中森明菜さんは、日本人の中では、かなりの知名度のある方ではないでしょうか?若い方で中森明菜さんの全盛期を知らずとも、中森明菜さんの曲を聴けばわかる方も多いでしょう。
若い時の中森明菜さんを知るアラカンのオジサンたちにとっては、絶大な人気を誇っておりました。
何処か憂いを秘め、芯の強そうな女性で、同じ時期のアイドル全盛期の中でも、歌唱力も飛びぬけていました。
全くの同世代の私moonとしまして、改めてあの頃に戻った気持ちで若い時の中森明菜さんを調べてみました。
中森明菜若い時!誕生日や身長、血液型。6人兄妹、妹も芸能界に!
中森明菜さんは、本名です。1965年〈昭和40年〉7月13日 生れです。2026年3月現在60歳です。
身長は160㎝、血液型はA型です。
お生まれは、東京都大田区大森、自宅で父・中森明男さんと母・千恵子さんの3女として生まれました。父親は精肉店を経営していました。
中森明菜さんは、5番目の子供とし て生まれました。二人の兄(明法さんと明浩さん)と二人の姉(明恵さんと明子さん)がいます。そして、年子の妹の(明穂さん)もいて、子供の頃は仲が良かったそうです。
のちに、明穂さんはお姉さんの後を追い芸能界に入りますが、真相は解りませんが、ヌード写真集を出したことで、中森明菜さんが心を痛め確執が出来たと言います。
52歳の若さで中森明穂さんは、2019年に肝硬変で亡くなってしまいますが、中森明菜さんは葬儀にも出席しなかったと言います。
6人兄妹と言う事になりますが、当時でも、6人兄妹と言うのは多くなかったと思います。その頃は、大田区の大森より、清瀬市の方が住みやすかったのかもしれません。
中森明菜さんが生れて間もなくの11月になると清瀬市に引っ越します。妹の明穂さんが生まれると、中森明菜さんが3歳の頃になると母は、パートに出るようになります。
生活は楽では無かった様ですが、そんな中でも中森明菜さんをピアノやバレー教室に通わせてました。お母さんの夢が歌手になる事だったと言う背景もあるのかもしれません。
そんな母の気持ちを汲んだのか?中森明菜さんは、4歳から14歳までの10年間、「横山昭子モダンバレエスタジオ」に一日も休まずに通いました。
中森明菜さん本人は、子供が好きで保母さんになりたいと思っていたこともあったのだそうです。6人兄妹で両親が忙しく働く中、中森明菜さんは小学校2年生の頃から、家で食事を作る役割だったのだそうです。
学校から帰り、買い物に行き、恐らく姉たちとかと思います。今だと『ヤングケアラー』なんて言われるのかもしれませんが、あの頃はそのくらいの家庭が多かったと思います。
しかし、中森明菜さんの家庭はもう少し入り組んでいたようで、幼い頃から体が弱く、6人兄妹の中でも、疎外感があったのだそうです。
一家で何か楽しいイベントを企画しても、中森明菜さんが熱を出し、キャンセルになるなんてことが多く、母親からも「明菜がいなければ・・・」なんてセリフも聞かされたと言うから、
自己否定の中にあった幼少の頃の中森明菜さんは、それでも、母の期待に応えようと健気に思っていたのだと思います。
小さな頃から衣装やファッションにこだわりを持っていた子供だったそうです。
1978年、清瀬市立清瀬中学校に入る頃になると、中森明菜さんは、不良グループとつるむ様になります。お兄さんやお姉さんも素行の良い方ではなかったようです。
しかしあの頃は、「7割がツッパリ」みたいな時代でした。クラスに数人いる優等生以外は、女子の長いスカートや、男子の襟の高い学ランなんてのは普通でした。
中森明菜さんもそういう時代の中にいた一人の少女でした。
中森明菜若い時!伝説のアイドルデビュー番組『スタ誕』最高得点!
1979年、中学2年生の2学期の頃に初めて、オーディション番組『スター誕生!』に応募します。
予選会の会場は有楽町の駅前にあったデパート「そごう」7階のよみうりホールでした。その日、予選会には8000人もの応募者が集まり、審査を待つ人の列は、デパート1階の入り口まで続いたと言います。
そこで姉の明子さんと相談して決めた岩崎宏美さんの「夏に抱かれて」を歌い、最終予選を勝ち抜いた10人に中森明菜さんの名前がありました。
本選に出るとそこには、大御所の作詞家で、この番組自体の企画立案者である阿久悠さんや、作曲家として名を馳せ、ハードルの高い都倉俊一さん、唯一の女性審査員の松田敏江さんは、少し優しいイメージが持たれていました。
『スター誕生!』出身でその頃のヒットメーカーだった岩崎宏美さんは、松田敏江さんともかかわりの深い方でした。
中学二年生の中森明菜さんが、そこまで知ってて選んだ曲だったかは分かりませんが、本来、気に入られる要素が多分にありました。
しかし、中森明菜さんに酷評したのは松田敏江さんでした。「年齢の割に大人っぽくて、表情に若々しさがない。軽い曲なので、若々しさがないとダメ」と言うような事を言われ、結果不合格でした。
ただ、一部の番組関係者は、『この子は来年も応募してくるはずだ。その時の化け方を見たい。』なんて囁かれていたのだそうです。
案の定、番組の関係者の方が思った通り、10月に落選すると次の月の11月に再度『スター誕生!』へ応募します。
次の年の1980年の夏に、再び本選へ舞い戻った中森明菜さんは、松田聖子さんの『青いサンゴ礁』で挑みますが、再び行く手を阻む形になったのは、戦前から歌手として歌い続けていた松田敏江さんでした。
今度は前回と真逆の『あなた、歌は上手だけど顔がとっても子供っぽいから、無理ね。大人の歌を歌うより、童謡でも歌ってたほうがいいじゃない。』と言うように言われました。
中学3年生だった中森明菜さん、普通の15歳の女の子なら、涙ぐみトボトボ帰るところだったでしょう。
その時の『スター誕生』の司会は、萩本欽一さんからタモリさんに変わってました。恐らく、タモリさんも「ありがとうございました。」と呟いて帰る15歳の少女を思いマイクを向けたのでしょう。
しかしマイクを向けられた中森明菜さんの反応は周りの誰もが思ってもいなかった反応でした。「先生!童謡を歌えとおっしゃいますけど、『スター誕生!』で童謡は受けつけてくれないんじゃないですか?」と言い放ったのです。
松田敏江さんの発言は、前の年の発言を踏まえ、中森明菜さんも不自然なモノを感じていたのかもしれません。しかし、その場で抗議されるとは思ってもいなかったでしょう。
横から「明菜!やめなさい!」の母親の声で、幕切れとなりましたが、当然の様に不合格となりました。
その後、三度目の正直となる1年後の1981年7月11日の収録日スター誕生では山口百恵さんの「夢先案内人」を唄い、なんと番組史上最高得点『392点』で合格しました。
松田敏江さんは、低い点数でしたが、他の審査員の点数が高く、松田敏江さんの評価を凌駕していました。
その頃の司会者は、坂本九さんに変わっておりました。
なかでも審査員の一人だった作曲家の中村泰士さんは、電光掲示板に表示可能な範囲では最高得点となる99点をつけたと言いうので驚きです。
その頃の心情を中森明菜さんは、
『スタ誕』に3回も挑戦した女の子は私が初めてなんだって。男の人では新沼謙治さんが5回挑戦したそうだけど……。
あの番組は全国放送でしょ。落ちるとみんなにバレちゃうから、ふつうは2回めくらいであきらめるんだって。私って度胸がいいのかなぁ。っていうより「いつか受かるよ、いつか歌手になれるよ」って信じて疑わなかったから、落ちても恥ずかしい、なんて気持ちはなかったんです。学校に行って友だちにいわれても、べつに平気だったし……
出典:中森明菜 著『本気だよ 菜の詩─17歳』
やはり芯の強い方の様です。
中森明菜若い時!初舞台は土砂降りの野外ステージ。花の82年組!
一年間、西城秀樹さんや岩崎宏美さんなどのボイストレーナーを務めた一流のボイストレーナー大本恭敬さんによるボイストレーニングや、
歯並びなどの矯正を進め、一年後の1982年、5月1日にシングル「スローモーション」でデビューする事になります。
作詞作曲は来生えつこ、来生たかおのご姉弟、甘くしっとりとした初恋を思わせるような曲でした。
中森明菜さんのデビューから4日後、初のコンサートは5月5日でした。場所は今はもう閉園となった「豊島園」の野外ステージでした。その日は晴れのち雨と言う天気の様でした。
司会者は当時、日本テレビのアナウンサー徳光和夫さん。3000人は入るステージに、1時半からの公演を待つ人の姿が。
しかしバックステージでは、中森明菜さんはステージ衣装として準備されていた衣装がブルーのワンピースにピンクの胸当てをあしらったものだとわかると、「こんなの着て歌うなら歌手なんかなりたくない!」と泣き出してしまいました。
母親とマネージャーが説得していますが、いつまでも駄々をこねてる中森明菜さんに、とうとう母が切れて、「じゃあ、今すぐ辞めろ。一生歌手になるんじゃない」と大声で怒鳴りつけたのです。
ようやく我に返った中森明菜さんは、化粧を整えステージに立ちます。しかし、小雨は土砂降りになっていました。
土砂降りの中、中森明菜さんは熱唱しています。帰ろうとしていたお客さんも足を止めて、中森明菜さんの歌声に聞き入っていました。
その姿に徳光和夫さんも、『ビッグになる』と確信したそうです。
甘く切ない『スローモーション』から第二弾シングルは、およそ3か月後17歳になったばかりの『少女A』と言う曲でした。
中森明菜さん、当時のアイドルのようなイメージを強く持たれていたのでしょう。この曲が嫌いだったと言います。
この曲の作詞家は売野雅勇氏。アイドルっぽくない歌詞で攻めて行くスタイルだったようです。
しかし、中森明菜さん、中学時代にヤンチャをしていた頃の事を周りが色々調べて、この曲になったと思ったのかもしれません。
歌いたくなかったと言うほど嫌いだった『少女A』はオリコン5位まで上り詰めロングセラーとなり、ブレイクのきっかけとなりました。
いわゆる、甘さと辛さでインパクトを与えると言う意味では大成功だったのだと思います。”大人”と”子供”。”甘さ”と”辛さ”そのミックスは、中森明菜さんのアイドルとしてとても自然体で溶け込んでゆきます。
『少女A』については、個人的に山口百恵さんの『プレイバック・パート2』のようなイメージも受けました。
そんな1982年は、アイドルの当たり年と言われ「花の82年組」の1人として、小泉今日子さんや、早見優さん、松本伊代さん、堀ちえみさん等など、男性はシブがき隊がデビューした年でした。
切磋琢磨を繰り返していたのだとは思いますが、中森明菜さんは独自の路線を行くようにも見えましたが、今では信じられませんが、若い時はバラエティ番組でコントなどにも挑戦されていました。
その後も「セカンド・ラブ」、「禁区」、「北ウイング」とヒット曲が続きますが、やはり甘さと辛さを交互に出している感じも感じ取れます。
そしてあの井上陽水さんの名曲ともいえる「飾りじゃないのよ涙は」が大ヒットします。1984年の11月のリリースでした。
中森明菜若い時!近藤真彦との記者会見や家族の確執、震災支援など
その頃、中森明菜さんは女優としても、ドラマなどに登場していますが、きっかけとなったのは1985年1月公開の中森明菜さんが19歳の時に出演した映画『愛・旅立ち』です。近藤真彦さんと共に主演を演じます。
しかしこの出会いから4年後の1989年7月11日、中森明菜さんの24歳の誕生日の二日前の出来事でした。
当時、男性のトップアイドルとして君臨していた近藤真彦さんが住むマンションで中森明菜さんは自殺未遂を図ります。
命を絶とうとした中森明菜さんと、近藤真彦さんのトップアイドル同士の関係をマスコミはセンセーショナルに書きたてました。
その後、中森明菜さんは、同じ年の12月31日に近藤真彦さんも同席して記者会見を行いました。
その記者会見は、東京都千代田区紀尾井町にあるホテル・ニューオータニの金屏風の前で行われ、結婚会見ではとマスコミが押し寄せました。
しかし会見の内容は、近藤真彦さんが結婚を否定し、中森明菜さんが一方的にマスコミや近藤真彦さんに謝罪する事になりました。
単純に恋愛がらみの事なのでしょうか?多少疑問も感じるのですが、と言うのは、1987年頃に埼玉県の三芳町にビル家族の為を思って銀行から1億円を借り入れ「大明華ビル」を建てました。
そこで父親には中華料理店「新雅」、長女にレストラン「ジロー」、次兄にカレー店「アズ」をそれぞれ営業を始めたのですが、うまくゆかず結局ビルごと手放すことになり、
中森明菜さんの心の中には、家族へのわだかまりも出来たのかもしれません。
自己肯定が低いと感じていると言う傷ついた心境の中森明菜さん、自分の全てを肯定してくれる人に委ねたとしても不思議ではありません。
自殺未遂から一年後に24枚目のシングル「Dear Friend」をリリースして、この曲もヒットします。
moonは、この事件の後、なんとなく中森明菜さんのオーラに薄いベールのようなモノを感じるようになりました。
しかしこのミステリアスなベールが、中森明菜さんの魅力に拍車をかけているように感じていました。
その後、しばらくテレビなどでもお見受けする事がありましたが、徐々にマスコミから離れて活動されるようになりました。
1995年に阪神淡路大震災が起こると、吉田拓郎さんや小田和正さん、それに泉谷しげるさんたちが、
かねてから、全国の被災地で行っていた被災地支援のチャリティーコンサートをまだ地割れも残っているような神戸の会場で企画します。
泉谷しげるさんが、その頃マスコミに出ない、活動もミステリアスだった中森明菜さんにダメもとで交渉したところ、「出させていただきます!」と快諾、交渉した泉谷しげるさんも驚いたと言う事でした。
震災から半年後の暑い夏の日だったと言う事でしたが、少し前の1995年6月9日に、中森明菜さんの家族の中では、唯一心のよりどころにしていたお母さんが亡くなって僅かしか経っていませんでした。
当時、ほとんど、公の場に見える事が少なくなってしまった中森明菜さんが出演した事で、コンサートは大盛り上がり、中森明菜さんも終始、笑顔で観客を勇気づけていたと言う事です。
クールで冷めているように見える部分と、温かく、または熱く心を揺さぶる中森明菜さんの存在。心の深さを感じるエピソードでもありました。
いかがだったでしょうか?中森明菜さんの若い時の情報にフォーカスしてみました。今でも、時折テレビなどで、明菜さんの映像が流れるとちょっとうれしくなるmoonなのでした。

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