槇原敬之の若い頃、天才的な才能を持ち覚醒剤を所持していた訳とは?

ポピュラー

槇原敬之さんと言えば、1990年代初頭『どんなときも。』と言う曲が大ヒットしました。その後もヒット曲を飛ばしますが、

槇原敬之さんは覚醒剤の使用が明るみになり逮捕されたり、性的なマイノリティーであるなどの報道もあり、些かお騒がせなところも否めません。

しかし、J-POP界では、大きく功績を残しておりますし、今もまだ、活躍が続いています。

そんな槇原敬之さんの若い頃からの活動、出来事を色々まとめてみました。




槇原敬之の若い頃、現在の年齢は?実家は町の電気屋さん?

槇原 敬之(まきはら のりゆき)さんは本名は「槇原範之」(読み同じ)さんです。1969年〈昭和44年〉5月18日日生まれなのでもうすぐ(2025年5月現在)56歳でしょうか。

身長は、176㎝で血液型はO型です。

大阪府高槻市南平台と言う町の出身です。高槻市内の中でも高級住宅地だそうです。槇原敬之さんの父は槇原博之さんといい、家電屋さんを営んでいました。

始めは父の兄弟の方と共同で電気屋さんを営んでいましたが、独立したのだそうです。

槇原敬之さんは一人っ子で、5歳の幼稚園の頃に、幼稚園の先生が弾いた『エリーゼのために』を聴き、その音色と曲に「雷が落ちたかと思うほどの衝撃を受けた」のだそうです。

早速、槇原敬之さんは、ピアノを習い始めます。当時は、男の子でピアノを習いたいと言う子は少なかったのですが、お父さんは理解のある方でした。

惜しげなく、オーディオセットや、キーボードを購入してくれたのだそうです。又、家業が忙しい中、コンサートなどにも連れて行って、音楽の芽を伸ばす役割を担っていたようです。

小学校の時に当時大人でも羨望であったウォークマンを買ってもらい、音楽へのめり込んでいったようで、「人生が変わった!」とインタビューで語っています。

そんな甲斐もあってか?槇原敬之さんは中学生の頃になると、作曲の力も板についてきます。

大阪府立春日丘高等学校に入るとすぐの16歳の時に、槇原敬之さんは、あるラジオの音楽番組にデモテープを送ったのだそうです。

当時、人気のテクノポップの第一線であったYMO解散直後の坂本龍一さんが担当していたNHK-FM放送の番組『サウンドストリート』のデモテープの投稿コーナーでした。

坂本龍一さんからも「良いバランスで仕上がっていて、言う事なし!」と褒められたそうなので、天才的な才能を秘めていたのだと思います。


槇原敬之の若い頃、従兄弟は、すかんちのROLLY。ギターで応援!

1990年3月になると、「AXIA MUSIC AUDITION ’89」で、グランプリを獲得します。デモテープを聴いた一般の音楽ファンからの投票で選ばれる「一万人審査員賞」とのダブル受賞を果たします。

『AXIA』は当時人気だったFUJIフィルムのカセットテープブランドです。

応募曲は後にデビューシングルとなる「NG」1990年10月発売 セカンドシングル「ANSWER/北風」両A面。

どの曲も完成度が高く心に染みる曲ですが、そしてアップテンポのサードシングルがあの『どんなときも。』です。

その時、ギターで参加しているのは、『すかんち』というバンドのローリー寺西さん(現在 ROLLY)、かなり有名な話ですが、槇原敬之さんとローリー寺西さんは従兄弟同士。

お若い方は、ご存じないかもしれませんが、音楽ジャンルもヴィジュアルも違い過ぎるので、初めて聞いた時は驚きでした。

槇原敬之さんのお父さんが初めに一緒に電気屋さんをやっていたご兄弟の方の息子さん。

一人っ子の槇原敬之さんでしたが、ローリー寺西さんとは、幼い頃から兄弟のように仲が良かったのだそうです。

そんな槇原敬之さんでしたが、高校を卒業するも、大学は三浪の末に青山学院大学文学部第二部英米文学科入学します。


槇原敬之の若い頃、僅か3枚目のシングルが ”どんなときも。”

1991年までの活動は、浪人中の活動だったようです。そして晴れて大学生になった槇原敬之さんでしたが、入学直後の1991年6月10日に、3rdシングル『どんなときも。』をリリースしました。

『どんなときも。』は、映画『就職戦線異状なし』主題歌となり、ケンタッキーフライドチキンのCMソングに選ばれ、オリコンチャート1位。

槇原敬之さん初のミリオンセラーとなります。1991年の第42回NHK紅白歌合戦に初出場します。

その前向きな歌詞と明るいアップテンポの曲調で、翌年の春の選抜高校野球入場行進曲に選ばれるなどしました。

しかし、音楽活動が忙しくなり過ぎて、三浪して入った青山学院大学を中退してしまいます。元々、デビューが決まったあたりから、進学に乗り気ではなかったそうです。

以降も「冬がはじまるよ」や「もう恋なんてしない」などの数々のヒット曲をリリースして、いずれも大ヒットしています。

moon個人としては、1992年発売のアルバム『君は僕の宝物』収録曲の1つの『遠く遠く』なんかは、やはり槇原敬之さんの代表曲だなと思います。

故郷の友人を思う歌詞と、故郷を離れて都会で頑張っている人の心情が春の風景と共に心に染みますね。

そんな風に、若い頃に、ヒットメーカーとなり、J-POP界ならずとも、誰もが知る存在となりました。

『SPY』のヒットを引っ提げて1994年11月から1995年4月まで、全国30か所にも及ぶツアーを敢行します。

その後、喉にポリープが見つかり、休養に入り1996年に復帰して、活動再開します。1999年の6月にリリースされたシングル「Hungry Spider」がテレビ主題歌に起用され、大ヒットとなります。


槇原敬之の若い頃、覚醒剤との関わり、盗用騒動、スマップの大ヒット

そんな明暗を繰り返す槇原敬之さんでしたが、「Hungry Spider」のリリース、ヒットの直後、1999年8月に覚せい剤取締法違反容疑で逮捕されてしまいます。

 それに伴って音楽活動を休止となり、1999年12月には懲役1年6ヶ月、執行猶予3年の判決を受けます。

 当然コンサートツアーの中止、レギュラーラジオ番組の打ち切り、CDの回収が発生しました。

 しかし、購入が難しくなると思ったファンが過去のCD作品などを買い求めた為、売上が伸びる結果となり、当時、マスコミも驚く事となりました。

2000年11月28日、1年3か月を置いて槇原敬之さんは『太陽』と言うアルバムで活動を再開させます。その後2003年にスマップに楽曲提供した『世界に一つだけの花』が大ヒットします。

2016年に社会現象とも言うべきスマップの解散が報道されると、この『世界に一つだけの花』が再び注目を浴び13年を経て、ミリオンセラーに返り咲くと言う事が起こりました。

又、2006年10月に、CHEMISTRYに提供した「約束の場所」の歌詞の一部に、漫画家の松本零士さんが「『銀河鉄道999』内のセリフを盗用された」と訴えられると言う事がありましたが、それはこんなセリフでした。

松本零士 銀河鉄道999
「時間は夢を裏切らない、夢も時間を裏切ってはならない」

槇原敬之 約束の場所
「夢は時間を裏切らない、時間も夢を決して裏切らない」

う~ん、まぁ似てますが、結局、裁判で松本零士さんが槇原敬之さんが盗用したと言う証拠を出すことは難しく、お互いに和解する事になったようです。

2007年に、当時有料サイトだった『第2日本テレビ』のインタビューの中で自ら、同性愛者である事を告白しています。

最初の覚醒剤の使用で逮捕されたその時一緒に逮捕されたのが恋人の男性だったのだとか。

又、2020年2月13日に2018年に0.083gと言う微量の覚醒剤と危険ドラッグ「ラッシュ」64.2ミリリットルを所持していた事で、再び逮捕されていますが、尿検査では陰性で、どちらの薬物も使用してはいなかったようです。

何故、所有していたのか?と言うと「こういうものを捨てるときは気を付けた方がいいと聞いたことがあって、とりあえずとっていた」と説明しています。

槇原敬之さんの父は、嘆き悲しみ、「もう息子の人生も終わりや」とインタビューに答えていましたが、

槇原敬之さんは2020年8月3日、懲役2年、執行猶予3年の有罪判決を受け活動休止していましたが2021年9月6日、自身の公式サイトで活動再開を発表。

「活動を休止し、今後についてよく考えに考えた末、やはり私には音楽しかないという気持ちに気付き、楽曲制作をすることに決めました。」

この様に語り、音楽活動を再開しています。

現在は、精力的に活動されている槇原敬之さん、気持ちの中にいつも日本の伝統や日本人の考え方が根底にあると言います。

槇原敬之さんの歌詞の世界が、多くの人に染みるのは、愛する気持ちを奥ゆかしく表現する日本の心みたいなものが活かされているのかもしれませんね。

いかがだったでしょう?今回は、槇原敬之さんの若い頃、実家、覚醒剤の関わりなどについて調べてみました。

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