「なんだ馬鹿野郎!」で始まるお笑いがビートたけし氏や荒井注氏であれば、同じ「なんだこの野郎」で始まるのが、泉谷しげる節だ。
泉谷しげるさんは、今でこそ、バラエティー番組で拝見することが多くなりましたが、日本の音楽界を動かすほどの偉業を成し遂げた方の一人です。
泉谷しげるさんは若い頃から尖がってましたが、幼い頃の不幸な出来事、妻の事、無二の親友との死別を乗り越え、いつも前向きで、長年、メディアで取り上げられる泉谷しげるさんをフォーカスします。
泉谷しげるの妻は一般人のフク子さん?
泉谷 しげる(いずみや しげる)さんは本名も泉谷 茂(読み同じ)です。1948年〈昭和23年〉5月11日 に、青森県青森市長島という所にお生まれになります。もう少しで(現在2024年5月9日)76歳ですね。
血液型はO型だそうです。
筆者 moonは、てっきり東京生まれ東京育ちと勝手に思っておりました。東北の訛りを感じないからです。
それもそのはず、青森市長島にあったご両親の元で生まれ、幼い3歳の時から東京都目黒区東山で育ちます。自宅は鴻之巣橋たもとにあって、目黒区立東山中学校を卒業されています。
実はこの青森市の長島と言う場所はmoonにとっては、仕事の関係で良く訪れる場所で、青森駅から、徒歩で15分くらいの場所です。『廣田神社』と言う大きな神社がある官庁街です。
それはさておき、戦後間もない昭和23年のこと、幼少期の泉谷しげるさんは、ポリオウイルス(急性灰白髄炎または脊髄性小児麻痺=せきずいせいしょうにまひ)に感染してしまいます。
今は、日本ではワクチンで防ぐことが一般的になりましたが1963年(昭和38年)頃からワクチンの接種が出来るようになった病気ですので、
その当時は、掛かる方も多かったのです。現在も泉谷しげるさんは、足が不自由のようですが、ポリオの為、麻痺が残ってしまったのだそうです。
泉谷しげるさんは、子供の頃から、体が弱く、臆病で若い頃は本当にコンプレックスの塊だったと言います。
その為、泉谷しげるさんは、弱く見られるのが嫌で、口が悪く、強く見せようと頑張っていたとご本人が語っております。
泉谷しげるさんは22歳の時に一般人のフク子さんと言う方とご結婚なさったと言う情報だけはあるのですが、あるテレビの中で、一人暮らしをしていると言うような事を伝えており、現在ご家族がいらっしゃるのかは、謎です。
奥さんの詳細についても、謎です。
泉谷しげるの妻は?娘夫婦はラーメン店経営?孫もアーティスト!
泉谷しげるさんの妻に関しては、情報に乏しく、想像するしかないのですが、私moonが思うに肝っ玉がしっかりした、泉谷しげるさんとちょっと不釣り合いなくらいの美女なのではと思います。
それは、のちに書きますが、孫娘さんが大変、美しい方です。
泉谷しげるさんには娘さんが二人とお孫さんもいらっしゃるようです。ご長女は、2013年から東京都の大田区で『いずみ家ーいずみやー』と言うラーメン屋さんをご主人と経営されていらっしゃるようです。
そして泉谷しげるさんには『糖衣華ーとうい はなー』と言う名前で造形作家として活躍されている1999年生まれの孫娘さんがいらっしゃいます。
泉谷しげるさんを微塵も感じられない美少女です(笑)、才能はギャル系カルチャー文化を伝える米原康正氏のお墨付き。
造形作家の分野でも、個性的な着ぐるみや、ぬいぐるみのデザインと製作を行っておられ、2023年の9月には、泉谷しげるさんとコラボレーションの二人展を繰り広げております。
泉谷しげるさん自身も、若い頃は漫画家を志しておられ、作品が出版された事があるくらいの実力で、相当な画力の持ち主です。
その昔、泉谷しげるさんは、1980年に石井聰亙監督の映画『狂い咲きサンダーロード』では、美術と音楽をを担当するなど、美術、芸術的な面も持ち合わせております。
泉谷しげるさんの娘さん夫妻のラーメン屋さんの看板やメニューのデザインも手掛けていると言う事で、経営や広告には手伝わないと言いながらも、大事な部分はお手伝いしてくれる頼もしい、じいちゃんです。
泉谷しげるの妻は?泉谷しげる自身の若い頃、日本の音楽業界を変える。
泉谷しげるさんの結婚は、泉谷しげるさんが22歳の頃と言う事だとすれば、その約5年後の1975年に衝撃的な革命がおこります。
若い方でも、『フォーライフ レコード』と言う名前を聞いた事があるかもしれませんが1975年に、ミュージシャンが、自分たちの為にレコード会社を立ち上げると言うJ-POP界では、革命的な大きな社会的反響を呼んだ大事件が起こります。
小室等氏・吉田拓郎氏・井上陽水氏・泉谷しげるさんといった当時人気のフォークシンガー4人が1975年に設立したレコード会社を立ち上げます。
その頃、大手レコード会社の意向が絶対だった時代に、ビジネス優先の作品づくりから、アーティスト主導による作品づくりをしたい想いがあった吉田拓郎さんが、発案したと言います。
小室等さんが初代代表取締役社長に就任すると、YUI音楽出版の後藤由多加さんが副社長、井上陽水さん・吉田拓郎さん・泉谷しげるさんが取締役に就任しています。
1975年2月26日付報知新聞の一面に『100億円の”旗揚げ”』という大見出しで「井上陽水 吉田拓郎 レコード会社設立」という、いわゆるすっぱ抜きの記事が掲載された事で、各マスコミが真相を確認する為に、大騒ぎになりました。
当時、上記の4人のレコード売り上げなどを換算すると100億の売り上げとなり、大手レコード会社と肩を並べることになると踏んだからです。
何しろ、長年レコード会社が主導して発展してきた音楽業界の中で、アーティスト側がレコード会社を作ると言う事はとてつもない挑戦的な出来事でした。
初めは吉田拓郎さんと小室等さんで進めるつもりでしたが、断られるだろうと思って打診した井上陽水さんも参加が決まります。
吉田拓郎さんは、もう一人、毒のあるスパイスの効いた人物をと思っていたようで、泉谷しげるさんに白羽の矢が刺さります。
のちに泉谷しげるさんはインタビューで、「フォーライフは吉田拓郎という天才がつくったもの。オレは誘われただけ」、
そして「俺がアメリカに遊びに行ってる間に、知らないうちに決まっていた」なんて事を仰っておりますが、間違いなく一時代を作り出したお一人かと思います。
やはり、そんな中、下支えをなさっていたのは奥様だろうと思います。それがmoonが肝っ玉の据わった方ではないかと想像する所以です。
泉谷しげるの妻は?一番の理解者!若い頃からの盟友の死に「認めねぇ」
泉谷しげるさんは、ベトナム反戦の為の新宿西口のフォーク集会を見て、衝撃を受けたと語っています。
元々、エレキギターをやっておられたのですが、アコスティック・ギター、フォークギターを片手に、自分達の言葉を吐露する同世代の言葉が心に刺さったと言うのです。
その出来事を境に、付き合っていた女性に「音楽と私どっちが大事なの?」と聞かれ間髪入れずに「ギターに決まっているじゃねぇか!」と言って別れてしまったこともあるのだとか。そんな音楽にのめり込んでいった泉谷しげるさんに惹かれてご結婚された奥様なので、一番の理解者なのでしょうね。
そして『春夏秋冬』と言う大ヒット曲が生まれます。実はこの曲は、本当は『季節の無い街に生まれ』と言う題名にしようと思っていたところ、偶然にも山本周五郎さんの小説に同じタイトルがある事が判明。急遽、盗作だと思われてはいけないと言う事で、題名を変えたそうです。
泉谷しげるさんは、1960年代の光化学スモッグなどで、空が汚染されてゆき、季節感の無い都会の風景をアイロニーしたものだと言うものでした。
そんな泉谷しげるさんが、大のお気に入りだった友人が、忌野清志郎さんでした。忌野清志郎さんは1951年4月2日生まれでその忌野清志郎さんより3つ年上の泉谷しげるさん。
忌野清志郎さんが、15年前の2009年5月2日に、ガン性リンパ管症のため58歳という若さで亡くなった時、泉谷しげるさんはこう語っています。
「あいつの死は受け止められない。似合わないでしょ。僕の中では永遠だし、死なせません。あいつがいて俺が出られた、というぐらいに世話になった。年下だけど尊敬してて、師匠のようだった。ふざけんなこのヤロー、ですね。俺としては好敵手を失いたくない。恩返ししてないのに先に逝くんじゃねー!」
「勝てないんだけどさ、でも強い奴にぶつかっていくのが元気の源だから、責任取ってもらわないと。棺桶から出してやりますよ」
翌日の記者会見の中で泉谷しげるさんは、そんな風にお話をしていました
泉谷しげるさんは、「葬式にも、行かねえよ。」「冥福なんて祈らねぇ。」と忌野清志郎さんの死を受け入れられず、何処にもぶつけ様の無い深い悲しみと、悔しさを絞り出すように語る泉谷しげるさんの姿がありました。
熱い思いをいつも持ち続ける泉谷しげるさん。ストレートに屈託なく本当の事を、思い通りに話す泉谷しげるさんのような人物が実は今、世の中が必要としているのではとも思うのであります。
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