたら、結構きついだろうなと思います。

そこで、サブタイトルが新たに「赤い屋根の女の子に」が付いたバージョンでは、歌う前のレチタティーヴォ(話すように歌う)部分が付いていました。

おいらを風来坊にした いかしたあの子
冬の雨の相合傘さ いかしたあの子
通りすがりのあの街で君の涙を見たものだから
それがためで今じゃおいらこんなん
おいらの話 聞いとくれ

 西岡恭蔵 ぷかぷか(赤い屋根の女の子に)挿入

西岡恭蔵さんが、学生時代に近畿大学に通う寮の屋根が、黒い屋根と赤い屋根があり、西岡恭蔵さんは、黒い屋根の棟。

片思いをしていた房子さんと言う女性が住む赤い屋根の棟。

どうも、その思いは成就しなかったようですが、房子さんが、「冬の雨の相合傘」の相手が自分の事だとある取材に答えており、西岡恭蔵さんは、インスパイアされた女性と、

自分が大好きだった女性への想いを重ねて綴ったのではないかと思われます。そんな風に自分の心に突き刺さった二人の女性の事を思い作った曲の様です。

房子さんと叶わぬ恋心を抱いたまま、実家に戻り、再び実家を離れ上京した西岡恭蔵さんでしたが、『風来坊』の意味は東京では当てもなく、友人宅に居候して回る様に暮らしていたと言います。



西岡恭蔵、奥さん。悲しい気持ちを押し付けない優しさ。息子にも

さて西岡恭蔵さんの事を調べれば調べるほど、色々な人脈が見えてきます。もちろん今から50年以上前の方々が多い訳ですが、喫茶店・ディランに集まる人の中の人もそうですが、

細野晴臣さんや、あがた森魚さん、はちみつぱいや、はっぴーえんどのメンバーなど数多くの交流がありますが、私がmoonが意外に思えた方がいます。

プロテストソングではありませんでしたが、あの時代の中でフォークソングのイメージのある西岡恭蔵さんですが、西岡恭蔵さんのサードアルバム「ろっかばいまいべいびぃ」を聞き、

共鳴したのは、ロックミュージシャンとして誰もが知る矢沢永吉さんでした。キャロルを解散したばかりで、ソロデビューの直前でした。

矢沢永吉さんと初めてあった西岡恭蔵さんは

初めて逢ったときの印象は、エネルギッシュな人だなぁと思いました。彼と別れてからもしばらくそのエネルギーが残って離れなかったというか、あんなにエネルギーのある人ってなかなかいないと思うんですよね。オーラとかうものが本当にあるのかどうかは、分かんないですけど、なんかこう放つものてすかね、そういうものが強かったです。

出典:Tap the Pop 2026.04.02付

冒頭「♪ 夜中のハイウェイで奴は死んだ」から始まる矢沢永吉さんの『ライフ・イズ・ヴェイン』

「Life is vain」「命は儚い」と言うように取れるタイトルですが、1975年に作られたこの詞ですは、1973年1月25日午前11時22分、首都高池袋5号線を白のシボレー・コルベット・スティングレーがカーブを曲がり切れず、対向車線にはみ出し大型トラックと正面衝突。

一人の若者が亡くなりました。「永遠のチャンプ」と呼ばれるWBA世界フライ級チャンピオンの23歳の大場政夫さんでした。

極貧の子供時代、中学を出て、御徒町で働きながら、ボクシングを始め親に家をプレゼントすると心に決め、五度の防衛戦を博し、両親に家をプレゼントした直後の事故でした。

この方がモデルとは、明言されていませんが、西岡恭蔵さんは1948年生まれ、矢沢永吉さんと大場政夫さんは1949年生まれと言う事。

同世代の方が亡くなった時の儚さの様なものが、西岡恭蔵さんの脳裏に浮かんだのかもしれません。

その後も矢沢永吉さんとの繋がりは途絶えることなく、1976年の「トラベリン・バス」や、1977年の『ドアを開けろ』の「黒く塗りつぶせ」など多くの名曲の作詞を手掛けます。

1970年から1年間くらいの間、風来坊として居候生活を転々としていた西岡恭蔵さんですが、大阪時代の友人のアパートに住んでいる時に知り合い、東京の居候先まで訪ねてきた少女がKUROちゃんと呼ばれる女性でした。

ロマンチストで、音楽に造詣が深く、短い歌詞の中に色々なストーリーを作り出す西岡恭蔵さんを知れば知るほど好きになったのも、不思議ではありません。

西岡恭蔵さんが大好きなKUROちゃんが東京まで追いかけてきたのです。二人は1977年12月に神戸の教会で二人きりで結婚式を挙げました。既にお子さんはいた様です。

KUROちゃんは本名を田中安希子さんと言い、西岡恭蔵さんと共に作詞を始めます。西岡恭蔵さんの名義のままの作品でもいくつかKUROちゃんと共作なのではと言われている作品があります。

飛ぶ鳥を落とす勢いの矢沢永吉さんが西岡恭蔵さんの詞の世界に惚れ込み30曲以上の作詞を手掛けますと、西岡恭蔵さんにも大金が舞い込みます。

二人が選んだお金の使い道は、豪邸や、高級車のような豪華な生活ではなく、二人で世界中を旅して、作詞や作曲をすると言うスタイルでした。

始めは西岡恭蔵さんと一緒の作品が多かったのですが、KUROちゃんも山下久美子さんや松田優作さん、太田裕美さんなどビッグネームの方の楽曲の為の作詞を手掛けるようになり、息子さんも生まれてましたが、

実家のご両親のサポートなどを得て、月単位で世界を回りながら曲を作るスタイルで西岡恭蔵さんとKUROちゃんは、アルバムを出しておりました。

しかし、そんなKUROちゃんが思いがけない病魔に侵されていた事が解ります。正確な日にちは解りませんが、乳癌でした。

1995年5月4日、5月5日に開催された「春一番’95」は、阪神・淡路大震災の年に、大阪城野外音楽堂にて16年振りに復活開催された伝説的な野外コンサートです。

1970年代に9年間続いた大規模なフェスが、阪神淡路大震災の年に復活します。

西岡恭蔵さんの古い仲間から、甲本ヒロトさんやシーナ&ロケッツ、金子マリさん、ウルフルズ、ペギー葉山さんとジャンルを越えて一堂に会します。

ステージ上には西岡恭蔵さん、会場には、病身のKUROちゃん。「Farewell Song」という明るく淡々とした曲を前に、先に「泣いたらゴメン・今日は危ない」と先に謝り、歌い出します。

見事に最後まで歌い切ったこの曲は、KUROちゃんに別れを告げる曲でした。会場の皆さんは、このライブが復活したので感無量だったのではと思っていたのだと思います。

辛い事を胸にしまって、でも、本人だけ、「あなたの事を歌ってるんだよ。」告げるのは「ぷかぷか」で房子さんへ向けた気持ちにも似ているのではないか?と感じます。

このライブからおよそ2年後の1997年4月4日、乳癌により自宅で静かに息を引き取ります。

失意の中で西岡恭蔵さんは、予定を入れて何とか気を紛らわそうとしてます。一緒に長男の西岡直太さん(1974年頃生れ・当時25歳)と暮らしていました。

西岡恭蔵さんとKUROちゃんの間には、生年月日など詳細は解りませんが、息子さんがお二人おられました。

必死で生きようとしていたのではないかと思います。しかし、KUROちゃんの三回忌を明日に控えた1999年(平成11年)4月3日、埼玉県の自宅で首を吊って亡くなっていたのを、翌日、長男が発見します。

はじめまして、西岡直太と申します。
4月3日に亡くなった西岡恭蔵の息子にあたる者です。
私と恭蔵は、KUROが亡くなって以来、生活を共にしておりました。
いわば、最も近い立場にあった私が、恭蔵の心に抱えた深い苦悩を受けとめきれず、

結果、あのような悲劇が起きてしまった事を、どうか皆様、お許し下さい。
最近、父と母の夢をよく見ます。
心理学的に解釈すれば、私の無意識下の願望が夢という形をとって表面化した、という事になるのでしょうか?
私は、恭蔵とKUROが天国で再会できた、というメッセージであると受けとっています。
恭蔵は、もう、この世にはいません。
しかし、恭蔵の残した歌の数々は、今も確かに存在しています。
皆さん、恭蔵を、恭蔵の曲をどうか、これまで以上に愛し続けて下さい。
それが、天国に昇った恭蔵とKUROにとって、一番の供養になると思います。
最後に、生前、恭蔵を支えてくれたファンの皆様に、遺族の一人として、この場を借りて厚く御礼申し上げます。
‘99.5.1

息子さんの直太さんからのメッセージです。

いかがだったでしょうか?今回は西岡恭蔵さんのお話にスポットを当ててみました。

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