竹内まりやさんは、若い頃に夫である山下達郎さんと出会い、ご結婚された事は皆さんがご存じだと思います。
又、大変美しい方で、若い時にブレークすることになりましたが、それ故にご自身の周りの扱いに、悩むことも多かったと言います。
今回は、そんな竹内まりやさんの若い頃の気持ち、現在の活動、娘さんとの関係性などを手繰り寄せてみたいと思います。
竹内まりやの若い頃は恵まれた家庭環境で育ちですが、実は芯の強い女性
1955年(昭和30年)3月20日のお生まれだそうで、もうすぐ69歳という所でしょうか?(2024年2月現在)ご出身は、島根県簸川郡大社町杵築南(現・島根県出雲市大社町杵築南)のご出身。
実家は出雲大社の二の鳥居近くに在る1877年(明治10年)創業の老舗旅館「竹野屋旅館」父は老舗旅館「竹野屋旅館」の4代目当主であった4代目竹内繁蔵と言う方です。
のちには大社町町長も務めておりました。町の名士と言う事なのでしょう。竹内まりあさんは2男4女の6人兄弟の三女・第4子として、誕生しました。
1961年には、地元の大社町立大社小学校(現・出雲市立大社小学校)に、1967年に、大社町立大社中学校(現・出雲市立大社中学校)へとそれぞれ地元で入学しております。
1970年になると、島根県立大社高等学校へ進学進学を果たし、高校2年生の9月から大学受験を控える3年生の8月まで、AFS交換留学制度を利用して、米国イリノイ州のロックフォールズ にある四年制公立高校「ロックフォールズ高等学校(ロックフォールズ・タウンシップ・ハイスクール、Rock Falls Township High School」で1年間の留学生活を送ることになります。
そしてクラブ活動はコーラス部で活動もされていたようです。現在と違って留学できる環境と踏み出す勇気は大変なものだったと思います。
竹内まりや若い頃、小学生の頃から銀巴里で超一流のシャンソンを。1973年、慶應義塾大学文学部英米文学専攻。
竹内まりやさんは、1960年代に母に連れられて、島根から東京によく遊びに来ていたそうです。
小学生の頃に帝国劇場に宝田明・有馬稲子時代の『風と共に去りぬ』を観に行ったり、銀巴里で美輪明宏さん、当時の丸山明宏さんが歌うシャンソンを聴いていたと言いますから、驚きです。
竹内まりやさんは、高校生になるとすぐにイリノイ州のかなり奥にあるシカゴから車で3時間くらいかかる場所で日本人がほとんど行かないようなキャンパスに留学します
当時の竹内まりやさんは、「英語で夢を見る」くらいのレべルを目指して勉強していたとの事です。
1973年、慶應義塾大学文学部へ進学し、英米文学を専攻しております。
竹内まりや、若い頃に出会った夫・山下達郎は「ヤなヤツ~!」
のちに夫となる山下達郎さんとの出会いは、伝説のドラマーの『村上ポンタ秀一』さんが、薬物所持の事件を起こしたあたりなので1978年頃に、渋谷エピキュラスで、出会う事になります。
今は大変仲の良いご夫婦として有名ですが、出会いとしては最悪のムードだったようで、 挨拶に伺った竹内まりやさんが山下さんにサインを頼むと「これからデビューしようとする人間が同業者にサインなど頼むんじゃない!」と窘められたと言います。
山下さんは、プロ意識の確立した方で、プロになろうと言う人ががアマチュアのような事をすることが嫌いだったと言います。
一方、竹内まりやさんからすれば、「高慢な人だ」と思ったらしく、「ヤなヤツ~!」と言う印象だったと言います。
その後、1978年11月25日、RCA/RVC より、シングル「戻っておいで・私の時間」、アルバム『BEGINNING』で23歳で音楽界デビューと言う事になりました。
ちょうど、アイドル不在の時期と重なったため、竹内まりやさんは当初はそのルックスも相まってアイドル歌手のような役割もこなす羽目になったようです。
そして竹内まりやさんは、当時のご自身の立場はアイドル的要素が強く、歌手としての扱いが少ない事に悩んでおられたようです。
そんな中、「ヤなヤツ~!」も、仕事とは別物で、レコーディングや編曲、楽曲提供などのアレンジなどでつかず離れずのお二人でした。
しかし竹内まりやさんは『アン・ルイス』さんに書いた曲の事で悩み、山下達郎さんに相談をしたと言います。
山下達郎さんがスタジオに行って、明け方の2時半まで掛かり、作業を終えると、竹内まりやさんの心に何か変動が起こったらしいのです。これは、山下達郎さんの弁なので、本当の所はお二人しか知る由はありません。(笑)
1980年の2月に資生堂のタイアップ曲となる『不思議なピーチパイ』がスマッシュヒットとなり、時の人となります。
しかし、相変わらず、アイドル的なお仕事も多く、そんな時、親身になって相談に乗ってくれた人が山下達郎さんだったとようです。
二人の交際は噂となり、音楽番組『夜のヒットスタジオ』の1980年7月28日放送回に出演した竹内まりやさんは、司会のお二人(井上順さん、吉村真理さん)に問われて山下との交際を認めていました。
しばらくして1982年4月6日(火曜日)、27歳のとき山下達郎さんと結婚するに至ります。山下達郎さんも、竹内まりやさんも、にべもなくサインを断られた男性と結婚するとは思わなかったと振り返っておりました。
それはお互い様のようで山下達郎さんも、この人と結婚するとは思わなかったと語っておりますから、人の縁なんてのは解らないものです。
竹内まりやが、若い頃に出来た娘さんは今年(2024年)40歳!!
さて、竹内まりやさんは。ご結婚の2年後の1984年に長女を出産しました。今年で丁度40歳になる方で、イラストレーターをなさっていると言います。
富山の地酒老舗として有名な桝田酒造店さんの純米吟醸『満寿泉Pero』のラベルデザインを担当されたようです。
竹内まりやさんは2021年11月3日には『杏里』さんとのユニット「Peach&Apricot」で「Watching Over You」(作詞竹内まりや 作・編曲林 哲司)の配信をスタートさせています。
古くからの友人の杏里とのコラボはこれが初めてです。さて、『シンガーソング専業主婦』と山下達郎さんは呼び、本人は『シンガーソング兼業主婦』でしょ!と。
リスペクトし合えているご夫婦は、いつまで経っても素敵ですね。
以上、竹内まりやの若い頃の山下達郎さんとの馴初め、娘さんの職業などを調べてまいりました。
コメント