今井美樹さんと聞くと、アラカンの方は「女優」としての位置付けが先にあるのかなと思います。それと同時に、『布袋寅泰』、『山下久美子』と言う人物と共に、『略奪愛』なんて書かれていた事を思い出します。
そして『ハナマルキ味噌』がどうしても、頭から離れません。若い方は???となるかもしれませんが、そんなアラカンのオジサンの脳裏に浮かぶキーワードについて。
今回は歌手としての今井美樹さん、そして夫のギターリスト布袋寅泰さんと1980年代ヒットチャートを駆け抜けた山下久美子さんの関係を中心にスポットを!
今井美樹略奪愛!身長や実家の家族。小学生の頃の夢はCAだった?
今井美樹(いまいみき)さんは、本名です。お生まれは宮崎県児湯郡高鍋町と言う宮崎県では一番小さな町です。海沿いのまん中にある人口1万8000人ほどの風光明媚なところです。
そんな町の電器屋さんのひとり娘(一人っ子)として1963年〈昭和38年〉4月14日にお生まれになります。2026年7月現在63歳ですね。身長は168.2cmと言う事です。
お父さんがジャズファンであり、電器屋さんにして、オーディオ・マニアだそうで、幼い時からジャズをメインに色々な音楽に触れていました。
今井美樹さんの祖父から継いだ電器屋さんでしたが、お父さんの趣味が高じて、オーディオ専門店になったくらいだそうで、お父さんはなかなか豪快な方だったようです。
そんな小さな町で、マニアックなオーディオショップを営んでいたと言う事なのですが、2026年の2月22日放送のTBS系「日曜日の初耳学」(日曜午後10時)に出演の際、林修さんの「経営は大丈夫でしたか?」と言う質問に、
『だいじょばなかった』と思います。と笑いながら答えておりました。
お母さんは、その当時から、「これからは、女性がどんどん海外でも仕事を熟してゆく時代になる。」と今井美樹さんにお話されて、自立した女性だったそうです。
お父さんとのデートなども割り勘だったと言う事です。今なら、割と当たり前になっていましたが、昭和30年代では、かなり珍しい姿勢だったと思います。
今井美樹さんは、そんなお父さんとお母さんの影響を受けながら成長して行きます。
高鍋町立高鍋東小学校の2年生の冬、鳥取までスキーに行った際、骨折をしてしまい一ヶ月入院しなければならなくなったのだそうです。
お父さんは付き添いのお母さんを宮崎から車で迎えにきて、その後ドライブインの駐車場などで車中泊をしながら、宮崎まで帰ってきたのだそうです。
その時、既に新学期が始まっていましたが、家族が当たり前の枠からはみ出す感じや、ワクワク感などと楽しい自由さを親子で共感できた事が、一生の思い出になっているのだそうです。
そんな今井美樹さんですが、小学一年生の時に紀比呂子さん主演のTBS系ドラマ「アテンションプリーズ」を見て客室乗務員(CA)に憧れます。
当時このドラマは人気で、当時で言う『スチュワーデス』と言う職業が一躍注目を浴びます。今井美樹さんだけではなく、この当時の女の子のあこがれの職業になりました。
今井美樹さんは高鍋町立高鍋西中学校の頃は、父が車の中でよくかけていたジャズピアノの巨匠、オスカー・ピーターソンの「ガール・トーク」というアルバムがカーオーディオから流れていたそうです。
又、家業が電器屋さんだったこともあり、早いうちからお店にビデオデッキがありました。
当時テレビの映画番組で放送された「ウエストサイドストーリー」や「雨に唄えば」、「絹の靴下」などのMGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー社)のミュージカル映画を録画しては、必ず父が観せてくれました 。
特にウエストサイドストーリーは、大好きでテープが伸びてしまうまで、繰り返し見て、近所の小さな映画館でミュージカルが上映されると母が連れて行ってくれたのだそうです。
幼い頃は、ミュージカル女優に淡い憧れを抱いていました。
邦楽では松任谷由実(荒井由実)さんの大ファンでした小学6年生の頃に『あの日に帰りたい』をテレビで見て、かっこよさに衝撃を受けたのだそうです。
今井美樹略奪愛?荒井由実ファンの中学時代。途絶えた夢の先には?
1975年頃の荒井由実さんは、アルバム『コバルト・アワー』を発表した頃で、『ルージュの伝言』、『卒業写真』などの今でも代表曲となるような楽曲を発表し、日本のこれまでのフォークソングのイメージを大きく変えた時代でした。
中学の頃は、ピアノで荒井由実さんの曲を弾き語りしていたそうです。
宮崎県立高鍋高校に入学。陸上部に入部し、ここでも隠れていた能力が発揮されます。1981年、横浜で行われたインターハイに100mハードルとリレーメンバーとして出場を果たしました。
高校を卒業すると、将来の仕事として色んな国にも行けるしくらいの気持ちで子供の頃に夢見ていたスチュワーデス(キャビン・アテンダント)になろうと上京し、専門学校へ通い出します。
同世代として、同じ頃、上京した筆者moonとしては、バブル突入前の東京がとても眩しく感じられる、まさに松任谷由実さんの楽曲のような煌びやかさを見せていた時代でした。
しかし、今井美樹さんの心情は少し違っていたのかもしれません。専門学校は、試験などを受けて、就職が決まると卒業してゆくシステムでした。
専門学校での厳しい訓練や模擬試験を受ける中で、現実の厳しさを知ることになります。又、視力の基準などもあって、結果、一年後に専門学校を辞めてしまいます。
しかし、学校に行っていないと、東京にいる口実も無くなると思っていたところに、知り合いのカメラマンから、人手不足で手伝って欲しいとモデルの仕事をアルバイトを始めます。
最初は個人的に受けていましたが、そのカメラマンが「事務所に籍をおいた方が良いよ。」と薦めてくれて、本格的にモデルのお仕事を始めます。
さて、冒頭で触れた『ハナマルキ味噌』はデビュー間もない頃の今井美樹さん。
当時は、少しぽっちゃりして、正直なところ20~21歳とは思えないくらい幼い感じで、眉毛も太く素朴なイメージで、現在の洗練された感じは受けませんでした。
1984年から放送されたこのCMで今井美樹さんが「1日1杯のお味噌汁で大人になりました」と言うフレーズと共に味噌のイメージと相まって話題になっていたのだと思います。
このCMはアラカンの方(少なくともmoonには)印象に残っています。
今井美樹さんは、他の人が目指すように、「モデル(女優)になろう!」とか「歌手になろう!」とか決意してその座に就いたのではなく、偶然が重なりそうなった事が、コンプレックスになっているのだそうです。
しかし、それは実力と幸運と言うものだろうと思います。その後の今井美樹さんは女優として頭角を現し、快進撃を始めます。
今井美樹略奪愛?山下久美子と布袋寅泰との関係の始まりは?
1984年に、オーディションで選ばれ、山田太一さん脚本の女子プロレス界のドラマ『輝きたいの』(TBS系)に新人レスラー役で主演します。
10代後半の揺れ動く女性心理を繊細に表現しながら、本職さながらの女子プロレスラーの演技を熟しました。
この作品での評価が高く、その後もTBS系の『意外とシングルガール』(1988年)や『想い出にかわるまで』(1990年)のドラマで主演を演じ、又、映画でも1986年、映画『犬死にせしもの』(井筒和幸監督)で、新人時代にヌードシーンにも挑戦しています。
この1986年は、今井美樹さんにとって、歌手デビューの年にもなります。
『黄昏のモノローグ』では来生えつこさんの作詞で、歌手デビューを果たします。1987年、資生堂秋のキャンペーンソングになった4枚目のシングル『彼女とTIP ON DUO』がヒットします。
今井美樹さんは若い女性の心の動きを丁寧に描いた作品の中で、演技が脚光を浴びますが、声優やナレーターとしての評価も高く、マルチに活動の枠を広げます。
1991年には、長編アニメ映画『おもひでぽろぽろ』で声優デビューを果たし、この作品は今井美樹さんにとっても、大切な作品だったようで、実際の映画の舞台になった山形にも訪れています。
今井美樹さんは歌手として活動を始めますが、その後は、ドラマ『あしたがあるから』に主演し、その主題歌『PIECE OF MY WISH』は、秋元康さん(作詞)と上田知華(うえだ ちか)さん(作曲)など大御所が加わり、ヒット曲となります。
さて、冒頭で触れた山下久美子さんと布袋寅泰さんについて少しお話をしますと、山下久美子さんは、1959年1月26日生れ、大分県別府市のご出身です。
1980年に博多のクラブで歌っていたところ、渡辺プロのプロジェクトにスカウトされ、シングル「バスルームから愛をこめて」でデビューを果たすと、
立て続けに『恋のミッドナイト・D.J』、『赤道小町ドキッ』、『こっちをお向きよソフィア』など数々のヒット曲でチャートを賑わします。
「学園祭の女王」「総立ちの久美子」と呼ばれ1980年代の幕開けは、山下久美子さんの楽曲がかなり頻繁にテレビやラジオから流れていました。
そして、山下久美子さんが、使い始めた言葉は今も若い人たちの間でも幅広く使われている『胸キュン』と言う言葉です。
のちに、YMOの楽曲『君に胸キュン』となって幅広く知られることになりますが、YMOはこの楽曲の発売に当たり、山下久美子さんに承諾を得に行ったなんて話もあります。
さて一方の布袋寅泰さんは、言わずと知れたBOØWY(ボウイ)のギターリストですが、山下久美子さんと結婚したのは、BOØWYのブレイク直前の事です。
布袋寅泰さんは、1962年2月1日群馬県高崎市のお生まれです。山下久美子さんとは3歳年下です。
1985年の山下久美子さんのアルバム『BLONDE』に、ベーシストでもありプロデューサーの吉田健さんが、当時無名だった布袋寅泰さんをサポートのギターリストとして起用します。
ただでさえ長身の布袋寅泰さんですが、髪を立て、原宿の古着屋で売っているかのような、黒とピンクのチェックのスーツを着ていました。
山下久美子さんは「お洒落」という印象だったと著書の中で記されています。吉田健さんが、「聞いてみてよ。」と山下久美子さんに伝え、ガラスの向こうで布袋寅泰さんのギターが響くと、
山下久美子さんは
すごいっ、なんて音なのっ!
彼のギターには、瞬時に人の心を鷲づかみするかのような、とてつもない情熱があった。出典:山下久美子 ある愛の詩 幻冬舎文庫 2003年6月15日
BOØWYはサードアルバムを出し、ブレイク目前ではありましたが、その頃の山下久美子さんの実績には、到底及びませんでした。
今井美樹略奪愛?布袋寅泰との出会いと、ロンドン移住。娘の現在?
山下久美子さんは布袋寅泰さんとの出会いに「私のロックンロール見つけた」という名言を抱え、出会いから2ヶ月後には同棲を始めます。
出会いからおよそ半年後の1985年の12月には布袋寅泰さんが広尾のバー「ピュルテ」で山下久美子さんに「結婚しようか」とプロポーズします。 (山下久美子さんは布袋寅泰さんが言うように誘導したと言うような話も。)
お互いに、年末のそれぞれのライブでは結婚を発表し、翌年の1986年1月27日に六本木のフランシスカン・チャベルセンターで結婚式を行いました。
ラブラブな新婚時代が始まるかと思いきや、夫婦としてはうまく稼働しない事も多く、家庭としては、お互いに思うようには、行っていなかったようです。
布袋寅泰さんの若く情熱的な部分は、山下久美子さんの過去の男性関係も許せなかったようで、当時麻布にあった「レッドシューズ」と言うバーで偶然一緒になってしまった山下久美子さんの元カレの事で大喧嘩になり、居合わせた吉川晃司さんが仲裁に入るなんて事もあったようです。
BOØWYがブレイクすると、山下久美子さんは嬉しい反面、「もう布袋には適わない。」と一抹の寂しさと複雑な思いを抱いていました。
1987年にBOØWY解散後、翌年から山下久美子さんも活動を一時休止して家庭の建て直しに向き合いますが、布袋寅泰さんは、イギリスでの仕事が多くなりすれ違いの溝は広まります。
今井美樹さんは、BOØWYの曲を聴いておらず(恐らく意識してと言う事でしょう。)、布袋寅泰さんの単独ライブに出向き、こんなライブをやる人が日本にいるんだと衝撃を受けました。
ある時、布袋寅泰さんのライブの打ち上げに参加すると、布袋寅泰さんがチョイスした様々な曲を流してましたが、その中に、スウェーデンの歌手スティーナ・ノルデンスタムの曲がありました。
「私、こういうことやりたいですて思って。何もかもがアコースティックの感じも、エレクトロの感じも、声の定位もこういうことがやりたいんです!」と思ったと今井。
何か新しいことをやりたい、と思っていた時期と重なり、「これをこの人がチョイスしたってことは、この人にはきっと何か私、今うまく言えないけど分かってもらえるかもしれないと思って、布袋さんに曲を書いて欲しいって言った。布袋さんもビックリだし、何よりうちのスタッフが驚きましたよね。」
出典:2026年2月21日付 スポニチアネックス 日本テレビ系「with MUSIC」番組中より
そうして、1992年リリースのアルバムの楽曲提供が行われています。1996年11月4日に布袋寅泰さんが作詞作曲した『PRIDE』を今井美樹さんが発表すると166万枚のセールスを記録する大ヒット曲となります。
実は、当時、今井美樹さんは、山下久美子さんのサポートメンバーのドラムの椎名さんと言う方と交際されており、今井美樹さんにとって山下久美子さんは、音楽の先輩でありリスペクトの対象だったようで、又、親友のような関係でもあったと言います。
布袋寅泰さんは、1995年に青山にスタジオ付きの豪邸を建てると、『PRIDE』はそこで今井美樹さんと布袋寅泰さん二人でデモテープを作られました。
勘の鋭い山下久美子さんは、布袋寅泰さんが今井美樹さんに楽曲の提供を始めた1992年頃から二人の関係に怪しいと思っていたのかもしれません。
又、今井美樹さんが、山下久美子さんに電話をして、布袋寅泰さんが自分と一緒にいるのを匂わせるような行為や、打ち上げなどで、布袋寅泰さんと山下久美子さんが一緒に仲良くしていると、
あからさまに、面白くなさそうにしていたなんて事や、山下久美子さんの自宅のポストに白紙の離婚届けが入っていたなんて事もあったようで、山下久美子さんの心情的にはボロボロになっていました。
その頃、30代前半だった今井美樹さんの心の内側や、自身が不倫と言う関係の中の立場だという焦燥感も理解できるような気もします。
山下久美子さんは、音で布袋寅泰さんに惹かれましたが、別れもやはり”音”でした。今井美樹さんと布袋寅泰さんが録り終えた『PRIDE』のデモテープを聞き、離婚を決意しました。
最後まで「布袋くん」「久美ちゃん」の呼び合っていたと言う二人ですが、山下久美子さんは、気に入っていると言う青山の自宅だけ欲しいと言い、それを慰謝料に1997年11月に12年間の結婚生活に終止符を打ちます。
布袋寅泰さんと今井美樹さんは、布袋寅泰さんの離婚からおよそ1年半が過ぎた1999年6月6日にハワイで挙式後、東京・青山のウエディング会場で披露宴を行い、「これからもよろしく!と笑顔で申し上げる次第でございます。」とコメントしています。
週刊誌では『略奪愛』『略奪婚』と言う文字が踊りましたが、当事者同士でしか解り得ない事も多いのかと思います。
布袋寅泰さんと今井美樹さんの間に2002年に第一子の長女・愛紗(あいしゃ)さんが誕生すると布袋寅泰さんの子煩悩な一面が垣間見れます。
布袋寅泰さんが娘のお弁当を作ったり、幼稚園に出向き園児の前でギターを弾いたりした事もあったそうです。
娘の愛紗さんが10歳の時に家族でイギリスはロンドンに移住。この時、娘の愛紗さんは、引っ越しをしたくなく、
布袋寅泰さんは“父親として話があるんだ”って言って、3人でその話をした時に、娘はもう即答で“パパの夢のためだったら、パパは1人で行けばいい”って言いました。
“私とママは東京に残る”と、今井美樹さんも一年間考え、悩み仕事の事も含め迷いもありました。
しかし今井美樹さんは娘に
「ママはね、ずっと前からパパがロンドンでトライアルしたいって聞いていたんだ。だから、パパのお手伝いを私はしたいと思う。だからロンドンに行こうと思う。」
「“じゃあ、あなたどうする?”って言ったの、わざと。心の中ぐっちゃぐちゃだけど、敢えて。そうしたら、しばらく黙っていたんだけど、“私も行く”って言って。私はもう心の中では号泣でしたけどね。“ありがとう、頑張ろうね”って」
出典:日本テレビ系「with MUSIC」2026年2月21日放送より
10歳の娘に突きつけるには、あまりに辛い言葉だったのでしょうが、晴れて家族と共にロンドンに引っ越します。
今井美樹さん自身も、不安と迷いがありましたが、ロンドンの家に到着して庭を見ると、
「自然なままの木々が残された庭に、ロンドンの夏の終わりのきれいな光があふれていて、とても美しかったんです。完全なる新たな世界。皆その美しさに声が上がりました。抱えていた不安がさあっと消えて、新たな扉が開いた瞬間でした」
出典:婦人画報.com 2018.07.18
現在は、23歳になる娘さんと三人で旅行の様子などをSNSで拝見する事が出来、幸せに過ごしているようです。
子供の頃から、母から言われた「これからは、女性も海外にどんどん出て仕事をする時代になる。」と言われたのをそのままに幅広くお仕事を熟されています。
いかがだったでしょうか?今回は、今井美樹さんと若い頃の人間模様などをまとめてみました。

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