久保田早紀の現在の活動に驚き!若い頃のあの1曲が彼女に教えてくれたこと。

フォークソング

先月、とあるインターネットサイトで、全国の60代を対象に「1980~82年のヒット曲の中で最高の1曲は?」というテーマでアンケートを実施しました。

松田聖子さんの『赤いスイートピー』と同数で1位になったのが・・・・。久保田早紀さん。

さて、お若い方にはこのお名前は馴染みがないかもしれませんね。そんな訳で、今回は、久保田早紀さんをフィーチャーしてみたいと思います。




久保田早紀の若い頃、音楽があふれる家で培われた感性。

言うまでもなく、松田聖子さんは、多数のヒット曲をリリースしていますが、お若い方には、この久保田早紀さんと言うお名前はご存じない方も多いのではないでしょうか?

しかし、60代の選ぶ「1980~82年のヒット曲の中で最高の1曲は?」というテーマで久保田早紀さんが歌う『異邦人』が松田聖子さんの赤いスイトピーと同率の一位であったと言う事です。

先ずは、その久保田早紀さんの生い立ちをご紹介いたします。

久保田早紀さんは1958年5月11日、東京都北多摩郡国立町(現在の国立市)のお生まれです。父と母と祖母と一人娘の久保田早紀さん、4人家族で育ちました。

久保田早紀さんの父は通訳出身で、英語でずっと仕事をしてきた方のようです。アコーディオンが好きで、イタリア製のアコーディオンでアルゼンチンタンゴをよく弾いていたのを覚えています。

久保田早紀さんは母親の意向で、4歳からクラシックピアノを習い始めます。久保田早紀さんには5歳のときに、未熟児で生まれて10日で亡くなった弟がいました。

久保田早紀さんの母は、女の子が生まれたらピアノ、男の子が生まれたらバイオリンを習わせると決めていたようで、久保田早紀さん、自分では覚えていませんが、4、5歳のころからピアノを習い始めました。

又、久保田早紀さんの祖母は三味線と日本舞踊を趣味として、昔からの習わしどおり「6歳の6月6日」から日舞のお稽古をさせられました。

久保田早紀さんは日本舞踊はあまり乗り気ではなかった様ですが、久保田早紀さんの祖母にお付き合いして、久保田早紀さんが、小学生の内は続けたと言います。

ピアノもあまり熱心な方ではなく、久保田早紀さんは小学校高学年になると、日本のフォークソングや歌謡曲、ビートルズなどを好んで聴き演奏するようになり、そちらの音楽に気持ちが移ってしまったようです。

そんな中、久保田早紀さんが中学生になると、母の許可を得てピアノのレッスンに通うのをやめてしまいます。そして1972年の年、13歳のときに久保田早紀さんは、八王子市に引っ越します。

久保田早紀さんは八王子市立第四中学校の同級生男子3人組が、当時人気だった「ガロ」のコピーバンドを始めると、キーボード担当として誘われ、文化祭で演奏を行ったと言います。

その後、久保田早紀さんは共立女子第二高等学校を経て、共立女子短期大学文学科に入学します。久保田早紀さんが在学中の1978年、「ミス・セブンティーンコンテスト」に応募する事になります。
今回45年後に同率一位になる松田聖子さんも参加していたと言うから、人の接点なんて解りませんね。


久保田早紀の若い頃『異邦人』の持つ独特の音楽性は?

久保田早紀さんの異邦人と言う楽曲を聞くと、子供ながらに、アラブ、中近東、砂漠などがイメージされたものです。

ジャケット写真となった久保田早紀さんご本人の彫の深いお顔立ちも相まっているかもしれません。

又、当時流れていたタイアップのCMもアフガニスタンで撮影されたものでした。

久保田早紀さんご本人は松任谷由実や矢野顕子に憧れ、自作の曲を書き溜めていたのですが、当時、久保田早紀さんの父親が仕事でイランに赴いており、

現地で人気の女性アーティストのカセットテープを久保田早紀さんによく買って来てくれて、中近東独特のそれらの音楽を聴いていたことが、図らずも、異国情緒をともなう音楽性を養うことになりました。

久保田早紀さんのデビューのきっかけは短大1年のとき。母親が探してきたと言うCBSソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)の「ミス・セブンティーンコンテスト」への応募でした。

募集要項に「自作自演可」とあったので、カセットテープと楽譜を送ります。

当時はヤマハのポプコン(ポピュラーソングコンテスト)がプロへの登竜門でしたが、ひとりで挑戦する勇気はなかったんですよねと後に久保田早紀さんは、語っておられます。

久保田早紀さんが応募したのは短大生の失恋ソングみたいなごくありがちなニューミュージックでしたが、そのときに、

「デビューの約束はできないけれど、4年制大学に行ったと思って一緒に曲作りをしませんか?」とディレクターさんから久保田早紀さんは声をかけられたと言う事です。

久保田早紀さんはデビューまでの2年間、当時市ヶ谷にあったCBSソニーへ週1回くらいのペースで通う事になりました。

プロに曲を見てもらえて、録音スタジオの見学など、それは素人の久保田早紀さんにとっては、授業料のかからない専門学校に行っているようなもので、重要な勉強期間となりました

そのディレクターの上司に当たるプロデューサーの方が、たまたま後に『異邦人』の原型になる久保田早紀さんの曲を耳にされてCMに使うことを提案されたようでした。

スポンサーの三洋電機の広報の方も、久保田早紀さんのその原曲を気に入ってくださったそうです。


久保田早紀、若い頃、プロの仕事に触れた時『白い朝』が『異邦人』に。

当時はジュディ・オングさんの『魅せられて』、庄野真代さんの『飛んでイスタンブール』、NHK特集『シルクロード』の喜多郎さんのテーマソングなどオリエンタルな雰囲気の音楽が大ブームでした。

改めて考えると久保田早紀さんの『異邦人』は、時代ともぴったりだったのだと思います。

久保田早紀さんが1979年に短大を卒業すると、その年に、三洋電機がタイアップに付いてデビューが決まります。

久保田早紀さんのデビュー曲の候補には「白い朝」、「夢飛行」、「25時」の3曲があり、「白い朝」はゆったりとした感じの曲でした。三洋電機の意向により「白い朝」に決定しました。

『白い朝』という平凡なタイトルの原曲はプロのアレンジによって『異邦人』というエキゾチックな中東風の曲に生まれ変わりました。「プロの仕事というのは、こういうものか!」と、本当にびっくりしました。                    久保田早紀談

当時はエキゾチックと言うキーワードが流行していた事もあり、異国情緒などが意識されて、歌詞・曲ともに大幅なアレンジが施される事になりました。

そして最終的に、音楽プロデューサー・酒井政利の判断で「異邦人」と改題され、「久保田早紀」のアーティスト名で、同年10月1日にレコードデビューすることになりました。

タイアップされたカラーテレビのCMが放送されるにつれ、そのオリエンタルで神秘的な曲調や歌声に注目が集まり静かに売り上げを伸ばして人気が出だします。

久保田早紀さんがデビューから約2か月半後の12月13日、『ザ・ベストテン』に5位で初登場した際にはそのミステリアスな美貌にも注目が集まる事になります。

久保田早紀さんの『異邦人』はそこから翌年3月6日まで12週の長きにわたり連続ベストテン入りする大ヒットとなりました。

1981年の久保田早紀さんの曲「オレンジ・エアメール・スペシャル」は、それまでとは曲調をがらりと変えた、夏らしいポップな曲で、「キリンオレンジ」のCMにも採用されています。アルバムもシングルも順調に出ていたようですが、一曲だけ売れたイメージは、デビュー曲のインパクトが大きすぎたのでしょう。


久保田早紀、若い頃と現在の活動は?現在の職業に驚き!

そんな久保田早紀さんでしたが、テレビメディアに出て歌う事に苦手意識がありました。スタジオでの作業は楽しいのに・・・。そんな違和感が大きくなってきたと言います。

久保田早紀さんは、ある時、ふと幼い時に通った教会の事を思い出しました。そして実際に久保田早紀さんが、教会に行ってみると、自分の歌う事の原点がそこにあったと感じます。

芸能界を経験して一番良かったことは、クリスチャンになった事だと仰っています。

26歳でご結婚を機に、芸能界引退。39歳、安室奈美恵さんが出産する『ヤンママ』ブームの中、高齢出産との事ですが、ご子息もいらっしゃるようです。

久保田早紀さんの現在は、本名の久米小百合として『音楽宣教師』のお仕事を東京・三鷹にあるバプテスト教会のメンバーとなり続けておられます。チャリティコンサートや、朗読会、又、東日本大震災への復興の為のイベントにも注力されています。

音楽宣教師と言う天職に巡り合い、神様が与えてくれた間は、精一杯音楽宣教師と言うお仕事に取り組むと仰る久米さん。どこかの街の教会で、久保田早紀さんこと久米小百合さんの声が聞こえてくるかもしれません。

以上、いかがだったでしょう?久保田早紀さんの若い頃の活躍と、今も音楽に関わるお仕事をなさっておられるようです。

『異邦人』あの一曲が久保田早紀さんの人生を大きく変えたことは間違いないですね。

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