レイニの本名は?父親は!?歌手になるきっかけは学校の授業だった?

ポピュラー

レイニさんは、俳優と言う肩書で出てくることも多いのですが、私の中では歌手です。そして、何より、前にお父さんのブログを書いてレイニさんが、あの方の息子さんである事は知っていました。

2025年になると、俳優や歌手として一気に花が咲いたようなイメージがあります。高名なシンガーソングライターである父と、元モデルの母。

2世と呼ばれる立場ですが、さて、レイニさんのご家族とは?又、どんな活動や想いを抱いておられる方なのでしょうか?

今回はレイニさんにクローズアップしてみたいと思います。



レイニの本名は?父はヒットメーカーのシンガーソングライター!

レイニさんは、REINIと表記されることもあります。1998年(平成10年)8月24日生まれなので、(2025年12月)現在27歳です。

さて、苗字は徳(『德』正式には旧字体)永です。れいに(漢字名は非公開のようです)さんです。徳永で『レイニ』と言えば、徳永英明さんの『レイニーブルー』が思い浮かべる方も多いと思います。

 もうすでにご存じの方も多いのかもしれませんが、そう、レイニさんのお父さんはシンガーソングライターの徳永英明さんです。母は元モデルの高野ゆみさん。

お父さんの徳永英明さんはモヤモヤ病などを乗り越えて、今も精力的に、音楽活動を続けています。

身長180cm。血液型AB型と言うレイニさんには、お兄さんがいらっしゃいます。お兄さんは3歳年上の『優翔‐ゆうしょう‐』さんと言うお名前の方です。

残念ながら、お兄さんの情報はあまり出てきませんでしたが、子供の頃は喧嘩ばかりしていたようですが、今は良好な関係のようです。

2~3歳違いの男の子の兄弟は子供の頃って、ケンカばかりしてることが多いのかもしれません。


レイニの本名は?幼い頃は、わがままで、やんちゃな子供だった。

レイニーさんが生れて間もなく、父である徳永英明さんは、自身の音楽への方向性と、バラードだけに囚われることなく違う曲調の曲作りに挑みますが、なかなかうまくゆかず、

ファン離れも感じるような辛い時期だったようですが、フランスやアメリカを旅し、単身バルセロナに渡り、レコーディングを続けたようです。

レコーディングの傍ら語学学校に通い、シンガーソングライターとしての自分を見つめ直す事が出来たのだそうです。

その頃の奥さんの高野ゆみさんのメンタルや、体力にも脱帽しますが、徳永英明さんはアーティストとして悩みながら奮闘していた時期です。

しかし、悪い事にその後、徳永英明さんはモヤモヤ病(正式な病名はウィリス動脈輪閉塞症)と言う脳の異常血管の病気に襲われます。

治療の為およそ1年半の2001年5月から、2002年11月まで活動の休止を余儀なくされてしまいます。

話をレイニさんに戻しますと、子供の頃は、わがままで、よくお兄さんとは喧嘩してて、気に食わないことがあると、裸足で家を飛び出してしまうような子供だったそうです。

近所で隠れていると、お兄さんが探しに来てくれたのだとか。

サッカーを5年間続けていて、その辺りも、サッカー番組のパーソナリティを務めるくらいのサッカーファンの父の影響もあるのかもしれません。

しかし、思春期は、よくありがちな反抗期の少年が、親の思う方向と違う方へ向かうように、反抗ばかりしていたと語っています。



レイニの本名は?ONE OK ROCKにあこがれ、単身で渡米する!

子供の頃のレイニさんは、勉強の成績は良かったのですが、自分が楽しいと思う事を片っ端からやっちゃうような子供だったそうです。

ピアノも6年間習っていたそうですが、これは親に勧められてのことで、レイニさんは、家で練習をせずに、教室に行ってもすらすら弾けてしまう為、自分で天才だとうぬぼれていたと言います。

しかしながら、今では、全然弾けなくなっていると言います。

音楽も聞くともなく聞いていたようで、母親である高野ゆみさんは、その頃、森山直太朗さんが好きで家の中で流れていたのだそうです。

そんなレイニさんが、小学六年生の頃に出会ったのがONE OK ROCK(ワン オク ロック)略称ワンオクの「Re:make」と言う曲でした。

この曲に衝撃を受けたレイニさんは、中学校に進学すると、ジャムセッション研究部と言う軽音楽部のような部活に入部します。

正確なエビデンスは見つかりませんでしたが、『ジャムセッション研究部』と言うのは、東京都町田市にある和光中学以外で見つけられなかった為、徳永英明さんの自宅のある世田谷区の代沢から、

下北沢の駅を利用して小田急線で和光中学の最寄り駅の亀川駅まで通っていたのではないかと想像しております。

何はともあれ、中学時代はワンオクのTakaさん(この方は森進一・森昌子夫妻の長男さん)に夢中になります。

ライブに駆けつけたり、いつもワンオクの曲を聴いて過ごしているうちに、自分もTakaさんのように、英語で歌を歌いたい!と思うようになったのだそうです。

 しかし、中学校では、英語が大の苦手だったそうですが、ワンオクへの思いは強くなり、アメリカに留学したいと思ったのだそうです。そして中学を卒業と同時に単身で渡米します。

レイニさんにとって、歌手になる事は、その頃は全く頭の中には無く、ただ、海外の生活が楽しみで仕方が無かったのだとか?

16歳から20歳までアメリカ過ごすのですが、外国人学校でもなく、日本人もいない寮に住んでいたそうで、当然ながら言葉で苦労したようです。

 初めの内は、意思の疎通が出来ず、何かを聞かれても「OK!OK!」で何とか凌いでいたレイニさんも一年もすると、普通に日常会話が出来、数学や化学の授業も英語で受けられるようになったと言います。

音楽は、アメリカでもワンオクの情報を得て、今どうなっているのか?と情報を得ながらワンオクの曲を聴いてい過ごしたそうです。

 16歳で、英語が出来ずに単身でアメリカで過ごすって普通に考えて、かなりハードルが高いと思いますが、若さと度胸なのでしょうか?ご両親も肝が据わってます。


レイニの本名は?歌手になるきっかけは、学校の授業で歌った事が!

その頃は、歌手になるつもりは無く、アメリカでの生活を続けていたレイニさんでしたが、ある転機が訪れます。

それは意外な事に学校の授業でした。単位を取るために、コーラスの授業があり、発表会に出ていたら、担当の先生から「ソロでやってみて、君の声ならいけるよ。」と言われたと言います。

大勢の前でソロで歌ったことなどなく、緊張で足はガクガクで、震える声で『トイストーリー』の中の(邦題)「君はともだち」(You’ve Got A Friend In Me)と言う曲を、次の発表会で歌いました。

前も、まともに見れず歌い終わりふと顔を上げると、会場はスタンディングオベーションに包まれていたと言います。

その景色に「歌でこんな世界が見れるんだ!」と感動して、そこからもっと人前で歌ってみたいと思うようになったんです。

出典:Real Sound 2025.01.25

学校の授業が引き金となり、今のレイニさんが誕生したようです。

日本に帰ってきてからは、2021年頃から、中川大志さん主演映画『FUNNY BUNNY』で新見晴と言う役どころを務めたり、配信ドラマやモデルなども熟していました。

Netflixドラマ『グラスハート』で共演した菅田将暉さんとの「OVER CHROME(オーヴァークローム)」と言う劇中のバンドユニットでも登場しております。

レイニさんは、「親の七光り」みたいなものを避けるために、『レイニ』として活動を始めますが、特徴的な声や、顔立ちなどから、父親の古くからのファン、レイニさんのファン双方で、

徳永英明さんの息子では?と噂になります。仕方が無いようにも思います。

音楽の方は、2024年6月24日に『無口な涙』でデビューを果たし、2025年1月25日に『ラストレター』をリリースするとこの曲は日本テレビ系のドラマ『相続探偵』で主題歌となります。

そして何と言っても、『Spiral feat. Yura』はフジテレビ系ドラマ『愛の、がっこう。』の主題歌としてエンディングで透明感のある声が流れ出し、ドラマの人気が上がるにつれ、話題となります。

将来の大きな夢としてレイニさんは、「ワンオクのライブを観た、さいたまスーパーアリーナでワンマンライブをすること」だそうですが、そんなに遠くない将来かもしれませんね。

いかがだったでしょうか?今回はレイニさんの本名やご家族、歌手になるきっかけなどをまとめてみました。

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