矢井田瞳のダーリンは?ガンの噂は本当なの?旦那さんやご家族がいる

ポピュラー

2000年と言うとオジサンの感覚だとそれほど、大昔と言うイメージは無いですが、もう四半世紀の月日が流れたことになります。

その頃、ポップで元気の良い、ちょっと印象に残る歌声が連日ラジオから、テレビから流れていました。矢井田瞳さんでした。

『ダリーン、ダリーン♪』と言うリフレインは、「ダリダリ」と歌っている為「ダリダリ旋風」と呼ばれ、

あっという間に、全国のJ-POPファンの目をひくことになりました。その後、彼女の愛称が『ヤイコ』である事などを知ったのです。

今回は矢井田瞳さんの検索に出てくる『ガン』や『元夫』なんて、キーワードを含め若い頃からの活動にフォーカスしてみます。




矢井田瞳のダーリンは?大学では『南海キャンディーズ』山里さんが

矢井田 瞳(やいだ ひとみ)さんは、1978年〈昭和53年〉7月28日生まれ。(実はこの記事を書いている今日2025年7月28日に奇しくも47歳のお誕生日です。)

大坂は豊中市生まれの豊中市育ちです。血液型はA型。身長は158cm。

豊中市立新田南小学校、豊中市立第九中学校、大阪府立箕面高等学校を経て、関西大学の文学部に入学します。高校も関西大学文学部も、ハイレベルですね。

関西大学の同期生に南海キャンディーズの山里亮太さんがいて、ラジオで大学時代の山里亮太さんとの思い出などをお話していました。

父親は工学博士(大阪大学大学院)の京都女子大学家政学部教授教授の矢井田修さんと言う方です。

小学生の頃は、ちょっとだけピアノを習っていましたが、それ程続きませんでした。それよりも、水泳を習い、他のスポーツも得意で、音楽より体育会系だったそうです。

その頃、小学5年生の頃から既に『ヤイコ』と呼ばれていたそうです。

父がスナックでカラオケを歌う為に、1960年代から1970年代のフォークソングや、歌謡曲を一緒に聞いていて、小学校の4年生頃から父と一緒にスナックに行き、カラオケを歌っていたと言います。

矢井田瞳さんは、石川さゆりさんの『天城越え』や『津軽海峡冬景色』等の演歌を練習して、今の歌い方の特徴でもある声が『ひっくり返る』ような技を獲得したようです。


矢井田瞳のダーリンは?若い頃、ギターを始めたのはやや遅めの19歳

ギターのデビューは、ギターリストや歌手の方としては、かなり遅く19歳大学に入学してからだそうで、中学・高校と部活動のバレーボールに没頭しておられたようです。

ただ、中学生の頃から、ザ・ブルーハーツのファンで、プロになってから、トリュビュートアルバムに参加されています。

ギターを始めたのは遅めでしたが、天性のものがあったのか?約一か月くらい経つと、結構、有名な曲も弾けるようになったと言います。

高校時代から音楽をやろうと思っていた矢井田瞳さんが、大学の構内でギターを弾いていた友人の男性を見つけ、「かっこいい~!」と思い、そのまま一万円のギターを購入し、練習を始めたとの事です。

アラニス・モリセットの「HEAD OVER FEET」を繰り返し練習していたのだそうです。音楽にそれほど拘っていた訳ではなかったのですが、初めてギターを弾き始めた時の感動は、

「私これ、一生続けられる!」と直感で思ったのだそうです。

その頃、矢井田瞳さんは、一通りスポーツのバレーボールには区切りをつけ、音楽をやりたいと思っていたのと、

大学に入った事で、「私は自由だ。」と言う気持ちと、何でもできそうな高揚感にあったと言います。

何曲か、曲が出来たのですが、友人に聞かせるのも恥ずかしいし、プロが聞いたらどんな感想をもらえるのだろうと、デモテープをオーディションに送ると、見事にグランプリを獲得して、

その副賞としてCDを出せることになりました。SEESEEと言う名義でバンダイ・ミュージックエンタテインメントより「nothing,」を1999年6月21日リリースしました。


矢井田瞳のダーリンは?ギターを始めて2年で、若い時に海外でライブ

その後、2000年5月3日に関西限定発売された『 Howling』と言う曲でインディーズデビューを果たすとすぐに、大手の東芝EMI Virgin Internationalと契約します。

2000年の7月12日には、シングル「B’coz I Love You」でメジャー・デビュー。同時にイギリスのインディーレーベルと契約します。

その時、まだ大学4年生で、ギターを始めて僅か2年ほどの時期だと言うから驚きですね。

半面、ホームページなどには『声が嫌い。』などのネガティブな書き込みも増えてきましたが、スタッフには、「人気が出てきた(認知されだした)証だから気にしないで。」と言われ、前向きになれたのだとか。

翌月の8月には、ロンドンとマンチェスターでライブを行う程になります。10月になり『my sweet darlin’』(マイ・スウィート・ダーリン)をリリースすると、この楽曲が大ヒットナンバーとなります。

『ダーリン、ダーリン』と言うサビの明るいリフレーンが『ダリダリ』と聞こえる為、ダリダリ旋風などと呼ばれ、親しまれる曲になると共に、矢井田瞳と言う名前も広く知られることになります。

その後も、B’ coz I Love You」、「Look Back Again」、「Over The Distance」などのヒット曲をリリースしています。


矢井田瞳のダーリンは?現在とネガティブなキーワードの真相は?

そんな矢井田瞳さんは、初期の頃は、裸足で歌う姿が印象的でしたが、矢井田瞳さんは、大阪弁で言う『気にしい』で、ブーツや靴の紐も気にしてしまうことがあり、より演奏に熱中する為なのだそうです。

ただ、ピアノやエレクトーンを弾くライブでエフェクターを踏む必要があり、それをきっかけに、裸足でライブを行う事は無くなったようです。

2007年に2年間の交際期間を経て、一般の方とご結婚なさっております。旦那さんは音楽関係のお仕事の東北出身の一歳年上の方です。

一緒にお仕事はしたことが無いとお話されていたので、親しい友人だったようです。結婚を決意した理由について

「色んな歓びや哀しみを分け合ってきました。仕事にも生きることにも向上心を忘れない彼と家族になりたいと強く思うようになりました。」

と語り、2009年10月28日に第1子となる女児を出産されています。2025年現在は高校生くらいでしょうか?

母はミュージシャンで、父も音楽関係の仕事と言う事になると、ファンならずとも、娘さんの進路も気になるところですね。

そんな訳で、矢井田瞳さんのご家庭は円満なようで、キーワードに出てくる『元夫』や『離婚』と言うキーワードは、事実ではないようです。

又、『ガン』と言うキーワードについても、子育てで、休業期間をおいた事や、コロナ禍において、看護師さんを始め、エッセンシャルワーカーへの応援歌のような曲『あなたのSTORY』を書いた事、矢井田瞳さんが少しやせた事などで、そんなキーワードが生まれたのかもしれません。

いずれにしても、根も葉もない噂のようです。

ご自身が『もう歌う事を辞めたい』と思う事が2回あったと言います。

1回目は、デビュー後4~5年目のアルバムを3~4枚出した頃に、全部出し切ったような気になり、又、「My Sweet Darlin’」のイメージから、自分と周りの期待の歪みが出来て辛かったのだそうです。

2回目は、子育てに没頭していると、そういう普通の暮らしが愛おしく感じたと言います。

又、子供が出来た事で「自分より大事なものが出来た。」と感じ、価値観も世界観も変わって、優しさの理解も変わってきたようです。

例えば「ずっとそばで見守っているよ」という新曲があるんですけど、その中に「差し伸べようとした手をそっと私は隠す 強い自分になろうとしている君を信じているから」という歌詞があるんです。

yahoo!ニュース 2021年8月8日付

そのようにお話して、以前なら簡単に手を差し伸べてしまっていた感覚も、手を出さない事も愛情だと感じる事が出来るように変わってきたのだとか。

いかがだったでしょうか?デビューから25年目の矢井田瞳さんの気になるネガティブなキーワードについて、調べてみました。又、ご家族や若い頃のお話でした。

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