GLAY若い頃!家族や幼少期、メンバーの出会い。デビューは大物が

ポピュラー

もう30年くらい前になりますが、GLAYと言うバンドが売れだします。心に響く歌詞と、染み入るメロディを奏でたかと思うと、激しいロックのノリの良いナンバーとなってテレビやラジオから流れます。

日本の音楽シーンの中で30年に渡り第一線で活躍されており、J-POPシーンには欠かせないユニットになっています。

30年の間にメンバーの名前や北海道の方達だと言う事も伝えられています。その辺の詳細の事を・・・、今回はGLAYの意味やそれぞれのメンバーの皆さんの詳細を紹介します。




GLAY若い頃!出身は函館。それぞれ奥さんや子供はいるの??

GLAYの4人の皆さんは、全員が北海道育ち、(HISASHIさんだけは、青森県八戸市出身)で、昔は北海道出身のバンドとして、紹介される事が多かったように記憶しています。

早速メンバーの紹介をしてみます。(年齢は全て2026年10月1日現在)

🔵TAKURO(タクロウ)さんは本名を久保 琢郎(くぼ たくろう)さんと言います。1971年〈昭和46年〉5月26日生れの55歳で、北海道函館市のご出身です。GLAYのリーダーで、ギタリストです。

又、GLAYの自主レーベルの『loversoul music & associates』と言う会社の代表取締役と言う顔もお持ちです。

奥さんはモデルの岩堀せりさんと言う方で、2005年10月に長男の方が、2007年10月に長女の方が生れており、長男は長身でイケメン、娘さんもスタイリッシュな美女と言う事なので、この後メディアに紹介される事もあるかもしれません。

ご家族は2018年からアメリカはロサンゼルスに在住し、そこを拠点に活動されています。

🔵TERU(テル)さんは、本名を、小橋 照彦(こばし てるひこ)さんと言います。1971年〈昭和46年〉6月8日 生れなので、55歳です。ボーカルを担当していますが、音楽に入るきっかけは、ドラムだったそうです。

北海道函館市の出身で、奥さんはPUFFYの大貫亜美さんです。TERUさんは、前妻の方がいらしたのですが、大貫亜美さんと結果的に不倫と言う形になってしまいました。その辺の詳細はPAFFYをご一読ください

前の奥さんとの間に二人のお子さんがいらして、大貫亜美さんの間には2003年に女の子を授かっています。

🔵HISASHI(ヒサシ)さんは1972年2月2日生れです。54歳ですね。本名は外村 尚(とのむら ひさし)さんと言います。他のメンバーとは違い、ご出身は青森県弘前市です。

GLAYのギタリストとして、活躍されてますが、その他にもRadio Carolineと言うバンドのウエノコウジさんとTHE MAD CAPSULE MARKETSと言うロックバンドの宮上 元克さんと、TERUと「rally」(ラリー)と言うバンドのリーダーを務めています。

その他にも女性ベーシストのTOKIEさんや、宮上 元克さん、EXILEのTAKAHIROさんがボーカリストを務めるユニット「ACE OF SPADES」でもギタリスト兼リーダーとして活躍されています。

HISASHIさんは、1999年12月に一般女性(ファンや関係者の間で「イズミ」さんと呼ばれる方)と4年間の交際を経て結婚しています。

息子さんがお一人いらっしゃるようです。

🔵JIRO(ジロウ)さんは、本名は和山 義仁(わやま よしひと)と言います。「えっ?ジロウ?じゃないの?」って思いますが、これは、前に所属していたバンド時代に名前を聞かれて、とっさに「ジロウ」と答えてしまい、それが何故なのか?ご本人も解らないそうです。

 1972年10月17日、函館市の生まれです。53歳です。ベースを担当しております。GLAYの他に、『THE PREDATORS ‐ザ・プレデターズ‐』と言うバンドのベーシストとして活動しております。

「WHAT’s IN?」と言うJ-POPの情報誌(2016年3月をもって休刊)の元編集者の方で水村玲子さんと仰る方と2000年12月に結婚されております。娘さんがお一人いらっしゃるようです。



GLAY若い頃!TERU、TAKUROは小学校から高校で3人が1つに!

TAKUROさんのお母さんは、久保貞子さんといいシャンソン歌手だったようです。TAKUROさんが3歳4か月の時、交通事故(自殺の可能性も?)で、父親を亡くし、お姉さんとTAKUROさんを、お母さんは必至で育てました。

他界したお父さんはその時まだ38歳の若さだったと言います。生まれ育った実家は函館の観光名所でもある五稜郭公園から徒歩10分ほどの場所にありました。

TAKUROさんは、小学6年生の一学期頃まで「鍛神‐きたしん‐小学校」に通っていました。この小学校では、一つ下の学年にJIROさんも通っていました。

TAKUROさんは、家庭の事情で小学6年生の夏頃に函館の桔梗駅の近くに引っ越し、函館市立桔梗小学校に通う事になります。

そこで、運命の出会いとも言うべきTERUさんと出会う事になります。しかし、その時は全3クラスの内の別々なクラスだったようです。

TERUさんは、野球少年で4年生の頃にレギュラーとなり、TAKUROさんと出会う頃の6年生の時には野球チームのキャプテンを務めていました。

TERUさんは、「なんだこの背の高い奴は!」と転校してきたTAKUROさんの事を思ったのだそうです。

お互い家が近所だったことから一緒に帰る事もしばしばあり、函館市立桔梗中学校でも同じ学年で3年間過ごします。

TERUさんは、相変わらず野球などのスポーツに打ち込んでいる中学時代で、まだ、音楽への傾倒はありませんでした。一方、TAKUROさんもサッカー部に所属しておりました。

傍ら、桔梗町に引っ越してきた小学6年生の終わりの頃から自宅の裏にあった新聞販売所で新聞配達のアルバイトをしていました。

早くにお父さんを亡くしてしまい、経済的に大変な家庭の中で、お母さんの支えになればと小遣いくらいは自分で稼ぐと友人にも話していた自立した子供でした。

TAKUROさんは、中学時代にBOØWYの「B-BLUE」を聴いたことでロックバンドを意識し、ビートルズの楽曲も深く聴きこんでいました。特にジョンレノンの楽曲から影響を受けています。

又、『イエローマジックオーケストラ‐YMO‐』のテクノミュージックからの坂本龍一さんの奏でる楽曲もその頃、聴きこんでいて、後に作曲を始める際に「自分の作るピアノ曲の背景には、いつも坂本さんが心にいる」と語るくらいリスペクトされています。

このちょっと何の脈絡も無いように見える多くのジャンルの音楽を聴いていた中学生の中で、培ったものが、後にGLAYとして日本のミュージックシーンへの与え続けるインパクトを築いたともいえるかもしれません。

やがて、中学を卒業すると、TAKUROさんは北海道函館稜北高等学校に入学します。同じ高校では、HISASHIさんと同級生になります。

HISASHIさんは、中学生2年生頃からエレキギターを弾いてみようと挑戦するのですが、全然思っていた事が出来ずに、押し入れに一年くらいしまいっぱなしになります。

HISASHIさんもやはり、BOØWY のギターリストの布袋寅泰さん影響を多大に受けています。その他にも邦楽では聖飢魔Ⅱ、洋楽のラモーンズやラフィンノーズなどパンクロックや、

アンダーグランドのマニアックな(本人曰く『極悪』な)音楽を聞いていました。又、テクノ等のデジタルアプローチのある曲も好きでした。

ギターはしまいっぱなしでしたが、高校生になったら、バンドがやりたいという思いは持ち続けていたのだそうです。

HISASHIさんは、やや内気な性格で、父は外科医でした。恐らく勤務医だったのでしょう。元々函館のご出身でしたが、HISASHIさんが生まれた頃には、青森県弘前市に住んでいました。

2歳で青森県七戸町に、4歳で青森県むつ市に、小学校4年生の頃、父の仕事の関係で、青森県むつ市から北海道函館市に引っ越す事になります。

引っ越しが多かったこともあり、又、内気だったこともあり、引っ越し先の函館市立日吉ヶ丘小学校時代はあまり居心地が良い訳ではなかったのかもしれません。

一歳年上の兄と遊ぶことが多く、兄の友人たちの情報が楽しかったようです。確かに小学生中学生の頃って1つでも年上だと情報が大人びて感じたりするものですね。

函館市立北中学に進学すると、間もなく外科医だった父が病気で亡くなってしまします。そつなく普通の中学生として過ごします。



GLAY若い頃!HISASHIとTAKUROの水と油のような音楽性が後に

TAKUROさんとHISASHIさんは北海道函館稜北高校に、TERUさんは北海道函館商業高等学校にそれぞれ進学します。

又、TAKUROさんは、高校に入学すると『GUEST-APO(ゲシュタポ)』と言うバンドを、TERUさんは、聖飢魔Ⅱのコピーバンドでドラムスを、又、HISASHIさんは『蟻』と言うバンドをやっていましたが、

それぞれうまく行かず、短期間で解散や脱退しています。高校二年生のクラス替えの時に、 HISASHIさんとTAKUROさんは同じクラスになります。

TAKUROさんの明るい青春路線の音楽とHISASHIさんのどちらかと言うとダークなパンクミュージック寄りの嗜好は水と油の様に、かみ合いませんでしたが、お互いに音の出し方、テクニカルな部分で興味を持ち仲良くなります。

TAKUROさんは、HISASHIさんと出会う少し前の高校1年生の終わりに、電話でTERUさんに「オリジナル曲だけのバンドを一緒に作らないか?」と持ち掛けます。

1988年の3月に、TAKUROさんがギター、TERUさんはドラムで活動を始めました。しかしTAKUROさんが、TERUさんの歌のうまさに気が付き、「ドラム探してくるから、ボーカルやって!」とTERUさんはボーカルに、のちに、HISASHIさんが加入します。

その頃は、会社員をしていたTERUさんの家が一番広く、オヤツや夜食が出る事もあると言うので、防音設備もしっかりしていてドラムを入れた練習も出来ていた為、たまり場の様になっていたようです。

一方1989年、函館大谷高等学校の高校生だったJIROさんはインディーズバンド「ピエロ」にベーシストとして加入していました。

当時、地元・函館ですでに人気絶頂だったGLAYと、何度か対バンするライバル関係にあるバンドでした。

1990年8月、すでに上京して活動していたGLAYが函館に戻りライブを行った際に、「ピエロ」と再び対バンを行います。

当時のGLAYは、函館では人気でしたが、東京では鳴かず飛ばずの状況で、ライブも人が入らず苦戦を強いられていました。

人気番組『いか天‐いかすバンド天国‐』出る機会にも恵まれますが、酷評されておりました。

しかし打ち上げで、TAKUROさんやTERUさんから「東京楽しいよ」「お前のバンドももったいないから、東京来いよ」と声をかけられ、JIROさんは上京を決意します。

1991年になると、「ピエロ」はバンドごと上京してはみますが、徐々に音楽性の違いや地元での活動と同じようには行かず、敢無く解散してしまいます。

そこから、JIROさんは自分の足で、新たなメンバーを求め、張り紙などをして募集しますが、いまのようにSNSなどが普及する前のお話です。

なかなかうまく行かず、工事現場や印刷会社の営業員などで働き、音楽をやる事を諦めかけていました。一方、GLAYも、ドラムやベースのメンバーが安定せず、ライブの動員数もからっきしの状況でした。

メンバーはそれぞれ、普段はアルバイトにつき、多少のメンバーチェンジを受けながらバンド活動を続けました。

その頃、ライブハウス楽屋での盗難や機材の破壊などを、GLAYのメンバーが当時4人がやったのではと、一方的に決めつけられた事件などがありました。

リーダーのTAKUROさんは、大きなショックを受け、地元の函館に戻ろうとまで考えたそうですが、TERUさんが、「何、言ってるんだ!」と強く咤し、思い留めたと言う事があったGLAYの大きな危機でもありました。

メンバーが安定せずに、紆余曲折の中、以前からJIROさんの実力を知っていたTAKUROさんがJIROさんに声をかけ、GLAYへの加入を打診します。

最初はもう音楽への情熱も冷めかけていたJIROさんは、サポート要員として、軽い気持ちで加入します。

JIROさんが加入して初めて行った横浜でのライブは、観客がわずか7人というありさまでしたが、活動を共にする中で、GLAYのメンバーの人柄やモチベーション、勿論、曲自体の良さに魅了されてゆき、正式なメンバーとなります。



GLAY若い頃!JIRO参加!観客の中に世界的ミュージシャンが!

その頃のGRAYの出で立ちは、当時のムーブメントともなっていたビジュアル系のメイクを施しておりましたが、JIROさんの提案で化粧を薄くしたりナチュラルに控えめにしてゆきました。

又、JIROさんは、精力的にライブハウスなどを周り、売り込みに走ります。 間違いなく、JIROさんが加入した事は、GLAYにとって大きなターニングポイントになったのだと思います。

『魔女狩りナイト』と銘打ったライブイベントを開始し、徐々に観客動員が増えだした頃です。

1993年10月17日、市川CLUB GIOでのライブを見つめる一人の男がいました。X JAPANのYOSHIKIさんでした。

これ程の才能を持ちながら、あるいは、これから飛躍する事が出来る原石として、GLAYのパフォーマンスを見たYOSHIKIさんは、デビューが決まっていないと言う事に驚き、自らスカウトしました。

ヨシキさんは、主宰を務める二つのレーベルから、インディーズレーベルからオリジナルアルバム『灰とダイヤモンド』、プラチナム・レコードから1stシングル「RAIN」の同時発売でメジャーデビューを果たします。

1994年5月25日、TERUさん、TAKUROさん、HISASHIさんが上京して4年ほどの歳月が過ぎていました。

この後は、1996年に発売したセカンド・アルバム『BEAT out!』が初のオリコンチャート1位になり、同じ年発売の3rdアルバム『BELOVED』ではミリオンセラーを達成すると言う活躍ぶりでした。

次の年の1997年にリリースされたベスト・アルバム『REVIEW-BEST OF GLAY』は累計売上枚数は480万枚と言う、その頃のアルバム売上の記録を塗り変える快挙を達成します。

その後の活躍ぶりから、誰もがバンド名を知っている存在として日本の音楽シーンの第一線にいらっしゃいます。

さて、『GLAY』と言うスペルですが、色のグレーのスペル『GRAY』とは違います。一節には、メンバーがスペルを間違えたけど、この方がかっこいい。となったとか?インパクトを狙ったとか言われています。

グレーである意味は、ロックを黒とするとメロディアスなバラードやポップスを白と捉えて、どちらでもない、又はどちらでも演奏が出来るバンドを目指したのだそうです。

まさに、今、GLAYが奏でる音楽がそうであるように。

いかがだったでしょうか?今回はそれぞれの4つの個性が、30年以上も融合し、活動を続けているGLAYの皆さんのお話でした。

コメント

タイトルとURLをコピーしました