谷山浩子さんは、昔、『オールナイトニッポン』のレギュラーでした。そう筆者moonが高校生の頃です。
あまりに昔でよく思い出せませんが、ご本人の番組よりも、中島みゆきさんが谷山浩子さんの事をいじっているのが、印象的でした。
二人は仲の良いご友人の様です。
谷山浩子さんの楽曲は一見、ほんわかした優しい曲が多いのですが、実は深い所に刺さる言葉が多いのです。今回は、谷山浩子さん、何者なのか?調べてみたいと思います。
谷山浩子現在は?年齢、出身地は?父親はジャズトランぺッター!
谷山浩子さんは、1956年〈昭和31年〉8月29日のお生まれなので、2026年、70歳と言う事です。ご結婚されていますので、本名は中西 浩子(なかにし ひろこ)さんです。
東京都杉並区は、高円寺出身で、生まれてすぐに神奈川県横浜市中区へ引っ越します。2歳から4歳まで千葉で過ごしますが、横浜に戻っております。
谷山浩子さんのお父さんは、ジャズのトランぺッターで、お母さんは、音大の声楽科を卒業されていて音楽に造詣が深い方で、そんな音楽に包まれた中で谷山浩子さんは
5~6歳の1962年に、自然とピアノを習いたいと、自発的に横浜にあるフェリス女学院付属音楽教室に通わせてもらったのだそうで、11歳まで通います。
7歳の時には、作詞・作曲を始めました。その時作ったのが『星の夜』と言う曲の様です。
聖光学園附属さゆり幼稚園と言う幼稚園を卒園後、横浜市立立野小学校に入学します。小学校の集団下校の際は、自ら音頭を取ってみんなでアニメの主題歌を歌いながら帰っていました。
小学校高学年になるとグループサウンズ(ザ・タイガース)が流行り、夢中になります。特に、ザ・タイガースのドラマーのピーさんこと瞳みのるさんのファンでした。
センターのボーカルで沢田研二さんがいたのですが、ドラマーの瞳みのるさんのファンだったと言うのは、谷山浩子さんらしいですね。
谷山浩子さんは、母親の教育方針もあり11歳でピアノ教室を辞めて中学受験に向けて準備を始めます。家庭教師や塾に通い始めました。
受験の甲斐もあり、無事にお茶の水女子大学附属中学校に通い始めます。初恋の人に出会ったのも中学一年生の頃、憧れの三年生。(お茶の水女子大学付属中学は、男女共学です。)
又、漫画家になりたいと思っていた小学校時代から、作詞作曲家になりたいと思い始めていた時期です。自分で歌う事はあまり考えていなかったようです。
進学したお茶の水女子大学附属中学校の目と鼻の先に、キングレコードがあり、そこの当時『虹色の湖』がヒットしていた中村晃子さんの担当者の方が、知り合いの知り合いと言う事で、足繁く通い、自作の曲を聴いてもらっていました。
少し話は変わりますが、その頃、谷山浩子さんと同世代の長男を筆頭に小学生の妹まで5人組のアイドルがデビューしていました。
そのグループは、『ベイビー・ブラザーズ』と言い、沖縄から出てきて半年ほどの経っていました。
ベイビー・ブラザースの3枚目のシングル「白い天使」(1970年11月20日発売)のB面曲に14歳の谷山浩子さんが作詞作曲した「ぼくたちの秘密」が採用されます。
これが、谷山浩子さんの芸能界初のお仕事となりました。
その後、ベイビー・ブラザーズは3年近く売れる事が無く、沖縄に帰ろうと思った時にミッキー・カーチスさんに見出さグループ名が変更されました。それが、『フィンガー5』です。
つまり、14歳の谷山浩子さんの初仕事は、ブレーク前のフィンガー5への楽曲提供でした。
谷山浩子現在は?15歳でデビュー。友人とのデュオ、マルチな活動
その後、お茶の水女子大学附属高等学校に入学。15歳の時に、そのキングレコードのディレクターから薦められ、「自分で歌ってみない?」と言われ、ピアノを弾きながら歌う弾き語りスタイルでレコーディングが始まり、
1972年4月25日、アルバム『静かでいいな 〜谷山浩子15の世界〜』とシングル『銀河系はやっぱりまわってる』をキングレコードからリリースして最初のデビューを果たします。
しかし、このレコードは3000枚程を売り上げ、敢無く廃盤になっています。又、その頃、NHK総合テレビで1970年1月10日から放映されていた『ステージ101』と言う人気を博した音楽番組がありました。
谷山浩子さんは1972年10月1日から出演者の『ヤング101』のメンバーとなり 1974年3月31日の最終回までメンバーでした。
歌手の田中星児さんや太田裕美さんも『ヤング101』のメンバーとして活躍されていました。その頃になると、谷山浩子さんは高校の同級生と音楽デュオ「オレンジ猫」を組みます。
友人は佐々木雅世さん。現在も友人関係の方のようですが、奇遇にも、佐々木雅世さんもご結婚され、その相手の方が『中西』さん。
現在、中西雅世さんは、ジャズシンガーとして活躍されています。
この高校生コンビのデュオは、「忘れもの」作詞・佐々木雅世さん 作曲・谷山浩子さん 歌とギターは佐々木雅世さん、ピアノは谷山浩子さんと言う担当で、コンテストに出て、審査員をしていた荒井(松任谷)由実さんが、高評価を付けていたと言います。
17歳の時に学研「ミュージックエコー」の作曲コンクールで入選します。
又、同じ17歳の時の5月になると、第7回ポピュラーソングコンテストつま恋本選会(1974年)に応募し、「お早うございますの帽子屋さん」で本選会入賞しています。
翌年の1975年2月10日発売の『お早うございますの帽子屋さん』で、キャニオンレコード(現 ポニーキャニオン)から2回目のデビューとなりました。
お茶の水女子大学付属高校を卒業すると、みなみらんぼうさんのバックスタッフでピアノを弾いたり、コーラスを担当したりしていました。
谷山浩子さんは、高校時代、ピアノが大好きな白猫の「ゆい」と言う猫を飼っていました。
その頃作った『猫の森には帰れない』は、代表曲の一つでもありますが、ゆいが膝の上に乗っていたので、猫をモチーフにしたのだそうです。
その頃は、東京の池袋に住んでいたので、『猫の森』は自分の育った横浜をイメージしたんだと思うと仰ってました。
谷山浩子さんの楽曲や活動の中では、猫の漫画や猫がモチーフになっているものが大変多いのです。
定期的に新曲を発表されていますが、執筆のお仕事も多く、童話集を出版したり、エッセイストとしても活躍されています。
又、冒頭で触れたオールナイトニッポンのパーソナリティとしても、人気を博していました。
谷山浩子現在は?夫は初恋の相手!23年後にパソコン通信が結ぶ糸
そんな谷山浩子さんの初恋の方は、先述の中学生になったばかりの1年生の頃、お相手は3年生の先輩でした。
お相手の名前は、『中西さん』こと中西直哉さんと言う方でした。なんと、谷山浩子さんの初恋の相手は、後の旦那さんになります。
出会いは、谷山浩子さんが中学一年生の時の文化祭の催し物。ベニヤ板の大きな箱の中に入った人が、受け入れ口から質問状を受けると中にいる人が、コンピューターの様に答えると言う『人間コンピューター』
谷山浩子さんが、質問を入れると返ってきたのは、軽快で、声が良い男子の声。素敵だと思って、姿も顔も見ていない相手の声で好きになってしまうのでした。
その時、中西と言う人だと言う事が、たまたま判り、友人の情報で中西君を知ると、色白で華奢な長髪の美男子で、谷山浩子さんは心を奪われます。
放課後、誰もいなくなった3年生の中西先輩の教室に忍び込み、中西さんの机に座り、ため息を重ねるような日々を送っていたそうです。
先輩は、学生運動に加担しているとか、先生たちからマークされているとか、あまり良くない噂も入ってきますが、その中でも「彼女がいるらしい」と言う噂はショックでした。
そんな悶々とした日々の中、年も明け、もう卒業式になれば、そこから会う事もなくなると思うと、居ても立ってもおられず、告白する手紙を書き、放課後の先輩の机の中にそっと忍ばせます。
次の日、中西さんから、真面目な気持ちでその手紙を読み、心を動かされた事、しかし自分にはお付き合いしてる女の子がいる事などが綴られていて、谷山浩子さんの初恋は幕を閉じたように思えました。
しかしその後も、谷山浩子さんは、自分の初恋の話をライブのMCや、ラジオ番組で、若干、自虐的なちょっとしたネタの様にお話されることがありました。
月日は流れ、1993年、ウインドウズ95が発売される前まで、インターネットと言う言葉はそれほど一般ではなく、『パソコン通信』と呼ばれており、今の様な情報のやり取りと言うよりは、個人がメールで繋がる程度の時代でした。
谷山浩子さんは、中西さんと出会った1970年から、およそ23年経っていました。当然お互いに、他の方との恋愛もあったと思いますが、双方、独身でした。
ある時、谷山浩子さんのファンの方が、「同姓同名の方が、パソコン通信やってますよ。」と教えてくれました。
最初は、半信半疑でしたが、本人だと言う事が解り、谷山浩子さんはライブに招待します。そこで改めて会った二人は、あっという間に打ち解けます。
中西直哉さんは、コンピューター会社にお勤めされていました。
谷山浩子さんもパソコンの雑誌『PC fan』でエッセイを連載されていたり、パソコンがマイコンと呼ばれていた時代からパソコンを用いていました。
谷山浩子さんとお二人で、出会った中学校の教室を訪れた事もあり、中西直哉さんが、「二人とも、ここにいたんだね。」と呟くと、谷山浩子さんは胸がいっぱいになりました。
その後、お付き合いを重ね、1994年5月に婚約し、1996年1月に、谷山浩子さん39歳の時にめでたくゴールインします。
「人間コンピューター」で出会い「本物のコンピューター」でまさかの再開。まるで少女漫画のようなストーリーです。
親族や友人、ファンにも案内を出さず、ひっそりと籍を入れたため、当時はあまり知られていませんでした。
お子さんはいらっしゃらないようですが、『谷山浩子』と検索すると『息子』と続けて出てくるのは、共演者の佐山こうた氏が、亡くなられた佐山博則氏の『息子』である事などの文章の誤認からと思われます。
谷山浩子現在は?夫を癌で亡くす。自身も乳癌に。Xで中島みゆきと
谷山浩子さんは、若い頃にレシピを適当にアレンジして、料理をして失敗した苦い経験があり殆ど料理をしませんでした。
結婚話が出た時、真っ先に心配になったのが、料理が出来ない事、思わず「私、料理が出来ないけどいい?」と聞いてしまう程、自信がありませんでした。
しかし、心の中には、「生き物は食べ物を食べなければ生きて行けないのに、料理が出来ないって・・・。」と思い続けていたそうです。
そして、料理を始めたのは50歳の時(結婚してからおよそ10年!)だし入りの液体の味噌から、徐々にみそ汁のレパトリーを増やし、夫の中西直哉さんの好きなみそ汁の具をリサーチします。
徐々に料理に親しみがわき、旦那さんからの誕生日プレゼントに包丁をリクエストするくらい料理に目覚めてのだそうです。
お仕事の方も『101人コンサート』と呼ばれる100人から300人のキャパシティの「屋根と電気のある所なら何処でも」と積極的に活動を重ねます。
又、谷山浩子さんは、アイドル系を中心に、楽曲の提供も多く、1980年代のアイドルの間では特に幅広く歌われています。
斉藤由貴さんへの『土曜日のタマネギ』や、河合奈保子さんまで多くの楽曲の提供とアニメソングの劇場版の『未来少年コナン』では、主題歌を研ナオコさんが歌い人気となりました。
2000年代に入ってからは、『ゲド戦記』では手嶌葵さんが歌った挿入歌『テルーの唄』の作曲も手掛けています。又、NHKの『みんなのうた』でも流れる事が良くあります。
しかし結婚から22年の月日が過ぎた2018年頃、夫の中西直哉さんに病気が見つかります。延髄の膠芽腫(こうがしゅ)と言うものでした。
生命維持を司る脳幹の「延髄」に発生する、非常にまれで悪性度の高い脳腫瘍と言う事で、手術も難しく、又、進行も早いそうです。
手足の麻痺や感覚障害や、呼吸障害などが現れやすいのが特徴なのだそうです。およそ一年間の闘病生活のあと2019年2月3日に息を引き取りました。
13歳で初めて出会い、23年を経て、再び出会い、23年間生活を共にして、去って行った夫は、ライブ終了後の谷山浩子さんを送り迎えしてくれるような優しい方でした。
谷山浩子さんはTwitterに下の様にツイートしていました。
谷山浩子
@taniyama_
お知らせです。夫・中西直哉が延髄の膠芽腫のため2月3日朝亡くなりました。一年の闘病でした。広島ライブが済んでからと思いご報告が遅れました。弔文ツイートをたくさん頂くと却って悲しくなりそうなので、心で弔ってやってくださいね。わがまま言ってすみません。
午後6:27 · 2019年2月17日谷山浩子Twitter 現・Xより
亡くなる前日も、谷山浩子さんは3時間に及ぶライブを行い、2週間後の広島のライブが終了するまで、夫の闘病の事も、亡くなった事も胸の奥にしまっていました。
2月3日に亡くなって、2月17日までのお気持ちを察すると、なんともやるせない気持ちになります。
悲しい事は続き、翌年の2020年の9月に谷山浩子さん自身が、乳癌である事が発覚、公式サイトやオリコンニュース等で乳がんでの治療開始を発表します。
2020年以降、抗がん剤治療を継続しており、投与後に体がジンジンする、微熱が出る、声や指に副作用の影響などを、『X』で明かしていましたが、
音楽活動や、家のリフォーム、自身のMAGさんへの提供曲でクリープハイプの長谷川カオナシさんがドラクエ風の映像を作ってくれた事など、又、8月28日の70歳の誕生日には多くのファンが祝福のコメントを送っています。
最近は、中島みゆきさんと、会って話をした内容がちょっとした話題になっていました。
そういえば久しぶりに中島みゆきさんに会いました!
満面の笑顔で「夏は!行動したら!死ぬのよ!」って言ってた。行動、してないそうですwww
午後9:25 · 2026年7月27日出典:谷山浩子 X より
確かに、中島みゆきさん、夏に弱そうです。(笑)
辛い事も乗り越えて、明るく前向きに、身をもって多くの人を勇気づけている谷山浩子さん、制作活動もSNSの報告も多くのファンの方が見ているのが判りますね。
いかがだったでしょうか?今回は、谷山浩子さんの夫や現在の活動などにスポットを当ててみました。

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