自分は、浜田省吾さんが若い頃に、且つてのバンド『愛奴(あいど)』としてのライブでお姿を拝見したことがあります。
と言っても、その演奏は、吉田拓郎さんが1985年7月27日から7月28日にかけて行った静岡県つま恋でのオールナイトコンサートの時だけ再結成されたのです。
一言もしゃべらず、吉田拓郎さんに紹介された時、ドラムをたたき、軽くお辞儀をした程度だったそんな姿を思い出します。もう40年も前の事です。
筆者moonの中では、テレビに出ない、完璧主義者と言うイメージがありますが、ベールに包まれている方でもあります。
どんな方なのか?フューチャーしてみましょう。
浜田省吾、若い頃 出身地や、年齢、身長など、音楽のきっかけ
浜田 省吾(はまだ しょうご)さんは、広島県竹原市出身です。1952年(昭和27年)12月29日生まれですので、今年72歳になります。身長は170㎝という事です。
浜田省吾さんの父親は警察官だったことから転勤が多く、高校卒業までには20回くらい引っ越しをしていて、その為に越境入学や、転校を重ねていたと言います。
浜田省吾さんが9歳の頃に、江田島の海沿いの町、鷲部に引っ越しました。
警察官舎の部屋で、ラジオからビートルズの日本デビュー曲「プリーズ・プリーズ・ミー」が流れてきます。
この何でもない、普通の風景が浜田省吾さんにとっては大きな出来事でした。
のちに浜田省吾さんは2005年のアルバム 『My First Love』の中の「初恋」で「海辺の田舎町 10歳の頃ラジオから流れてきた“The Beatles” 一瞬で恋に落ちた」と歌っています。
前に江田島で開かれた音楽イベントに浜田省吾さんは「オレにとって『江田島』は『初恋のきた島』なのです」とメッセージを寄せている事などからも、
小学4年から中学1年まで過ごした江田島が浜田省吾さんにとって音楽活動の原点の場所なのかもしれません。
浜田省吾さんの父親は、教育熱心で進学率の良い中学や高校を薦め、浜田省吾さんも生徒会の役員を務めていたと言う事なので、真面目な生徒だったのではないでしょうか?
しかし広島県立呉三津田(くれみつた)高校卒業しますが、浜田省吾さんの高校時代は、進学校の雰囲気に馴染めず同高校であまり素行の良くない野球部に入部していました。
のちに、浜田省吾さんは本格的に音楽を始めるきっかけとなる友人の町支寛二(ちょうし かんじ)さんともその頃、出会い一緒に当時よしだたくろうさんが先導していた『広島フォーク村』にも出場しています。
野球部は、3年生の時に退部したとの事です。
浜田省吾の若い頃、全てが終わったと感じた大学時代。
その後、一年間浪人をして、神奈川大学法学部に進学しますが、当時は学生運動の盛んな時期でした。
特に神奈川大学は学生運動が盛んな大学でもありました。
度々、大学がロックアウトしてしまったり、休講、休校になる事もあり、浜田省吾さんは大学のそういう状態に辟易していたと言います。
親にお金を送ってもらう意味が無いと感じるようになり、工事現場や自動車のバッテリー部品の修理工場などでアルバイトを続けました。
同じ地元・広島で高校時代から知り合いで「グルックス」と言うバンドをやっていた、やはり大学進学のために上京していたギタリストの町支寛二(ちょうし かんじ)さん
20歳のある日の夏、大学の正門前にあった下宿で、ザ・ビーチ・ボーイズの「サーファー・ガール」に影響を受けて作った曲が、「二人の夏」でした。
ビーチボーイズの「Summer Means New Love」を間奏に、加えたのはこの曲へのオマージュなんだそうですが。
町支寛二さん達に聴かせると、ビートルズを中心に、ブリティッシュ・ロックしか聴いたことのない彼らは、アメリカのウエストコースト風に仕上がった楽曲を絶賛したのだそうです。
浜田省吾さんは、その時の事を、「あの時、けなされていたら曲作りは止めていたかも知れない」と話しています。
やがて、学生運動は過激になり、一部暴徒化する流れになるのと並行して浜田省吾さんは音楽に没頭してゆきます。
神奈川大学では、大きな内ゲバが起こり、火炎瓶が飛び交い、多くの死傷者がてるような状況を朝まで見ていたと言います。
「もう、すべて終わった」と浜田省吾さんは思い、親に一年休学をしたいと申し出、大学を出てしまいます。
浜田省吾、若い頃、愛奴、吉田拓郎、ドラムはじゃんけんで!
同じように、町支寛二さんも大学を辞め、広島に戻りました。浜田省吾さんはピザ屋などでアルバイトしながら、町支寛二さんを始め『広島フォーク村』の仲間とバンドを組んだのが『愛奴‐あいど‐』です。
『愛奴』では、浜田省吾さんはドラムを担当します。しかしそれは、メンバーそれぞれが担当楽器が決まっており、ドラムスかキーボードをもう一人とじゃんけんで決めたのだそうです。
浜田省吾さんは、ボーカルはもちろん、ギター、ブルースハープ、ベース、ドラムス、パーカッション、ピアノ、キーボードとマルチに演奏できます。
moonは、浜田省吾さんは、てっきりドラムの人と思っておりましたが、きっかけは解らないものです。
やがて、バンドは、広島のNHKのディレクターなどの目に留まり、浜田省吾さんは不退転の覚悟を持ち、再び上京します。
愛奴は吉田拓郎さんのツアーバンドとしてツアーに出たり、テレビ番組に出たりしましたが、1975年9月に浜田省吾さんが脱退し、1976年12月10日に愛奴は『下北沢ロフト』の公演をもって解散しました。
1976年12月10日の真夜中に下北沢の路上で大たちまわりをしでかしたらしく、当時の愛奴のメンバーの中には、鬱憤が溜まっていたのかもしれませんね。
一方、浜田省吾さんは、脱退からおよそ半年後の1976年4月21日にアルバム「生まれたところを遠く離れて」と、シングル「路地裏の少年」でソロデビューを果たします。
そこから延々と浜田省吾さんは、矢沢永吉さんのフィルムコンサートの前座や、アイドル時代の竹内まりやさんとジョイントコンサートを行ったり、スーパーの催事としてのステージにも立ったと言います。
当時、始まったばかりの音楽テレビ番組『ザ・ベストテン』に後輩の原田真二や世良公則&ツイストらがブレイクするのを見て、浜田省吾さんは「あー、俺の時代はやっぱ来ないまま終わるのかなあ」と感じていたといいます。
そんな努力をしていても、弾き語りのライブも数十人から100人台程度でした。今の浜田省吾さんからは想像もつきませんが、不遇の時期が続きました。
浜田省吾の若い頃、結婚、奥さんとの出会い、後輩の尾崎豊。
同じころ、私生活では1978年、25歳のときに結婚しています。その頃は、まだまだ不遇な状況でもあり、自身のレコード売上による印税収入は微々たるものだったようですが、
他の歌手への楽曲の提供などの印税で、結婚式や結婚指輪を用意し、新婚旅行にハワイに行った事などを見ると、奥さんの為に出来る事を精一杯やってる誠実さを感じます。
出会いは東急東横線の菊名駅『 愛奴』でドラムを叩いていた20歳頃、駅で傘が無くて困っている女性に、
「入りませんか?」と声を掛けたのがきっかけだと言います。普段なら断っていたという女性は、たまたま、風邪をひいて会社を早退していたところでした。
「じゃ、お願いします。」と、 家まで送って行ったところ、愛奴メンバー5人で住んでいたアパートの直ぐ近くだったと言います。
それから彼女が友達を連れて、アパートへ遊びに来る様になって、自然と交際へ発展していったようです。
なんか少女漫画のような展開ですが、とてもきれいな女性で、浜田省吾さんには、ミュージシャンにありがちな不倫や、離婚などの報道は一度もありません。
奥さんは浜田省吾さんより少し年上で、お二人の間にはお子さんはいらっしゃらないようです。
そんな浜田省吾さんに転機と言うべき、楽曲が1979年7月1日に、リリースされました「風を感じて」という曲です。
日清カップヌードルのCM曲として出したシングルがチャート上位に食い込んで行きます。日清カップヌードルのCM曲は後に、
中村あゆみさんの「翼の折れたエンジェル」や、大沢誉志幸さんの「そして僕は途方に暮れる」、ミスターチルドレンの「タガタメ」等のヒット曲を生み出します。
まさにその先駈けとして、楽曲とCMの相乗効果をもたらす前例と言っていいのではないでしょうか?
1980年代になると浜田省吾さんは、自身のお母さんが倒れた時の心情を『悲しみは雪のように』という曲を書くと、フジテレビのドラマ『愛と言う名のもとに』の主題歌となり、こちらもドラマ、楽曲ともに大ヒットとなります。
武道館ライブもやり遂げますが、音楽関係者の間では、テレビでヒット曲として紹介されることもなく、ご本人もほとんどテレビに出ないのに、「コンサート観客動員数が日本一」という状況を不思議に思う方も多く「ビッグマイナー」なんて呼ぶ方もいた様です。
浜田省吾さんは、自分の声を生で届ける事に非常に丁寧に、事を進めた結果なのではないでしょうか?
その後、多くのヒット曲を出しておりますが、交友関係のあった一回り程年齢の違う後輩に尾崎豊さんがいました。
エコーズの辻仁成(つじ ひとなり/つじ じんせい)さんと、音楽プロデューサーの(当時はソニーの制作)須藤晃(すとう あきら)さん、尾崎豊さんと浜田省吾さんの4人でニューヨークでお酒を酌み交わした話などは有名です。
又、浜田省吾さんが出来上がった「J・BOY」のテープを尾崎豊さんに聞かせると、尾崎豊さんが「僕のことを歌ってるみだいだ」と話し、浜田省吾さんも「そうだよ。君のことを歌ってるんだよ」と答えたエピソードがあります。
『J・BOY』が、浜田省吾さんの10枚目のアルバムとして世に出たのが1986年の9月4日の事なので、尾崎豊さんはまさに21歳くらいで、その2枚組アルバムのタイトルチューンになった曲です。
J・BOYの歌詞の中に”家庭も仕事も投げ出し逝った友人”という一説がありますが、まさか、それが現実に浜田省吾さんと尾崎豊さんの関係になるとは夢にも思わなかったのではないでしょうか?
J・BOYは、浜田省吾さんがライブの際には、今も歌う曲とされているようです。尾崎豊さんを、見守るように見ていたという浜田省吾さん。
尾崎豊さんの「僕が僕であるために」という曲は、浜田省吾さんの「マイホーム・タウン」のアンサーソングなのではと、お互いのファンの間では逸話になっています。
ひとまわり以上の年の差があった二人ですが、怒りや嘆き、自分に突きつけるものの形は違っていたのかもしれませんが、相通じる熱量を感じてしまうのです。
以上、浜田省吾さんの若い頃について、調べてみました。
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