甲本ヒロトさんが、直接の影響を受けたと言う鮎川誠さんと『シーナ&ザ・ロケッツ』今回は、名前はよくお聞きするのですが、どんな方だったのか?
細身のスーツと「ウェリントン型(逆台形型)」と呼ばれるレイバンのウェイファーラーと言うサングラスで、ビシッと決めてギターを弾いている姿が思い浮かびます。
数年前、お亡くなりになってしまいましたが、その功績を偲びつつ、多くのアーティストに影響を与えた鮎川誠さんのお話、お亡くなりになった死因などを調べてみたいと思います。
鮎川誠死因!父はアメリカの軍人、ハーフとして生まれ育った久留米
鮎川誠(あゆかわ まこと)さんは、1948年〈昭和23年〉5月2日生れです。福岡県久留米市のご出身です。
180cmの長身でグレーの瞳を持つ鮎川誠さんは、アメリカ軍人(米軍のタイピスト)の父と日本人の母を持つハーフです。
母の梅子さんは久留米の由緒ある料亭『萃香園(すいかえん)』の仲居さんとして働いていました。
鮎川誠さんが、3歳の頃に、鮎川誠さんの父はアメリカに転任する事になりましたが、母は鮎川誠さんと日本に残る事を決意します。それは、きょうだいへの配慮などもあったと言う事です。
「父が転任する時に、母は残ると決心した。でも連絡はずっとあった。僕は一生懸命ローマ字覚えて書いて送って、オヤジはまた日本語をローマ字で書いて送って。が中学生の時、亡くなったちゅう通知が来た」
出典:1996.6.3号「AERA」
お父さんと一生懸命に覚えたローマ字での手紙は1カ月に一回くらいのペースで長い間、やり取りがありました。
しかし、中学2年生のある日、訃報を受ける事になります。その為、父親と会った記憶の無いまま鮎川誠さんは父の姿は写真の中だけでしか知らずに育ちます。
お父さんが家に残したフランク・シナトラやビング・クロスビーのレコードが、鮎川誠さんにとって音楽やロックとの初めの接点になったのだと思います。
又、多くのアメリカの書物や蓄音機などが、鮎川誠さんを作るバックグラウンドになっていると考えられます。
しかし、鮎川誠さんは、いつもバリバリの福岡の方言でお話されていました。ホリの深いお顔立ちから飛び出す福岡訛りの言葉は、多くの人にとって、ほっとする部分もあったと思います。
鮎川誠さんが『明るい母子家庭』とインタビューでお話されていましたが、明るいお母さん、祖父や祖母から育てられた事からも、幼少時代のほのぼのとした地元の言葉で育った事も感じます。
お母さんの口から、父の悪口や不満を聞いた事が無かったと言う事で亡くなった父とも良い関係が続いていたことが判ります。
初めておねだりして買ってもらったレコードは小学校の何年生かの頃に、石原裕次郎の『嵐を呼ぶ男』と『紅の翼』のSP盤でした。
ドラムを叩きながら歌う映画のスタイルなどに強い衝撃を受けたといいます。
小学生の頃は、戦前から残る歴史的な建築物で、戦前の師団長公舎で、戦後、市長公舎となった現在の高牟礼会館と言う市長さんをはじめとする役人の方が利用していた大きなお屋敷の管理人として働いていたお母さんと、住み込みの管理人部屋で過ごします。
腕白な少年時代で、そこの門扉から落ち、前歯を全部折ったのだそうですが、そこは乳歯の生え変わり時期で、永久歯になる前でちょうど良かったとか。
又、近所の昔ながらの商店街を友達と走り回っていたそうです。
10歳の誕生日に、母親からガットギター(クラシックギター)をプレゼントされました。これが鮎川誠さんが初めて手にした楽器でした。
始めは「シューベルトの子守唄」や「トム・ドゥーリー」を練習を始めましたが、教本を読むのが苦手で、三日坊主に満たない二日坊主となり、そのまま部屋の飾りの様になっていました。
それでも戦後から10年にも満たない時期で、まだ福岡には米軍基地も残り、少年時代は、ラジオから流れてくる米軍向けの放送「FEN(Far East Network)」から、本場のアメリカン・ポップスやロックンロール、ブルースを日常的に聴いて育ちました。
小学生の高学年になる頃は、久留米市の『小川レコード店』の試聴コーナーに入りびたり、洋楽のアルバムなどを聞いていました。
鮎川誠死因!中学高校と成績優秀。母一人子一人の明るい母子家庭!
中学生の時に、友人が自転車の後ろに乗せてくれと頼まれ、乗せたところ、友人がカバンを覗き見して、鮎川誠さんの成績を見てびっくりしました。
当時800人ほどいた学年で1位の成績だったそうです。偉ぶったり自慢したりしなかった鮎川誠さんの成績のよさに驚いた友人は、次の日から敬語になったとその友人の方がお話されていました。
音楽は、ステレオなどが無く、レコードプレイヤーをテレビにつないで、音楽を聴いていたそうです。
その頃に、アメリカに住む父の訃報が知らされ、父からの仕送りがなくなった母は一念発起して、博多の中洲(那珂川)で貸しボート屋を始めました。
一方、鮎川誠さんはラジオから流れてきたレイ・チャールズの『ホワッド・アイ・セイ』をもう一度聞きたくて、博多の街のレコードショップを片っ端から自転車で探して見つけた事もあったようで、徐々に音楽にのめり込んでゆきます。
鮎川誠さんは、ビートルズの影響も大きく受けておられますが、出会いは意外な事でした。
1964年になると、中学3年の卒業の年の1月、隣席の生徒が弁当を包んできた新聞を見てビートルズの名前を知る事になります。
まさに、高校受験勉強中のFENでビートルズの音楽に接し、同じ年の1964年4月に、久留米の名門・福岡県立明善高等学校に入学しました。
高校に入ると、部室にレコードプレイヤーがあるというだけの理由で新聞部に在籍していました。部室でレコードを聞いたり、時にはギターを持ち込んで練習していたのだそうです。
その傍らで、高校から電車で一時間かけて、放課後は母の貸しボート屋さんの手伝いをしていました。
そんな鮎川誠さんの高校時代に大きな出来事が起こります。ザ・ビートルズの日本公演です。 1966年6月28日到着便は台風の影響で、羽田空港から福岡空港に変更になる、との噂が一時流れました。
そのことを聞きつけた福岡県久留米市に住む高校3年の鮎川誠さんが、憧れのバンドに会うため50ccの原付バイクに乗って福岡空港に向かいました。
母一人子一人で、苦学生として高校に通う鮎川誠さんにとって、東京・武道館で行われるビートルズの公演は、夢のまた夢のような世界でした。
40kmくらい離れている空港に、胸を躍らせて向かう鮎川誠さんでしたが、ビートルズは結局、羽田空港に到着し、会う事は叶いませんでした。
ビートルズが日本に到着したのは、台風の影響で大幅に到着が遅れ、予定の28日を跨いだ翌6月29日未明、午前3時40分でした。
ビートルズの公演は、授業を抜け出して、友人の家のテレビのブラウン管にかじりついてその中継を見ました。動くビートルズを見て、演奏とはこう言うものか!と目を丸くしたと言います。
高校時代にバンドを組み、商業施設や、文化祭などで活躍しますが、高校を出てすぐに、音楽の世界に行くと言う事に母親は反対し、九州大学への進学を条件に音楽活動を了承されます。
九州大学経済学部を目指しますが、音楽に夢中になり過ぎて不合格となり、それでも、母との約束を守り1年間浪人生活を体験し、九州大学農学部に合格します。
1970年代の福岡県は、ミュージシャンの登竜門のごとく、井上陽水さんを始め、多くのミュージシャンが活躍します。海援隊、チューリップ、甲斐バンド等など若者の音楽の勢いの止まらないそんな街でした。
奨学金を受けつつ、『ジ・エンド』と言うバンドで福岡のダンスホールなどでバンド活動を続けます。
鮎川誠さんは、留年などもあり、6年間在学して1974年に大学を卒業しました。
鮎川誠死因!東京にはロックを感じない。しかしシーナの父が一言
大学在学中に、『サンハウス』と言うバンドを組み、大学卒業後、すぐに福島県で行われた福島郡山市市政50周年記念イベントとして、1974年にオノヨーコさんが来日します。
7月31日から開催されたワン・ステップ・フェスティバル(英: ONE STEP FESTIVAL)に、ジョン・レノンのプラスティック・オノ・バンドと共演を果たします。
なんと!この公演には、神奈川から当時15歳の白井貴子さんも観客として友人と遠征していたと言うから驚きです。
さて、翌年の1975年にメジャーデビュー、1976年には、恋人が双子を妊娠した事で結婚します。この恋人こそ、旧姓・副田(そえだ)悦子さんこと、シーナさんでした。
シーナ(SHEENA)さんは、1953年〈昭和28年〉11月23日生れ、鮎川誠さんとは5つ年下でした。
出会いは、サンハウスを結成して、間もなく、鮎川誠さんは九州大学の大学生の頃、この頃は学生運動が全国で起こっている時期で、休校などが多くあったと言います。
ある日、博多の繁華街のダンスホールでサンハウスが演奏していると、ギィっという音と共に、青いパンタロンスーツのシーナさんが入ってきました。
演奏が終わると、彼女はバンドのメンバーを通して、「話がしたい」と伝言をくれたんです。大人っぽく見えましたが、彼女はまだ高校生でした。最初は、「なんや、この小娘は」と思いましたが、話をしてみたら、相当なロックフリークだった。「東京でライブを見て、琵琶湖のロックフェスティバルに行って、京都に寄って、実家の北九州市に帰る途中だった。いっぱい見た中で、あんたたちが最高やった」と言いよったんです。
その後、僕の下宿でローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリン、ボブ・ディランなど音楽の話を一晩中しゃべって、次の日には二人でアパートを借りに行きました。
出典:AERA DEGITAL 2015年03月04日付
「私がサンハウスの一番のファン」「サンハウスは私が見つけた」とまで言ってくれたシーナさんでした。
その頃、サンハウスのメンバーにとって、「福岡でやる」ということにこだわっていたと言います。シーナさんが言った言葉が、鮎川誠さんにとって一字一句が心に残る嬉しいものでした。
東京の一極集中にロックを感じる事が出来ず、自分たちの生まれた町から発信できるものを求めていました。
実際にその頃の博多では、陣内孝則さんの率いるザ・ロッカーズ(TH eROCKERS)1976年に結成されたり、
少し後になりますが、前身バンドである「人間クラブ」からルースターズが1979年に結成されたり、博多発信の多くのバンドの先駆けとなっていました。
今でも明太(めんたい)ロックと呼ばれる博多を中心としたムーブメントが存在します。
しかし、1978年に入るとサンハウスは、徐々に脱退する人も出て、解散する事になりました。
1976年10月8日に、双子の娘さんも生まれたシーナさんも鮎川誠さんと共にシーナさんの実家で同居していました。
この後どうしようか?と悩んでいた時に、助言をくれたのは意外な人物でした。シーナさんのお父さんでした。
「音楽をやめるなら、何かほかの仕事をして家族を養わなきゃならん。でもあんた、バンドに未練あるけ、音楽で勝負かけた方がいい」と。福岡におれば、ぬるま湯の中でダラダラ音楽活動もできるやろうけど、それを仕事にするのは難しい。はっきりさせる場所として、東京は最高や。東京行ってはっきりさせてこんね!……と。
出典:朝日新聞 music talk 2020年03月18日付
その言葉に励まされ、レコードの収録の話も舞い込んでいた事をきっかけに、上京します。しかし1週間もしないうちに、シーナさんが鮎川誠さんの元を訪ねてきます。
(孫の面倒は見とくから、)「マコちゃんがおらんと上の空で、手にならん。お前も行ってこい。」とお父さんに言われ上京してきました。
双子の子供を故郷に置いて居りましたが、その頃、鮎川誠さんの母が59歳で癌の為に亡くなります。
鮎川誠さんは、孫と合わせてあげられた事が、唯一の親孝行だったとインタビューで述懐しています。
シーナさんは、ある日スタジオに同行し、鮎川誠さんの曲を別な歌手の方が歌っている傍らにいたところ、その方に「歌ってみたら?」と言われ、歌ってみたらその歌声に一同が驚愕するほど上手かったのです。
シーナさんは心の中で、一生の内一枚でもレコードが出せたらと言う夢を持っていたそうですが、その事をきっかけに鮎川誠さんに気持ちを打ち明けます。
鮎川誠さんは、シーナさんをボーカルにバンドを作ろうと決意します。
その前にシーナさんと呼ばれる由来は、2つの事柄が融合しています。一つ目は、鮎川誠さんの祖母の名前が「鮎川シナ」と言う方だった事。
2人が大好きなパンク・ロックバンド、ラモーンズ(Ramones)の楽曲「シーナはパンク・ロッカー(Sheena Is a Punk Rocker)」と言う曲名から、シーナと呼ばれるようになりました。
バンド名「シーナ&ロケッツ(SHEENA & THE ROKKETS)」の由来は、
シーナさんの本名である「悦子(えつこ)」から、「ロック + エツコ = ロケッツ」としたものでスペルの「ROKKETS」は鮎川誠さんのこだわりによるものです。
『ロケッツ』だけだと軽く感じ、インパクトを持たせる為、「シーナ&ロケッツ」としました。
同郷の福岡出身のサンハウス時代のベーシスト奈良敏博(なら としひろ)さんと川嶋一秀
(かわしま かずひで)のドラムスでバンドを組みます。
1978年10月25日に『涙のハイウェイ』でデビューを飾ります。
シーナ&ロケッツがツアーの先駆けとして、又、シーナさんにとって初ライブとなったのは意外にも、エルヴィス・コステロのオープニングアクトとしてでした。
1978年11月23日の大阪公演。駆け出しの若手であるシーナ&ロケッツが選ばれるのですが、その公演に観客として、偶然、YMOの高橋幸宏さんがいました。
高橋幸宏さんはイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)が1978年2月19日に結成されたばかりの頃でしたが、10月に発表されたデビューシングル『テクノポリス』の後のヒットを誰も予想できない頃でした。
鮎川誠さんのルックスや存在感、バンドの演奏に強く感銘を受けた高橋幸宏さんは、同じYMOの細野晴臣さんに、シーナ&ロケッツの話をします。
その後、シーナ&ロケッツは、高橋幸宏さんや細野晴臣さんの協力を得て、アルバム『真空パック』を発表します。
アルバム収録曲からシングルカットされた「ユー・メイ・ドリーム」が、JAL『マイ・ハート・キャンペーン』のCMに使用され、大ヒットし、一躍、全国のロック好きの少年少女たちに名が知られる事になります。
YMOが1979年にリリースされたアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』に、鮎川誠さんがギターで参加します。
又、YMOワールド・ツアー後の「凱旋公演」(1979年12月19日・中野サンプラザ)では、シーナ&ザ・ロケッツがオープニング・アクトを務めるなど親交を密にします。
鮎川誠死因!シーナが逝って8年鮎川誠も。甲本ヒロトが送った言葉
その後、順調にバンドの活動も進む中、80年代90年代には、鮎川誠さん、シーナさんは、始めの頃からテレビに出る事を拒みませんでした。
70年代後半から80年代初めの頃は、フォーク歌手やロックバンドはテレビに出ないと言うスタイルが、どちらかと言うと主流をしめたと思いますが、シーナ&ロケッツは積極的にテレビに出ました。
その中には、故郷の家族が見て、応援してくれる姿も脳裏に浮かびます。双子の娘さんが小学校に上がる頃、二人を東京に呼び生活を始めます。その頃、三女の方も生まれます。
鮎川誠さんと多くのアーティストとの交流の中、先述のYMOの皆さんはもとより、博多出身のルースターズの花田裕之さんや、孤児院で育ち、夏の日に喧嘩の仲裁をして命を落とす事になったギターリストの山口富士夫さん。
東京ロッカーズ(1970年代後半にパンクやニューウェイブのバンドが集ったスタジオのインディーズ集団・のちの映画ストリート・キングダムのメインモチーフ)のムーブメントの最中の「フリクション」と言うバンドのドラーマーのチコ・ヒゲさん、遠藤ミチロウさん等々。
ザ・モッズの森山達也さん、ブランキージェットシティ、ミッシェルガンエレファントの亡くなったチバユウスケさん。
宮本浩次さん、斉藤和義さん、土屋昌已さん、忌野清志郎さん、はたまたチューリップの財津和夫さん等など上げきれない方との対バンやテレビ出演がありました。
ステージを降りると、気さくで優しい、誰とでも音楽について語り合える幅広い知識があったと言う鮎川誠さんの周りには、後輩のミュージシャンが集います。
中でも、ザ・ブルーハーツ、現在はクロマニヨンズの甲本ヒロトさんは、「自分に先輩なんていない。」と言い切った後で、「あっ!いた」と訂正して、鮎川誠さんを挙げています。
高校生の時、鮎川誠さんと会う機会があり、岡山の高校生だった甲本ヒロトさんは、
僕は高校生の時に、鮎川さんに会って本人の言葉をもらったから、直接影響を受けています。当時僕はまだギターも持ってなかったし、バンドの経験もなかったけど、ロックンロールに携わる何かで、一生生きていきたいって漠然と思っていた時に、鮎川さんに会って「鮎川さん、僕がバンドをやったら鮎川さんと一緒に対バンとかできるようになるかな」って言ったら、鮎川さんが「お前ならできるよ」って。それで「よし、バンドやろう!」って思った。これってすごい影響じゃないですか。
僕には何もできないような気がしてたけど、できるんだと思った。その時鮎川さんの横にシーナさんもいて「あんたかわいい顔しとるもん」て言われて。ものすごく嬉しかった。
シーナさんと鮎川誠さんの言葉は、今も甲本ヒロトさんの、心に残っているそうで、この時の事が無ければ、もしかしたら、ブルーハーツも無かったもしれないな?なんて思います。
さて、鮎川誠さんシーナさんのご夫妻には3人の娘さんがいます。
長女の方は鮎川 陽子(あゆかわ ようこ)さんと言います。 1976年10月8日生まれで、 モデル、画家、デザイナー、DJとして活動しています。
過去にはパリコレなど海外の誌面でも活躍し、現在は画家・アーティストとして個展などを開催しています。
次女の純子(じゅんこ)さんは、「シーナ&ロケッツ」のマネージャーを務めています。音楽誌の編集に携わった経歴やバンドも経験してます。
三女の知慧子(ちえこ)さんはDARKSIDE MIRRORS(ダークサイド・ミラーズ)という姉の純子さんと組んだバンドで「LUCY MIRROR」という名義で、活動していました。
DARKSIDE MIRRORS(ダークサイド・ミラーズ)は、B級ホラーをモチーフにちょっとオドロドロしい実験的な楽曲や演出で、日本より欧米などで評価の高いバンドです。
一時、先述の東京ロッカーズのリザードの「モモヨ」こと管原 庸介さんが参加していた事もあります。
しかし、突然シーナさんを病魔が襲います。シーナ&ロケッツがデビュー35周年を迎えた2014年7月、ニューアルバム『ROKKET RIDE』をリリースした直後の事でした。
ある日、血圧を測ると上の数値が200近くあり、大学病院で見てもらうと子宮頸がんだと診断された。しかし2人は抗がん剤治療や放射線治療を受けない道を選ぶ。
「悦子はハッキリがんと共存して、自分の音楽を続けますと先生に言いよりました。ボクも子どもたちもそげん言うた悦子を誰も止めんやった」
それには、わけがあった。
「悦子の父は入院する前日まで、祭りの太鼓を叩いていました。そんな父が入院して間もなく身辺整理をする時間もなくあっけなく亡くなった。それなら家で好きな酒を飲んでいたほうがよかったのではないか、という思いがありました。」
出典:週刊女性PRIME 2019年2月24日
シーナさんは、病に侵された身ながら、懸命のリハビリで9月13日に行われた結成35周年の日比谷野音のワンマンライブ、故郷博多のライブ、北海道ツアーとパワフルな歌声を響かせます。
しかし、11月21日に行われた『ヒステリックグラマー30周年記念イベント』で、渾身の10曲を歌い上げたのが、ステージに立つシーナさんの最後の姿でした。
鮎川誠さんのインタビュー記事を読んでいると、35年以上寄り添い続けたシーナさんと、どれだけ仲が良かったのだろうと、お互いの気持ちを思いやる心根を感じます。
そして、2015年2月14日、午前4時47分シーナさんは静かに息を引き取ります。死因は子宮癌です。
鮎川誠さんは、果てしない喪失感の中、二人で大切にしてきたバンドの継続を誓います。
三女の知慧子さんが「シーナ&ロケッツ」にボーカル(LUCY MIRROR名義)として参加・ライブ活動を共にしています。
シーナさんが亡くなると、鮎川誠さんは、よりパワフルにライブやイベント、テレビなどに登場します。『探偵ナイトスクープ』出演した回では神回として話題に上ります。
亡くなった後も、ライブの最後のメンバー紹介では、「シーナ」の名を高らかに叫びます。
しかしそんな鮎川誠さん自身が癌に侵されます。2023年1月29日5時47分、死因は膵臓がんのため、東京都内の自宅で亡くなります。74歳でした。
家族以外には病気の事は、誰にも知らせず、前年の2022年12月19日までステージに立ちます。
それは、8年前に亡くなったシーナさんと融合しようと負けない自分を見せているかのようでもあります。
甲本ヒロトさんは、鮎川誠さんやシーナさんが亡くなったことについて、「亡くなった(いなくなった)ことは大したことじゃない。居たことがスゴイんだ!」という旨の深い言葉を残しています。
音楽を愛した二人でもあり、音楽を好きになってもらおうと、ご自身が楽しんだ生涯だったのだと思います。
現在も両親の遺志を継いで、ご夫妻の三女の「LUCY MIRROR」こと鮎川智慧子さんがボーカルでバンド活動は続いています。
いかがだったでしょうか?今回は鮎川誠さんの死因や妻のシーナさん、子供さんの情報などにスポットを当ててみました。

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